人麻呂の持統・文武批判
人麻呂が軽皇子を詠んだ中の次の一首を見てみよう。
ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とそ来し (1-47)
岩波書店の『萬葉集一/日本古典文学大系』(5705)では、大意を次のように示している。
草を刈る荒野ではあるが、亡くなられた草壁皇子の記念の地であるとてやってきたことである。
46~49の反歌を「起承転結」のワンセットとして捉えると(08年8月28日の項、29日の項)、47番歌は46番の「起」をうけて自然である。
この歌に関して、李寧熙氏は、次のように解読している(『甦える万葉集』文藝春秋(9303))。
<原文>
真草刈荒野者雖有葉過去君之形見跡曾来師<真の訓み下し>
真草刈(鉄を研ぐ)
荒野者(アラ人は)
雖有葉(すぐさとり言うであろう)
過去(懐刀)
君之(ひび入り)
形見(取りに入れば)
跡曾来師(失敗する)<大意>
軽皇子よ。
鉄物づくりの、アレカラ(下加羅即ち金官伽耶)人である君は、
すぐ事をさとって言うであろう。
ふところ刀に ひびが入ったので 取り入れに問題が生じたと。
李氏は、「軽皇子は持統天皇の孫ではなく、草壁皇子の長子でもなかったと断言して憚らない」と言い、小林惠子氏の「文武王→文武天皇」説を支持している。
そして以下のように解説している。
金官伽耶は、現在の慶尚南道南端の豊かな平野一帯に位置していた古代王国で、韓国最長の大河・洛東江の下流にあたる。
この河口から対馬や出雲地方へ流れる海流がスタートしており、金官伽耶の首都だった金海は、韓国と日本を結ぶ絶好の港だった。
1世紀頃に建国したとされる伽耶諸国の中で、金官伽耶と上流の大伽耶が二大勢力を競っていた。
金官伽耶の建国王は、金首露王であり、新羅の名将・金庾信は、金首露王の12代孫にあたり、文武王はその甥にあたる(08年8月24日の項に記載の小林惠子説)。
金官伽耶は、532年に新羅に併合される。
文武王が、金庾信の甥であるということは、文武王には金官伽耶の血が流れているのであり、文武王が文武天皇になったとすれば、文武天皇にも金官伽耶の血が流れていたことになる。
洛東江上流の大伽耶は「ウガヤ:上伽耶」と呼ばれ、下流の金官伽耶は「アラガヤ、アレガヤ:下伽耶」と呼ばれていた。「ウ」は「上」の、「アラ、アレ」は「下」の意である。
李氏は、『日本書紀』の神代下に登場する「ウガヤフキアエズノミコト」の「ウガヤ」は、「鳥のウの羽をカヤとして産屋を葺く意」と解されているが、「大伽耶」から日本に進出してきた渡来神と理解すべきだという。
また、多量の銅剣の出土で知られる「出雲・荒神谷」の「荒」は「アラカヤ」の「アラ」を示すものだろう、とする。
『魏志倭人伝』に登場する「狗邪韓国」の「狗邪」は「グヤ、グサ、グジャ」と読む。
軽皇子の「軽」も「ガラ、ガヤ」をあらわす日本風表記である、とする。
人麻呂は、このような背景において、「アレガヤ」の者である軽皇子を歌に詠むのに、「草」の字を用いた。
伽耶の基盤は、強大な鉄文化であったが、ガルは「刀」も意味する語であり、鉄とともに存在した「加羅」「伽耶」にぴったりの国名である。
軽皇子は、「伽耶の皇子」「刀の皇子」「製鉄国の皇子」を意味することになる。
上記の47番歌に対する李氏の大意の「ふところ刀に ひびが入ったので 取り入れに問題が生じたと」の部分は分かりづらいが、「刈:ガル」「去:ガル」「之:ガル」と19字のうちの3字も「ガル」つまり「刀」を表す文字を使って怒りをぶちまけている、と解説している。
そして、人麻呂は、持統と文武の関係に対して、「文武を切れ」と怒っているのだ、としている。
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