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2008年9月25日 (木)

弓削皇子と紀皇女…梅原猛説(ⅴ)

弓削皇子は、『万葉集』に、次の歌を遺している。

  弓削皇子、紀皇女を思(シノ)ふ御歌四首
吉野川逝く瀬の早みしましくも淀むことなくありこせぬかも  (2-119)
吾妹児に恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを  (2-120)
夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅鹿の浦に玉藻刈りてな  (2-121)
大船の泊つる泊りのたゆたひに物思ひ痩せぬ人の児ゆえに  (2-122)

紀皇女は、天武天皇の皇女の1人で、先の梅原氏のランク分けではCクラスに位置している。
つまり、弓削皇子にとっては、異母兄妹の1人ということになる。
弓削皇子のこの歌は、弓削皇子と額田王の相聞歌の後、穂積皇子と但馬皇女の相聞歌、舎人皇子と舎人娘子の相聞歌を挟んで置かれている。

  但馬皇女、高市皇子の宮に在(イマ)す時に、穂積皇子を思ふ御作歌一首
秋の田の穂向の寄れること寄りに君に寄りなな事痛(コチタ)かりとも  (2-114)

  穂積皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣はす時、但馬皇女の作りましし御歌一首
後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及(シ)かむ道の阿廻(クマミ)に標結へわが背  (2-115)

  但馬皇女、高市皇子の宮に在す時、竊かに穂積皇子に接(ア)ひて、事すでに形(アラ)はれて作りましし御歌一首
人言を繁み言痛(コチタ)み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る  (2-116)

穂積皇子は、天武天皇の第五の皇子ということになる。
「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時」というのは、どういう状況か?
高市皇子は、序列的には第八の皇子であるが、天武の皇子の中では最も年長である。また、壬申の乱の時に大いに活躍したと記されている。
持統天皇は、卑母の生まれであるが故に、皇位継承資格を欠く高市皇子を、皇位についた持統4(690)年の7月に太政大臣に任命する。

高市皇子は太政大臣になったことにより、天武の皇子の中でも最も権力を有することになった。
高市皇子は皇位についていたのではないか、とする砂川恵信氏の説(08年2月7日の項)や、関裕二氏の説(08年2月8日の項)もある。
長屋王邸後から出土した木簡に、長屋親王と書かれていたものがあったことは、高市即位説の有力な傍証ともいえる。

即位していたか否かは別としても、天武の皇子の中で、最も強い権力を持ったのが高市皇子であった。
その「宮に在す」というのは、一緒に住んでいるということである。
穂積皇子は、その但馬皇女と男女の関係になってしまったわけである。
穂積皇子が、「近江の志賀の山寺に遣わされた」のは、一種の追放であったと考えられが、但馬皇女はそれを追って行ったということだろう。

舎人皇子と舎人娘子の相聞歌は割愛するが、同じ名前である者同士の相聞を、梅原猛氏は、禁じられた関係の間の恋なのであろうか、としている。
つまり、この辺りに配置されている歌は、単なる相聞というよりも、禁断の恋というニュアンスのもののようである。
弓削皇子が、「紀皇女を思ふ」というのも、紀皇女の立場によっては、リスクの高いものになる。
確かに、上掲の弓削皇子の歌には不安な心理が映し出されているように感じられる。

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