高松塚古墳の発見
高松塚古墳の発見は、考古学上戦後最大の発見だとされる。
昭和47(1972)年3月21日、奈良県明日香村の高松塚古墳で、極彩色の壁画が見つかった。
(写真は網干善教(構成・太田信隆)『高松塚への道』草思社(0710))。
古墳は、翌昭和48年4月に特別史跡に指定され、壁画は昭和49年4月に国宝に指定された。
高松塚古墳は、明日香村が整備計画を立てるに際し、この地域一帯を詳しく調べるために、奈良県立橿原考古学研究所に発掘を依頼したことから発掘調査が始められ、その調査の過程で発見された。
所長は、考古学の泰斗の末永雅雄博士で、末永博士の指揮の下に、現場でリーダーを務めていたのが、網干善教関西大学助教授(当時)だった。網干氏は、明日香村の出身で、橿原考古学研究所の所員を兼務していた。
高松塚古墳は、より充実した研究と保存管理を行うために文化庁に移管された。
文化庁は、温度・湿度を制御する装置を設けて保存に努めたが、平成14(2002)年から翌年にかけての調査で、壁画に大量のカビが発生していることが分かった。
また、退色して黒ずんでいる部分もあった。
文化庁は、古墳の内部では、壁画の劣化を防ぐことは困難と判断し、平成17(2005)年6月、恒久保存対策検討会を開いて、古墳の解体を決めた。
07年に専門家によるプロジェクトチームが実物大
の墳丘や石室でリハーサルした上で、4~8月に特別史跡の墳丘・石室を解体し、壁画の補修が行われている。
高松塚古墳は、人目につかない小さな古墳であった。
(写真は、梅原猛『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306))。
そのような古墳に、鮮やかな彩色壁画が描かれていたことが、専門家だけでなく、一般の歴史・考古学愛好家を驚かせた。
装飾古墳の存在は、中国や朝鮮半島では知られていた。また、北九州においても、やや趣きは異なるが、装飾古墳が存在していた。
しかし、畿内に存在するとは想定されていなかった。
高松塚古墳は、終末期古墳の後期という時代区分に属する。
つまり、古墳文化の最終段階のものとして位置づけられる。
古墳は、中期から後期へ、さらに終末期にと、次第に小さくなっていく。高松塚古墳は、そういう傾向の中においても規模の小さなものであったが、その内部に、中国や朝鮮半島に繋がる鮮やかな壁画を持っていた。
東アジア史におけるわが国の位置づけを再考する契機になる発見であった。
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