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2008年9月27日 (土)

弓削皇子の刑死…梅原猛説(ⅶ)

『続日本紀』は、弓削皇子の死を文武3(699)年7月21日とする。
そして、同じ年、弓削皇子の親しい友人だったと考えられる春日王が直前の6月27日に、母の大江皇女が12月3日に亡くなっている(08年8月26日の項)。
梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)において、弓削皇子が「思ふ」紀皇女も、だいたいこの頃死んだらしい、としている(p142)。
そして、「この三つ、あるいは四つの死の同時性は、はたして必然であろうか、偶然であろうか」と疑問を投げかける。

弓削皇子への挽歌は、置始東人が詠んでいる。

  弓削皇子薨りましし時置始東人の作る歌一首並に短歌
やすみしし わご王 高光る 日の皇子 ひさかたの 天つ宮に 神ながら 神と座せば 其をしも あやにかしこみ 昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 臥し居嘆けど 飽き足らぬかも  (2-204)

  反歌一首
王は神にし座せば天雲の五百重が下に隠り給ひぬ  (2-205)

  また短歌一首
ささなみの志賀さざれ波しくしくに常にと君が思ほせりける  (2-206)

梅原氏は、この歌の位置と内容に注目すべきだとする。
位置に注目するとはどういうことか?
『万葉集』は、全20巻からなり、巻1~巻16(第1部)と巻17~巻20(第2部)に大別される(櫻井満監修『万葉集を知る事典』東京堂出版(四版:0407))(08年6月6日の項)。
第1部はおおむね時代順に配置されているが、中核をなすのは巻1と巻2であるというのが大方の見方であろう。

置始東人の挽歌は、巻2に載っているが、挽歌は有間皇子からはじまっている。
有間は孝徳天皇の子供である。斉明天皇の土木工事に対すして人々が反発し、「狂心の溝渠だ。作るはしから自然に壊れる」と誹謗したりする空気の中で、658(斉明4)年謀反を計画する。
しかし、事前に発覚して、中大兄の命令で処刑されてしまった(08年3月12日の項)。
有間皇子の謀反にも後の大津皇子と同じように、謀略の匂いが漂う。
言い換えれば、権力に殺されたということである。

そういう人間に対する挽歌をトップバッターに置くということは、(原)『万葉集』の編者の編集意図に、権力に対する告発があったのではないか。
そして、巻2の挽歌群は、前半と後半に大別され、前半は皇族の死に関連するもの、後半は人麿と人麿をめぐる人々に関連するものである。
弓削皇子への挽歌は、前半の終わり、後半の初めに位置しており、前半の皇族の死と後半の人麿の死を結びつける位置に置かれている。

梅原氏は、梅原猛氏は、『水底の歌―柿本人麿論』新潮文庫(8302)において、人麿刑死説を展開したが、弓削皇子も、有間皇子・大津皇子・人麿などと同じように、政治的反逆者として刑死したのではないか、と疑う。
弓削皇子の死に直接触れた資料はない。
梅原氏は、弓削皇子に関連する次の万葉歌から、弓削皇子は殺された可能性がきわめて大である、とする。

  長皇子、皇弟に与ふる御歌一首
丹生の河瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛きわが背いで通ひ来ね  (2-130)

  志貴皇子の御歌一首
むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも  (3-267)

  弓削皇子に献る歌一首(人麿)
御食向ふ南淵山の巌には落りしはだれか消え残りたる  (9-1709)

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