高松塚古墳のポジショニング
梅原猛『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)は、高松塚古墳は、「異常なる古墳」であるとする。
第一は、もちろん華麗な壁画をもっているという点において、である。
後に、同じ明日香村にある「キトラ古墳」にも壁画が描かれていることが分かったが、壁画を有する古墳が希少であることは間違いない。
梅原氏は、高松塚古墳は、「その壁画の華麗さにたいするこの古墳そのものの小ささにおいても、また異常なのである」としている。
古墳は、中期から後期へ、後期から終末期へと徐々に小さくなっていくが、高松塚古墳は、終末期古墳としても、とりわけ規模が小さい古墳である。
高松塚古墳の実測図をみると、直径は約18メートル、高さは約5メートルである。
梅原氏は、この古墳の大きさは、方九尋、高さ二尋半であって、薄葬令と関連づけて考えると、土盛りの広さは王(ミコタチ)以上であり、高さは大徳小徳にあたる下臣(ヒクキマエツキミ)、四位相当の人に相当する、とする。
石槨の大きさは、幅1.035メートル、高さ1.134メートル、長さ2.655メートルである。
これを、幅・高さ約3尺、長さ7.5尺と換算すると、石槨をつくり得る最低層の石槨よりも一段と小さい。
墓域の大きさも、同時代と見られる天武・持統陵に比定されている檜隈大内陵、草壁皇子陵に比定されている真弓丘陵、文武天皇陵に比定されている檜隈安占上陵、高市皇子陵に比定されている三立岡陵などに比べると、はるかに小さい。
つまり、高松塚古墳ははなはだ小さな古墳であるということになる。
梅原氏は、次のように問う。
なぜ、人眼につかない丘の一隅につくられたこのようなささやかな古墳に、あのような壁画がかかれねばならなかったのか。この古墳の見かけの小ささと、その内部の立派さとは、あざやかなコントラストをなすが、それは何ゆえか。
高松塚古墳は、ほぼ藤原京の中央、朱雀大路の南への延長上、いわゆる「聖なるライン」のやや西へずれたところに位置している。
この中央線上に、菖蒲池古墳、天武・持統天皇陵、文武天皇陵がある。
その位置からすると、天武・持統天皇の近親者が葬られている可能性が高いと推論される。
また、壁画に描かれている、日月、四神、人物像、星宿からして、被葬者は、王者として位置づけられていると理解される。
(図は、奈良新聞の連載記事『高松塚光源』から引用)。
http://www.naranp.co.jp/special/takamatu/vol_02d_01.html
梅原氏は、考古学の泰斗・斉藤忠氏の次の言葉を引用している。
高松塚古墳は、日本の装飾古墳または壁画古墳、あるいは壁画横穴の系統の中から、まったく別格な特殊な存在なのである。私は高松塚古墳の日本装飾古墳中に占める地位を一と口で表現せよといわれたならば、次のように答えるであろう。「孤高の古墳」と。
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