文武朝における皇后冊立権の転換…梅原猛説(ⅷ)
文武天皇をめぐる謎の一つに妻の問題がある。皇后の不在と妃・夫人の謎である。
皇后の不在については、澤田洋太郎『異端から学ぶ古代史』彩流社(9410)では次のように疑問が呈されている(08年8月19日の項)。
文武即位は、文武元(697)年8月1日であり、崩御は慶雲4(707)年6月15日であるから、在位期間はほぼ10年である。
この間に、皇后を立てなかったのはなぜか?
天皇家にとって、血統はもっとも重要なテーマであるにもかかわらず、そして文武即位は持統の宿願であったにもかかわらず、皇后を立てなかったのは大きな謎である。
また、妃・夫人については、以下のような記述がある。
八月二十日 藤原朝臣宮子娘(不比等の娘、聖武天皇の母)を、文武天皇の夫人とし、紀朝臣竈門の娘・石川朝臣刀子娘を妃とした。
天皇の妻には、(皇)后、妃、夫人、嬪があり、この順に格付けられている。
文武の場合、皇后不在なので、妃が最上位ということになる。
ところが、この2人の妃については、和銅6(713)年に次のようにある。
十一月五日 石川(石川朝臣刀字娘)・紀(紀朝臣竈門娘)の二嬪の呼称を下して、嬪と称することが出来ないことにした。
石川・紀の二嬪とあるのは、最初の妃が間違いであったのか、妃であったものが嬪に格下げされたものか、よく分からないが、いずれにしろ、石川・紀の2人の女性は、嬪と称することも禁じられたということになる。
それは、夫人である宮子の地位を確かなものにするためのものだったと考えるのが自然だろう。
首尾良く宮子は、大宝元(701)年に首皇子を生み、藤原不比等の期待に応えた。
宮子は、皇太子の母であるにもかかわらず、終生夫人のままだった。
皇后は、皇族でなければならないとされていたから、宮子は皇后になれなかったと考えられる。
宮子が首皇子を出産した同じ年、藤原不比等のもう1人の妻の橘三千代が女子を出産した。光明子であり、後に聖武天皇(首皇子)と結婚して、藤原氏の力業で立后する。
藤原氏は、ようやく自家の皇后を得たことになる。
梅原猛氏は、、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)で、文武天皇の前後の天皇の皇后とその父と、天皇との血縁関係を整理した表を作成している(p214)。
この表を見ると、文武朝が劇的な転換期であったことが窺える。
つまり、文武以前は、皇后の位は、皇族であることが絶対の条件だった。
文武天皇は、皇后不在だったわけであるが、次の(女帝を除く)聖武天皇以降は、皇后を出す権利が皇族から奪われてしまったということになる。
基本的には、藤原氏が皇后を冊立する権利を手にしたことになり、天皇制は、藤原氏を中心に展開することになったわけである。
見方を変えれば、象徴天皇制というものは、この時既にはじまっていたということであろう。
ところで、この劇的な転換がスムーズに行われたと考えるのは不自然であろう。
例えば、聖武天皇が即位してすぐ、宮子を大夫人と称する旨の勅が出されたが、長屋王の反対によって勅が取り消されるという事件が起きた(08年6月13日の項)。
つまり、宮子を皇太后なみに扱い、光明子を皇太子妃にしようとする藤原氏の策謀が、皇族を代表する立場の長屋王に反対されたということで、転換をめぐるトラブルの一端と見ることができる。
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