弓削皇子…梅原猛説(ⅲ)
梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)で、高松塚の被葬者を、文武元(697)年から、和銅3(710)までに死んだ反逆の皇子に限定した(p103~)。
この間に死んだ親王は、以下の通りである(08年9月10日の項)。
文武3(699)年
弓削皇子
慶雲2(705)年
刑部(忍壁)皇子
三位以上の臣を加えると、以下の通りである。
文武5(701)年
大伴御行
大宝元(701)年
多治比嶋
大宝3(703)年
阿倍御主人
慶雲2(705)年
紀麻呂
上記6人の中で、持統天皇が火葬にされた後(大宝3年以降)の刑部(忍壁)皇子、阿倍御主人、紀麻呂は火葬の可能性が高いと考えられる。
したがって、持統火葬以前という条件を加えると、親王では弓削皇子だけが残り、三位以上まで広げても、大伴御行と多治比嶋だけである。
この3人の中に反逆者がいるかといえば、『続日本紀』の範囲では反逆者はいない。
時間軸の幅を広げて、高市皇子(796年没)、川島皇子(691年没)、刑部(忍壁)皇子(705年没)を加えても、「反逆の皇子」は見あたらない。
高市皇子は、大津皇子を排除した後、持統帝にとって気がかりな存在であったとしても、高市皇子は卑母の子であり、皇位を望むことはなかったと思われる。
川島皇子も、『懐風藻』によれば友だちの大津皇子を売ったとされており、それは身の保全を図ることを優先したものとすれば、反逆者とは考えがたい。
刑部(忍壁)皇子も、卑母の出身であるにもかかわらず、持統朝以後順調な出世を遂げ、知太政官事になっている。
反逆を図るはずがない。
とすれば、時代的にみて、可能性のもっとも高いのは弓削皇子ということになる。
弓削皇子について、『続日本紀』は以下のように書く。
(文武三年七月廿一日)
浄広弐弓削皇子薨ず。浄広肆大石王、直広参路真人大人等を遣わして喪事を監護せしむ。皇子は天武天皇の第六の皇子なり。
『続日本紀』は、弓削皇子について、反逆の事実を記していない。
しかし、梅原氏は、『万葉集』に収載された弓削皇子関連の歌から、孤高で悲劇的な生涯を看取するという。
そして、その孤高で悲劇的な生涯は、高松塚古墳の孤高さと相通じるとする。
梅原氏が感じ取った弓削皇子の孤高で悲劇的な生涯とはどのようなことか?
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