被葬者推論の条件…③地域の特性
高松塚古墳は、明日香村大字平田字高松にある。
従来、高松塚とか高松山と呼ばれてきた。塚と古墳は同じようなものだから、高松塚だけでもいいようなものであるが、壁画発見以来、高松塚古墳という呼び方が定着しているようである。この地域は、檜隈(ヒノクマ)といわれる地域で、石舞台古墳、飛鳥寺、飛鳥の宮跡などのある高市地区の西側に位置する。
高松塚古墳の北側には、菖蒲池古墳があり、その南側に天武・持統陵がある。
天武・持統陵が藤原京の朱雀大路の延長線上にあることが、岸俊男(故人:京都大学教授:当時)によって指摘されていた。
いわゆる「聖なるライン」と呼ばれる線である。
岸氏自身は、その意義については慎重な立場を保持していたようであるが、1/3000の地図でみると、菖蒲池古墳、天武・持統陵、文武陵が、南北ほぼ一直線に並んでいる。
中尾山古墳と高松塚古墳は、その西側に100メートルほどずれている。
檜隈地域には、渡来人が多く居たといわれる。
(地図は、末永雅雄編『シンポジウム高松塚壁画古墳』創元社(7207)より引用)。
同書で、秋山日出雄氏(橿原考古学研究所研究員:当時)は、大略次のように説明している。
檜隈という地域は、渡来人が住んでいた場所で、檜隈にある檜隈寺は、檜隈にいた東(倭:ヤマト)の漢(アヤ)氏の氏寺だろうと言われている。
『続群書類従』に、「坂上系図」というものがある。それを見ていくと、欽明天皇のときに、大陸が渡来人がやってきて、今来郡というのを作り、それが後の高市郡であると書かれている。
つまり、高市郡一帯には、渡来人が大勢いたと考えられる。
『続日本紀』の宝亀3(772)年の坂上氏の上奏文には、高市郡の十姓のうち、八、九姓までは坂上一族であるとある。
倭漢(ヤマトノアヤ)氏には、平田宿祢や平田忌寸という一族がいるが、高松塚のあるあたりが現在の平田ということになる。
渡来人は、大和南部全体に住んでいたと考えられるが、その中でも特に檜隈を中心とした地域に多く住んでいたと考えられている。
飛鳥に都が置かれた一つの原因は、このような渡来人の存在があったことが考えられる。
それを踏まえて、源豊宗氏(文化財審議会専門委員:当時)は、高松塚の被葬者を渡来人と考える、としている。
檜隈が渡来人の拠点だったということから、司馬遼太郎や松本清張などの小説家は、被葬者を朝鮮系の渡来者とみている。
これに対し、直木孝次郎氏(大阪市立大学教授:当時)は、檜隈の域内に、天皇の陵が一つならず設けられていることは、渡来者の色彩は強いにしても、それ以外の貴族の墓が設けられないほど規制力の強いものではなかった、とする。
直木氏は、このような位置関係からして、高松塚のある地域は、天皇ないしそれに関係のある人たちの墓地とみるべきだ、とする。
つまり、直木氏は、被葬者は、朝鮮系渡来者よりも、天皇と関係の深い人というように考えた方が妥当だろうと考えているということである。
しかし、そもそも天皇家のルーツは朝鮮系渡来者との説もあり(08年4月25日の項)、文武天皇と新羅・文武王とが同一人という説もある(08年8月21日の項)。
朝鮮系渡来者と天皇家と関係に深い人というのは、必ずしも二律背反ということではないのではなかろうか。
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