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2008年9月22日 (月)

反逆の皇子…梅原猛説(ⅱ)

梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)において、次のように言う(p101)。

古墳の被葬者を問題にすることは、この被葬者の孤高さを、古墳の孤高さとの対比において理解することでなければならぬ。この古墳のもっている特殊性を、その背後にある歴史の流れとの関連において理解することにならなければならぬ。

つまり、古墳の被葬者を必要かつ十分に理解するためには、不適格者を消すだけでは十分条件が欠けている、ということである。
歴史家が、被葬者に対する推論を避けるのは、必要かつ十分な推論を行うことが困難であるからであるとし、その困難にトライしてみよう、というのが梅原氏のスタンスである。
歴史家ならぬ哲学者が、認識の冒険を避けるわけにはいかない、ということであろう。

梅原氏は、被葬者を推理するための条件を3つ挙げる。
1.身分
壁画に四神が描かれていることからして、被葬者は天皇もしくは近い存在であると思われる。
つまり、天皇、皇太子、親王というきわめて身分の高い人間に絞られ、それに準ずる高位の人間の可能性は、なくはないだろうが、うすい。
日月・星宿も、帝位との関係を示すものと考えられ、人物像が朝賀の儀式を描いたものとすれば、被葬者が皇族である可能性はさらに高くなる。
副葬品の、鏡・刀・玉も、三種の神器との関係を考えれば、天皇にかなり縁の深い存在であると考えられる。

2.被葬者の死亡年代(≒古墳の築造年代)
梅原氏は、考古学者・歴史学者の意見を総合して、以下のように推論する。
古墳は、発生期、中期、後期、終末期に分けられるが、高松塚は、終末期後期古墳の中でも、後半に属するものとされる。
大化改新後、『日本書紀』の記すところによれば、宮は、難波→飛鳥→近江→飛鳥と遷っている。
飛鳥に宮が定着したのは、天武天皇のときであり、高松塚の築造も天武以後となる。
出土品の海獣葡萄鏡の制作年代は7世紀後半とされる。被葬者の手に入り、生前の使用を考えると、7世紀後半から8世紀初頭の時期と考えることができる。
さらに、梅原氏は、以下の視点を付け加える。
①律令制との関係を考えると、大宝律令のできた大宝元(701)年以後か、以前としたらあまり遡らない時期となる。
②遺骨は火葬骨ではないから、皇室で火葬を採用する以前ということになる。天皇で最初に火葬されたのは、大宝3(703)年以前と考えるのが自然である。
③「聖なるライン」を認めるか否かは別として、藤原京と密接に関係していることは否定できない。奈良遷都後に、古都の南に古墳を作ることは考えにくい。

上記のように推論の条件を整理し、梅原氏は、被葬者を以下のように論理を展開する。
天皇あるいは皇族との関係を示すものと考えられ、梅原氏は、高松塚に葬られているのは、古事記神話におけるオオクニヌシノミコトを同じように、国家の反逆者であろう、と考える。
オオクニヌシノミコトは、反逆者であるにもかかわらず手厚く葬られたのではなく、反逆者であるが故に手厚く祀られた。
壮大な御殿で慰められ、末永く出雲の地にとどまり、地上の国とは別の国で安らかな生を送ることを命じられた。

高松塚の世界も、驚くほど華麗である。
それは天皇陵よりもはるかに華麗である。つまり、律令制の権力者は、被葬者に次のように命じたのではないか。
ここ(高松塚)はすばらしい美の世界であり、この世界においてあなたは王者だ。そのしるしとして三種の神器をあげましょう。
そして、万一のことを考えて、頭蓋骨をとり、刀身をぬき、日月と玄武の顔に傷をつけた。
と考えれば、被葬者は「反逆の皇子」ということになる。

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