紀皇女の死をめぐって…梅原猛説(ⅹ)
紀皇女は、『日本書紀』において、天武天皇の皇子、皇女を列記した箇所以外には、正史に登場しない。
梅原氏は、それは意識的に語られないのであり、そのことに意味があるとする。
梅原氏自身、「紀皇女が文武帝の后、あるいは后の候補者である」というのは、いささかうますぎる説であるからさらに吟味が必要だとして、次のように推論する(p220~)。
①文武帝は、天皇家の古い習慣に従って、皇室出自の后を迎えかどうか?
YESの可能性がきわめて高い
②それは、天智、天武の娘であるかどうか?
YESの可能性がきわめて高い
③天智、天武の娘の経歴を詳しく調べてみると、紀皇女以外の可能性があるか?
NOと言わざるを得ない
紀皇女は、正史に死亡の記載がないが、正史に死亡の記載のない皇女は、変死の可能性を疑ってよい、とする。
紀皇女はどのような女性だったのか?
正史には記載がないが、『万葉集』に、次の歌が載っている。
紀皇女の御歌一首
軽の池の汭廻(ウラミ)行き廻(ミ)る鴨すらに玉藻のうへに獨り宿(ネ)なくに (3-390)おのれゆゑ罵(ノ)らえてをれば驄(アヲ)馬の面高夫駄に乗りて来べしや (12-3098)
右の一首は、平群文屋朝臣益人傳へ云はく、昔聞きしくは、紀皇女竊(ヒソカ)に高安王に嫁ぎて、責めえらし時に、この歌を作り給ひき。但、高安王は、左降して伊予国の守に任(マ)けらえきといへり。
梅原氏は、この紀皇女が『万葉集』に遺した歌は、「どう見ても、姦通者の歌である」という。
そして、その姦通の相手(の1人)が弓削皇子だった。
弓削皇子の「紀皇女を思ふ歌四首」には不安な心理が色濃い(08年9月25日の項)。
もし、紀皇女が文武帝の妃であったならば、弓削皇子が不安な心理あるいは恐れを抱くのは当然である。
紀皇女はどうなったか?
『万葉集』に、次の歌がある。
同じき石田王の卒りし時、山前王の哀傷みて作れる歌一首
つのさはふ 磐余の道を 朝離らず 行きけむ人の 思ひつつ 通ひけまくは ほととぎす 鳴く五月には 菖蒲ぐさ 花たちばなを 玉に貫(ヌ)き(一云、貫き交へ) かづらにせむと 九月(ナガツキ)の 時雨の時は もみぢ葉を 折りかざさむと 延(ハ)ふくずの いや遠永(トホ)く(一云、くずの根のいや遠長に) 萬世に 絶えじと思ひて(一云、大船の思ひたのみて) 通ひけむ 君をば 明日ゆ(一云、君を明日ゆは) 外にかも見む (3-423)右の一首は、或は云はく、柿本朝臣人麻呂の作なりといへり。
或本の反歌二首
隠口(コモリク)の泊瀬(ハツセ)をとめが手にまける玉は乱れてありといはずやも (3-424)
河風の寒き長谷(ハツセ)を歎きつつ君が歩くに似る人もあへや (3-425)
右の二首は、或は云はく、紀皇女薨りましし後、山前王の、石田王に代りて作れるなりといへり。
「或本の反歌二首」は、山前王が石田王の死を哀傷みて作れる歌の反歌の別バージョンであるが、それが紀皇女の薨りましし時の歌なのだ、という註が付いているわけである。
この歌は、女性の死を歌ったものであり、「玉は乱れて」とあるのは不吉なイメージである、と梅原氏はいう。
『万葉集』が同一巻の同一種類の歌を、時間順に配列することが多い。この歌は、持統8(694)年に死んだ河内王の挽歌(3-417~419)の後、和銅4(711)年にに河辺宮人が姫島の松原に美人の屍を見て作った歌(3-434~437)の間に位置しており、さらに、この歌の後に柿本人麿の挽歌があって、人麿が都にいたのが大宝元(701)年頃までと考えられることから、紀皇女の死は、文武朝の初期(697~700)までと考えられ、文武3(699)年の弓削皇子の死の時期と重なってくる。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 藤井太洋『東京の子』/私撰アンソロジー(56)(2019.04.07)
- 内閣の番犬・横畠内閣法制局長官/人間の理解(24)(2019.03.13)
- 日本文学への深い愛・ドナルドキーン/追悼(138)(2019.02.24)
- 秀才かつクリエイティブ・堺屋太一/追悼(137)(2019.02.11)
- 自然と命の画家・堀文子/追悼(136)(2019.02.09)
「日本古代史」カテゴリの記事
- 沼津市が「高尾山古墳」保存の最終案/やまとの謎(122)(2017.12.24)
- 薬師寺論争と年輪年代法/やまとの謎(117)(2016.12.28)
- 半世紀前に出土木簡からペルシャ人情報/やまとの謎(116)(2016.10.07)
- 天皇制の始まりを告げる儀式の跡か?/天皇の歴史(9)(2016.10.05)
- 国石・ヒスイの古代における流通/やまとの謎(115)(2016.09.28)
この記事へのコメントは終了しました。

コメント