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2008年9月

2008年9月30日 (火)

紀皇女の死をめぐって…梅原猛説(ⅹ)

紀皇女は、『日本書紀』において、天武天皇の皇子、皇女を列記した箇所以外には、正史に登場しない。
梅原氏は、それは意識的に語られないのであり、そのことに意味があるとする。
梅原氏自身、「紀皇女が文武帝の后、あるいは后の候補者である」というのは、いささかうますぎる説であるからさらに吟味が必要だとして、次のように推論する(p220~)。

①文武帝は、天皇家の古い習慣に従って、皇室出自の后を迎えかどうか?
YESの可能性がきわめて高い

②それは、天智、天武の娘であるかどうか?
YESの可能性がきわめて高い

③天智、天武の娘の経歴を詳しく調べてみると、紀皇女以外の可能性があるか?
NOと言わざるを得ない

紀皇女は、正史に死亡の記載がないが、正史に死亡の記載のない皇女は、変死の可能性を疑ってよい、とする。
紀皇女はどのような女性だったのか?
正史には記載がないが、『万葉集』に、次の歌が載っている。

  紀皇女の御歌一首
軽の池の汭廻(ウラミ)行き廻(ミ)る鴨すらに玉藻のうへに獨り宿(ネ)なくに  (3-390)

おのれゆゑ罵(ノ)らえてをれば驄(アヲ)馬の面高夫駄に乗りて来べしや  (12-3098)
  右の一首は、平群文屋朝臣益人傳へ云はく、昔聞きしくは、紀皇女竊(ヒソカ)に高安王に嫁ぎて、責めえらし時に、この歌を作り給ひき。但、高安王は、左降して伊予国の守に任(マ)けらえきといへり。

梅原氏は、この紀皇女が『万葉集』に遺した歌は、「どう見ても、姦通者の歌である」という。
そして、その姦通の相手(の1人)が弓削皇子だった。
弓削皇子の「紀皇女を思ふ歌四首」には不安な心理が色濃い(08年9月25日の項)。
もし、紀皇女が文武帝の妃であったならば、弓削皇子が不安な心理あるいは恐れを抱くのは当然である。

紀皇女はどうなったか?
『万葉集』に、次の歌がある。

  同じき石田王の卒りし時、山前王の哀傷みて作れる歌一首
つのさはふ 磐余の道を 朝離らず 行きけむ人の 思ひつつ 通ひけまくは ほととぎす 鳴く五月には 菖蒲ぐさ 花たちばなを 玉に貫(ヌ)き(一云、貫き交へ) かづらにせむと 九月(ナガツキ)の 時雨の時は もみぢ葉を 折りかざさむと 延(ハ)ふくずの いや遠永(トホ)く(一云、くずの根のいや遠長に) 萬世に 絶えじと思ひて(一云、大船の思ひたのみて) 通ひけむ 君をば 明日ゆ(一云、君を明日ゆは) 外にかも見む  (3-423)

  右の一首は、或は云はく、柿本朝臣人麻呂の作なりといへり。

  或本の反歌二首
隠口(コモリク)の泊瀬(ハツセ)をとめが手にまける玉は乱れてありといはずやも  (3-424)
河風の寒き長谷(ハツセ)を歎きつつ君が歩くに似る人もあへや  (3-425)
  右の二首は、或は云はく、紀皇女薨りましし後、山前王の、石田王に代りて作れるなりといへり。

「或本の反歌二首」は、山前王が石田王の死を哀傷みて作れる歌の反歌の別バージョンであるが、それが紀皇女の薨りましし時の歌なのだ、という註が付いているわけである。
この歌は、女性の死を歌ったものであり、「玉は乱れて」とあるのは不吉なイメージである、と梅原氏はいう。

