網干善教氏と石舞台古墳
網干善教(構成・太田信隆)『高松塚への道』草思社(0710)に、高松塚古墳発見の経緯が語られている。
網干氏は、明日香村で生まれ育った考古学者であった。実家は、唯称寺という浄土宗のお寺で、石舞台古墳のすぐ下にあった。
石舞台古墳は、明日香観光の定番なので、訪れた人は多いだろう。
巨大な石に驚かされる。石の総重量は、2300トンに達するといわれている。
古くから玄室が露出していたが、昭和8年から、京都大学考古学教室によって本格的な発掘が行われた。
網干氏は、昭和2年生まれだから、発掘が始まった時にはまだ小学校の就学以前だった。
発掘作業にトロッコを使っており、そのトロッコに乗せて貰うのが楽しかった、という。
網干氏が考古学を専攻するようになった、いわば原体験ということになるだろう。
(写真は、http://www.kasugano.com/kankou/asuka/index4.htmlよりコピー)
網干氏は、旧制の畝傍中学に入学する。
畝傍中学は、土地柄なのであろうか、樋口清之、森本六爾などの考古学者などの出身校で、網干氏の入学する前に、有名な高橋健自氏が赴任してきていた。
その高橋氏の影響で、卒業生が考古出土品を、学校に持ち込んできた。それらを収蔵した部屋があって、徴古室と命名されていた。
その当時、このような部屋を持った中学校など、日本で唯一であったと思われる。
網干氏は、畝傍中学の考古学部に入り、日色四郎という先生に、橿原考古学研究所に連れていかれる。
橿原考古学研究所は、紀元2600(昭和15)年に橿原神宮の大造営が行われた際、橿原神宮の外苑から出土した土器を調査するために、奈良県が設立したもので、初代の所長は末永雅雄氏だった。
専任の研究員がいるということではなく、考古学の勉強をしたい人が集まっていたという。
末永雅雄氏は、京都大学の考古学教室で、卒業はしていないが浜田耕作氏の教えを受けた(WIKIPEDIA/08年3月4日最終更新)。
網干氏が大学へ入学する頃は、龍谷大学で講義を持っていた。
末永氏に相談をして、網干氏は龍谷大学に入学し、学部-大学院の間だけでなく、卒業して副手になってからも、さらには講師になってからも末永氏の講義を聴いた。17年間に及ぶという。
龍谷大学は、有名な大谷探検隊をシルクロードに派遣したことで知られるが、考古学、歴史学、仏教学などに多くの学者を擁していた。
戦争が終わり、中断していた考古学の調査を再開させようという気運が盛り上がってきた。
石舞台古墳が第一にノミネートされた。戦前に発掘に携わった諸先生は、いずれも重鎮になっていたから、網干氏が現場の指揮をとることになった。
網干氏は、昭和29年から33年まで、石舞台古墳の復元工事を担当した。
石舞台古墳は、蘇我馬子の墓である、というのが定説であるが、封土を剥ぎ取られた横穴式石室がむき出しになったものである。
石室の全長は約19メートルあり、この種のものとしては最大だという。玄室の内法は、長さが約7.7メートル、幅が約3.4メートル、高さが約4.8メートルあった。
石の産地は、奈良盆地の南東にある多武峰のふもとを流れる冬野川の上流と推定されている。石舞台古墳まで、約3キロメートルの距離がある。
古人の技術力に感嘆の念を覚えるのは私だけではないだろう。
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