紀皇女は文武帝の后か?…梅原猛説(ⅸ)
文武天皇の婚姻関係は以下のようであった。
①皇后は不在
②藤原不比等の娘・宮子が夫人
③石川・紀の両娘が、最初は妃として位置づけられながら、後に嬪と称することも禁じられた
③については、石川・紀の両娘は、最初から嬪で妃とされたのは誤った記述という考え方もできるが、妃から嬪へ格下げされ、さらに嬪と称することもできなくなった、とも考えられる。
梅原猛氏は、後者であろうと推測し、私もそういう感じがする。
宮子は、後に聖武天皇となる首皇子を産みながら、夫人のままだったのは、それまで、皇后の地位が皇族出身者に限られていたからである。
いくら不比等の娘とはいえ、当時の状況では、皇后の座に位置することはできなかったのだろう。
また、先の表に見るように、文武朝は、皇后冊立権の転換期であった。
つまり、文武天皇(軽皇子)までは、皇后候補は、皇族から選ばれるはずであったが、次の聖武天皇の場合には、反対はあったものの、最終的に不比等の娘の光明子が立后した。
文武天皇は、草壁直系の、持統天皇の待望久しい天皇であった。
その文武にまったく皇后を迎えようという動きはなかったのであろうか?
もし、皇族の中から皇后となる可能性のある女性が、文武天皇に嫁いだら、天皇家の外戚となることを戦略としていた藤原不比等にとって、大きな障害になったに違いない。
しかし、后となるべき可能性のある人は誰もいなかったということであろうか?
それまでのように、近親の皇族の中から后候補者を選ぶとすれば、当時の状況からすれば、天智、天武の系統の皇女の中から選ばれていたと思われる。
文武帝(軽皇子)が草壁の本当の子供であったかどうかは疑問の残るところではあるが(08年2月6日の項)、草壁皇子の子供には、後に元正天皇となる氷高皇女と長屋王妃となる吉備内親王がいる。
この2人皇女の娘、すなわち軽皇子の姪は、年齢的に若すぎて、軽皇子の妃となる可能性はないだろう。
草壁皇子の妃の阿閉皇女(後の元明天皇)は、天智天皇の皇女で持統の異母妹であり、草壁にとっては叔母にあたる。
軽皇子の場合、叔母の可能性はどうであろうか?
草壁にとっての阿閉皇女の立場は、軽皇子にとっては、天武の皇女ということになる。
天武の皇子・皇女のランク分けについては先に見た通りである(08年9月24日の項)。
Aクラス、つまり持統帝の生んだ皇女はいない。
Bクラス、つまり持統帝の姉妹の生んだ皇女には、大津皇子の姉の大来皇女がいるが、年齢的にも対象外である。
Cクラス、つまり豪族の生んだ皇女には、但馬皇女、紀皇女、田形皇女がいる。
Dクラス、つまり豪族以下の氏族の生んだ皇女には、泊瀬部皇女、託基皇女がいる。
但馬皇女は、「高市の宮に在り」穂積皇子との恋愛関係が想定される皇女であるから、除外されよう。
田形皇女は、『続日本紀』に、神亀元(724)年に没とあり、廃后された様子はない。
泊瀬部皇女は、『万葉集』の柿本人麿の歌の註に、「河島皇子を越智野に葬る時、泊瀬部皇女の献る歌そといへり」いう記述があり、河島皇子の室という説が有力である。
託基皇女は、やはり『万葉集』の春日王の歌の註に、「志貴皇子の子、母は多紀皇女といふぞ」とあり、志貴皇子の妻と考えられる。
つまり、消去法でいくと、天武の皇女の中で、軽皇子の妃となり得る可能性のあるのは、紀皇女だけということになる。
果たして、紀皇女は、軽皇子(文武帝)の妃あるいは妃の候補者として考えられるであろうか?
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