被葬者推論の条件…⑤海獣葡萄鏡
高松塚古墳から、鏡が一面発見されている。海獣葡萄鏡と呼ばれる種類のもので、中国の唐代に愛用された紋様で、わが国には、7世紀頃に伝わったとされている(写真は、梅原猛『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306))。
海獣葡萄鏡は、鏡の紋様面全体に葡萄唐草紋が敷き詰められた鏡の一種である。
葡萄唐草紋は、西域が起源であるとされ、たくさんの実と房をつけることから、豊穣と多産を象徴したものであるという。
玄奘三蔵が、西域から帰ってくるのが貞観19(645)年である。大化改新の頃であるが、その頃から、西域的なものが唐に盛んに流入してきたのではないかと考えられる(末永雅雄編『シンポジウム高松塚壁画古墳』創元社(7207))。
葡萄唐草紋鏡は、内区に獣系の紋様が、外区に禽獣や昆虫などが配置される。
内区の獣系の紋様が海獣であることが、海獣葡萄鏡の名前の由縁であるが、実際の海の獣ではなく、想像上の生物である。
海獣葡萄鏡は、直径によって、以下のように区分される。
大型鏡:直径約30センチ(弱)・重量2000~5000グラム
中型鏡:直径10~20センチ
小型鏡:直径10センチ以下
高松塚古墳出土の海獣葡萄鏡は、中型鏡に分類される。
高松塚古墳出土の海獣葡萄鏡は、成分分析の結果、正倉院御物と同じ中国製鏡と判断された。
http://asuka.huuryuu.com/kiroku/teireikai-3b/teireikai3-b2.html
中国から持ち帰ったのは、遣唐使ではないかと推測される。
この海獣葡萄鏡と同型とされるものが、国内に7面、中国に3面あるという。
そのうちの中国の陝西省西安市東郊孤独思貞墓出土の海獣葡萄鏡は、神巧2(698)年の墓誌を伴っていた。
中国社会科学院考古研究所の王仲珠氏は、陝西省出土の海獣葡萄鏡を高松塚古墳出土の同型鏡であるとし、その鋳造を7世紀末として、同じ鏡が日本にもたらされた時期を、慶雲元(704)年の遣唐使であるとした。
その前の遣唐使は、天智8(669)年に出発したもので、この間約30年間にわたって遣唐使の派遣が中断されており、新羅との交流が積極的に進められていたが、海獣葡萄鏡は朝鮮半島では発見されていない。
とすると、慶雲元年帰国の遣唐使が、鋳造間もない海獣葡萄鏡を持ち帰ったという推測が成り立つ。
王氏の見解に従えば、被葬者は8世紀初頭まで生きていたことになり、7世紀代に亡くなった人物は、被葬者の候補からは除外されることになる。
王氏は、このような観点から、天武の皇子のうちの忍壁皇子を被葬者ではないか、とする。
しかし、非公式の交流や、民間での交易・交流等もあったと考えられることから、海獣葡萄鏡を決め手として、被葬者を推論することはできないと考えるべきではなかろうか。
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