正史と『万葉集』
持統天皇(および藤原不比等)の体制に批判的だったと思われる弓削皇子は、梅原猛氏が、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮文庫(9007)において、高松塚被葬者に比定したことで知られる。
しかし、梅原氏もいうように、正史に殆ど登場しない人物である。
『日本書紀』には、天武2(673)年の即位記事に、諸皇子にまじって名前が出ている。
二月の丁巳の朔癸未に、天皇有司に命せて壇場を設けて、飛鳥浄御原宮に即帝位す。正妃を立てて皇后とす。后、草壁皇子尊を生れます。先に皇后の姉大田皇女を納して妃とす。大来皇女と大津皇子とを生れませり。次の妃大江皇女、長皇子と弓削皇子とを生れませり。(後略)
次に持統7(693)年正月の記事である。
七年の春正月の辛卯の朔壬辰(二日)に、浄広壱を以て、皇子高市に授けたまふ。浄広弐を、皇子長と皇子弓削とに授けたまふ。
そして、死亡記事である。
癸酉浄広弐弓削皇子薨ず。浄広肆大石王、直広参路真人大人等を遣して、喪事を監護せしむ。皇子は天武天皇の第六の皇子なり。
つまり、正史に登場する弓削皇子は、「出生(母親)」と「一度だけの叙位」と「死去」だけである。
これに対し、既に見たように(08年8月22日の項、26日の項)、『万葉集』においては、存在感を示している。
弓削皇子の作歌が合計8首あり、額田王の歌(8月23日の項)や春日王の歌(26日の項)など以外にも、彼に贈った歌や挽歌などがある。
梅原氏は、上掲書の中で、「弓削皇子は、大津皇子や草壁皇子や、高市皇子とならんで、あるいは、それ以上に、はっきりとした姿を現している」としている。
そして、正史と『万葉集』のこのコントラストにこそ、古代史の謎を解く最大の鍵があるとする。
つまり、『日本書紀』は、藤原氏を中心とする権力側の歴史である。自己に都合の悪い一切の事実が故意に抹殺されている。
一方、『万葉集』は、藤原氏を中心とする律令体制の中で没落していった大伴氏などによって作られたものであり、権力側と逆な視点で書かれているのではないか。
権力側によって抹殺された事実を、忠実に書き留めようとする遺志が働いているのではないか、と梅原氏はみる。
そのことは、一方においてのみ現れ、一方において現れない人物こそ、もっとも問題となる人物、ということになる。
『日本書紀』側の藤原不比等、『万葉集』側の柿本人麿の対比によって、この時代の像が明確になる。
その意味で、弓削皇子は、『万葉集』においては、大津皇子と並んで天武の皇子の中でも個性的な姿を見せる一方で、『日本書紀』や『続日本紀』にほとんど登場しないという大きな差異を持っており、古代史の鍵を握る人物の1人として位置づけられる。
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