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2008年9月30日 (火)

紀皇女の死をめぐって…梅原猛説(ⅹ)

紀皇女は、『日本書紀』において、天武天皇の皇子、皇女を列記した箇所以外には、正史に登場しない。
梅原氏は、それは意識的に語られないのであり、そのことに意味があるとする。
梅原氏自身、「紀皇女が文武帝の后、あるいは后の候補者である」というのは、いささかうますぎる説であるからさらに吟味が必要だとして、次のように推論する(p220~)。

①文武帝は、天皇家の古い習慣に従って、皇室出自の后を迎えかどうか?
YESの可能性がきわめて高い

②それは、天智、天武の娘であるかどうか?
YESの可能性がきわめて高い

③天智、天武の娘の経歴を詳しく調べてみると、紀皇女以外の可能性があるか?
NOと言わざるを得ない

紀皇女は、正史に死亡の記載がないが、正史に死亡の記載のない皇女は、変死の可能性を疑ってよい、とする。
紀皇女はどのような女性だったのか?
正史には記載がないが、『万葉集』に、次の歌が載っている。

  紀皇女の御歌一首
軽の池の汭廻(ウラミ)行き廻(ミ)る鴨すらに玉藻のうへに獨り宿(ネ)なくに  (3-390)

おのれゆゑ罵(ノ)らえてをれば驄(アヲ)馬の面高夫駄に乗りて来べしや  (12-3098)
  右の一首は、平群文屋朝臣益人傳へ云はく、昔聞きしくは、紀皇女竊(ヒソカ)に高安王に嫁ぎて、責めえらし時に、この歌を作り給ひき。但、高安王は、左降して伊予国の守に任(マ)けらえきといへり。

梅原氏は、この紀皇女が『万葉集』に遺した歌は、「どう見ても、姦通者の歌である」という。
そして、その姦通の相手(の1人)が弓削皇子だった。
弓削皇子の「紀皇女を思ふ歌四首」には不安な心理が色濃い(08年9月25日の項)。
もし、紀皇女が文武帝の妃であったならば、弓削皇子が不安な心理あるいは恐れを抱くのは当然である。

紀皇女はどうなったか?
『万葉集』に、次の歌がある。

  同じき石田王の卒りし時、山前王の哀傷みて作れる歌一首
つのさはふ 磐余の道を 朝離らず 行きけむ人の 思ひつつ 通ひけまくは ほととぎす 鳴く五月には 菖蒲ぐさ 花たちばなを 玉に貫(ヌ)き(一云、貫き交へ) かづらにせむと 九月(ナガツキ)の 時雨の時は もみぢ葉を 折りかざさむと 延(ハ)ふくずの いや遠永(トホ)く(一云、くずの根のいや遠長に) 萬世に 絶えじと思ひて(一云、大船の思ひたのみて) 通ひけむ 君をば 明日ゆ(一云、君を明日ゆは) 外にかも見む  (3-423)

  右の一首は、或は云はく、柿本朝臣人麻呂の作なりといへり。

  或本の反歌二首
隠口(コモリク)の泊瀬(ハツセ)をとめが手にまける玉は乱れてありといはずやも  (3-424)
河風の寒き長谷(ハツセ)を歎きつつ君が歩くに似る人もあへや  (3-425)
  右の二首は、或は云はく、紀皇女薨りましし後、山前王の、石田王に代りて作れるなりといへり。

「或本の反歌二首」は、山前王が石田王の死を哀傷みて作れる歌の反歌の別バージョンであるが、それが紀皇女の薨りましし時の歌なのだ、という註が付いているわけである。
この歌は、女性の死を歌ったものであり、「玉は乱れて」とあるのは不吉なイメージである、と梅原氏はいう。

『万葉集』が同一巻の同一種類の歌を、時間順に配列することが多い。この歌は、持統8(694)年に死んだ河内王の挽歌(3-417~419)の後、和銅4(711)年にに河辺宮人が姫島の松原に美人の屍を見て作った歌(3-434~437)の間に位置しており、さらに、この歌の後に柿本人麿の挽歌があって、人麿が都にいたのが大宝元(701)年頃までと考えられることから、紀皇女の死は、文武朝の初期(697~700)までと考えられ、文武3(699)年の弓削皇子の死の時期と重なってくる。

  

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