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2008年9月 8日 (月)

様々なる被葬者論

高松塚の被葬者については、専門家・研究者は、発言に慎重であるべきだ、という意見がある。
そうかも知れないが、被葬者を推測することは、この古墳の築造されたであろう時代の像を捉える上でも重要なポイントであると思われる。
高松塚古墳は、発見以来センセーショナルに報じられてきたこともあり、被葬者に対して様々な見解が提示されてきた。
しかし、現時点に至るも決定打と評価されているものはないようである。

奈良新聞の連載記事『高松塚光源』では、以下のような諸説を紹介し、以下の3つに大別できるとしている。
http://www.nara-np.co.jp/special/takamatu/vol_02d_01.html
(なお、所属・肩書きはWIKIPEDIA(08年9月2日最終更新)を参照して補足した)
1.天武の皇子たちなどの皇族
2.上級の臣下
3.海外の王族

1.直木孝次郎氏(大阪市立大学名誉教授)
忍壁皇子
人物像の服装や立地から考えられる条件は、以下の3つ。
(1)686年から710年(または701年から719年)に死んだ人物
(2)大納言以上で天皇かその近親者の可能性が強い
(3)熟年男性
忍壁皇子はすべての条件を満たしている。

2.王仲珠氏(中国社会科学院考古研究所研究員)
忍壁皇子
高松塚の海獣葡萄鏡は中国・陝西省の独孤思貞墓で出土した海獣葡萄鏡(7世紀末)と同笵(どうはん)関係にあり、704年帰国の遣唐使によってもたらされた可能性が強い。7世紀に死んだ皇子たちはこの鏡を副葬できず、忍壁皇子だけが被葬者になりえる。

3.猪熊兼勝氏(京都橘女子大学教授)
忍壁皇子
四神図や星宿は皇族の独占物だった。高松塚の壁画が描けるのは天武直系の皇子しかいない。「聖なるライン」は北で天智陵を結び、天子の象徴である北斗七星を表したのではないか。人骨の鑑定年齢からも忍壁皇子がふさわしい。

4.菅谷文則氏(滋賀県立大学教授)
弓削皇子
忍壁皇子を含め、持統天皇以後の皇族たちは火葬された可能性が強い。弓削皇子が没した699年は持統の火葬以前。出土した須恵器からも藤原遷都(694年)直後の古墳といえる。平城京に移ってからの帰葬は反逆行為。

5.梅原猛氏(哲学者)
弓削皇子
頭蓋骨を取り除いて壁画を傷つけたのは怨霊(おんりょう)の復活を恐れたため。
被葬者の条件は以下の3つ。
(1)天皇、皇太子、親王など極めて身分の高い人物
(2)築造年代は710年以前
(3)反逆の皇子
弓削皇子は謀反罪で処刑されたと推定され、これらの条件を満たす。

6.原田大六氏(故人:考古学者)
高市皇子
高松塚古墳壁画の素材はすべて九州の装飾古墳にある。高市皇子の母親は九州出身の尼子娘。藤原京朱雀大路の延長上にある立地条件からも天武天皇との関係が考えられる。男子像は壮年が中心で、高市皇子の死亡年齢と一致している。

7.和田翠氏(奈良県立橿原考古学研究所?)
葛野王
文武天皇が葬られた「安古」と十市皇女が眠る「赤穂」は同じ地域。中尾山古墳が真の文武陵とすれば、その一帯が「安古」「赤穂」だったと考えられる。すぐ隣りの高松塚古墳には、大友皇子と十市皇女の間に生まれた葛野王が葬られた可能性がある。

8.河上邦彦氏(奈良県立橿原考古学研究所、現神戸女子大学教授)
天武の皇子・皇女
「聖なるライン」を東限として想定できる墓域は岸説の藤原京とほぼ同じ大きさ。これが天武の陵園で、そこに築かれた高松塚古墳には、天武の皇子・皇女が葬られた可能性が強い。藤原京の南西に「死者の都」が形成されていたのはないか。

9.岡本健一氏(京都学園大学教授)
石上麻呂
男子像にさしかけられた深緑の蓋(きぬがさ)は被葬者が一位の人物であることを示している。石上麻呂は没後に従一位を追贈された。藤原京の留守司を務めたので飛鳥に葬られたのだろう。78歳という没年も「熟年以上」の鑑定結果に矛盾しない。

10.白石太一郎氏(奈良大学教授)
石上麻呂
壁画は被葬者の威儀を示しており、深緑の蓋も被葬者にさしかけたと考えるべき。左大臣・石上麻呂を輩出した物部氏が、その喜びと一位の格式を表すために壁画を描かせた。出土した大刀は正倉院に伝わる金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうからたち)と同じ形式で、奈良時代の古墳と考えられる。

11.千田稔氏(国際日本文化研究センター教授)
百済王禅光
四神や星宿が描かれた壁画古墳は「宇宙王」の墓。舒明天皇が百済宮や百済大寺を造営したように、天皇家には百済に大変な親近感を持っていた。人質のまま故国を失った百済王禅広のために、百済の伝統に基づく古墳を造ったのではないか。

12.堀田啓一氏(高野山大学教授)
高句麗の王族
高松塚には高句麗の古墳に描かれた画題が統合されている。高句麗の滅亡は668年で、亡命してきた高句麗の王族クラスを被葬者と考えることもできる。

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