被葬状態の謎と大宝元年正月の朝賀
高松塚の被葬者について、考古学・歴史学の専門家の間で、慎重論が強い中で、梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)で、精細な推論を展開している。
同書の第二章は、「推論の条件」と題され、梅原氏の推論がいかなる前提で進められたかが記されている。
梅原氏によれば、「孤高の古墳」である高松塚古墳は、以下のような「はなはだ奇怪なる四つの謎」を秘めている(p57)。
一つは、この被葬者の遺骨には頭蓋骨も下顎骨も共にないことである。つまりこの死骸は頭なき死体であったのである。そして第二に、この副葬品は、鏡と大刀と玉が残されていたが、その大刀には刀身がなかったことである。第三に、この壁画の四神のうち玄武の頭はけずりとられ、日月は、その面を故意にはぎとられていたことである。第四に星宿にはかんじんの帝王を表す北斗七星がないことである。
『続日本紀』の大宝元(701)年の元旦に朝賀の儀式の様子が記されている(宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206))。
春正月一日、天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀式の様子は、大極殿の正門に烏形の幢(先端に烏の像の飾りをつけた旗)を立て、左には日像(日の形を象どる)・青竜(東を守る竜をえがく)・朱雀(南を守る朱雀をえがく)を飾った幡、右側に月像・玄武(北を守る鬼神の獣頭をえがく)・白虎(西を守る虎をえがく)の幡を立て、蕃夷(ここでは新羅・南嶋など)の国の使者が左右に分れて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。
07年の大晦日の各紙は、藤原宮南門前から、大規模な柱穴列が見つかったことを報じ、それが『続日本紀』に記された朝賀の儀式の傍証であるとされた(08年1月1日の項)。
梅原氏は、次のように書く(p51)。
大宝元年(七○一)の元旦、宮廷では、四方に四神と日月の旗を立て、盛大な朝賀の儀式がもよおされた。大宝元年といえば、「大宝律令」が制定され、律令の事実上の制定者藤原不比等が、独裁的権力を確立する第一歩をかためたときである。この塚では、この朝賀の儀式と同じように、四神、日月の旗がたち、そして岸俊男氏がいうように、十六人の男女が、今しも朝賀の儀式を行おうとしているのである。
しかし、この暗い狭い塚の中で、行われんとしている朝賀の儀式には、決定的な欠如が存在していたのである。この儀式の主役には頭がなく、この人物は三種の神器らしいものをもっているが、刀には刀身がなく、また、彼をとりまく世界の日月は欠け、玄武には頭なく、星宿には、天皇のしるしの北斗七星が欠けていたのである。
梅原氏によれば、この古墳は地元の人にとって、特別な意味をもった古墳だった。
明日香村には数多くの古墳があるが、この古墳だけが神としてまつられていたのだという。
この古墳は、古宮と称せられ、字上平田に住む共通に橘の紋をもつ九軒の家の人によって代々祭られてきた。
古宮の講の代表者・前田忠一氏は、梅原氏と毎日新聞社の青山茂氏に次のように語ったという(p59)。
この高松塚の発掘の前に、坊さんがきて慰霊祭をしたというが、わしらから見れば、どうも納得がいかん、あの塚は神様が祭ってあるというのがわしらの確信だ。それなのに、坊さんが来て慰霊をするのは何事だ。神さんは怒っていられるにちがいない。
網干善教(構成・太田信隆)『高松塚への道』草思社(0710)には、昭和47年3月6日に、慰霊法要をしたとある。
網干氏は、人の墓を掘るのだから、きちんと慰霊法要をしてから発掘するというのが、末永雅雄氏の考え方であって、橿原考古学研究所の慣わしであったという。
前田氏のいう坊さんが、網干氏だったのかどうかは確証はないが、なかなか微妙な問題だと思う。
梅原氏は、高松塚の被葬者が神として祭られてきたことに関して、柳田国男の「人を神に祀る風習」を参照する。
死者を神として祀る慣行は、確かに今よりも昔の方が盛んであった。しかしそれと同時に、今ではもう顧みない一種の制限が、つい近い頃までは全国的に認められて居た。
……
(人を神として祀るについて)年老いて自然の終りを遂げた人は、先づ第一に之にあづからなかった。遺念余執といふものが、死後に於いてもなほ想像せられ、従って屡々タタリと称する方式を以て、怒や喜の強い情を表示し得た人が、このあらたかな神として祀られることになるのであった。
梅原氏は、「高松塚の被葬者は、柳田国男のいうような運命をもった人であるということになる」としている。
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