『万葉集』が同一巻の同一種類の歌を、時間順に配列することが多い。この歌は、持統8(694)年に死んだ河内王の挽歌(3-417~419)の後、和銅4(711)年にに河辺宮人が姫島の松原に美人の屍を見て作った歌(3-434~437)の間に位置しており、さらに、この歌の後に柿本人麿の挽歌があって、人麿が都にいたのが大宝元(701)年頃までと考えられることから、紀皇女の死は、文武朝の初期(697~700)までと考えられ、文武3(699)年の弓削皇子の死の時期と重なってくる。

  

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2008年9月29日 (月)

紀皇女は文武帝の后か?…梅原猛説(ⅸ)

文武天皇の婚姻関係は以下のようであった。
①皇后は不在
②藤原不比等の娘・宮子が夫人
③石川・紀の両娘が、最初は妃として位置づけられながら、後に嬪と称することも禁じられた

③については、石川・紀の両娘は、最初から嬪で妃とされたのは誤った記述という考え方もできるが、妃から嬪へ格下げされ、さらに嬪と称することもできなくなった、とも考えられる。
梅原猛氏は、後者であろうと推測し、私もそういう感じがする。

宮子は、後に聖武天皇となる首皇子を産みながら、夫人のままだったのは、それまで、皇后の地位が皇族出身者に限られていたからである。
いくら不比等の娘とはいえ、当時の状況では、皇后の座に位置することはできなかったのだろう。
また、先の表に見るように、文武朝は、皇后冊立権の転換期であった。
つまり、文武天皇(軽皇子)までは、皇后候補は、皇族から選ばれるはずであったが、次の聖武天皇の場合には、反対はあったものの、最終的に不比等の娘の光明子が立后した。

文武天皇は、草壁直系の、持統天皇の待望久しい天皇であった。
その文武にまったく皇后を迎えようという動きはなかったのであろうか?
もし、皇族の中から皇后となる可能性のある女性が、文武天皇に嫁いだら、天皇家の外戚となることを戦略としていた藤原不比等にとって、大きな障害になったに違いない。

しかし、后となるべき可能性のある人は誰もいなかったということであろうか?
それまでのように、近親の皇族の中から后候補者を選ぶとすれば、当時の状況からすれば、天智、天武の系統の皇女の中から選ばれていたと思われる。

文武帝(軽皇子)が草壁の本当の子供であったかどうかは疑問の残るところではあるが(08年2月6日の項)、草壁皇子の子供には、後に元正天皇となる氷高皇女と長屋王妃となる吉備内親王がいる。
この2人皇女の娘、すなわち軽皇子の姪は、年齢的に若すぎて、軽皇子の妃となる可能性はないだろう。

草壁皇子の妃の阿閉皇女(後の元明天皇)は、天智天皇の皇女で持統の異母妹であり、草壁にとっては叔母にあたる。
軽皇子の場合、叔母の可能性はどうであろうか?
草壁にとっての阿閉皇女の立場は、軽皇子にとっては、天武の皇女ということになる。
天武の皇子・皇女のランク分けについては先に見た通りである(08年9月24日の項)。

Aクラス、つまり持統帝の生んだ皇女はいない。
Bクラス、つまり持統帝の姉妹の生んだ皇女には、大津皇子の姉の大来皇女がいるが、年齢的にも対象外である。
Cクラス、つまり豪族の生んだ皇女には、但馬皇女、紀皇女、田形皇女がいる。
Dクラス、つまり豪族以下の氏族の生んだ皇女には、泊瀬部皇女、託基皇女がいる。

但馬皇女は、「高市の宮に在り」穂積皇子との恋愛関係が想定される皇女であるから、除外されよう。
田形皇女は、『続日本紀』に、神亀元(724)年に没とあり、廃后された様子はない。
泊瀬部皇女は、『万葉集』の柿本人麿の歌の註に、「河島皇子を越智野に葬る時、泊瀬部皇女の献る歌そといへり」いう記述があり、河島皇子の室という説が有力である。
託基皇女は、やはり『万葉集』の春日王の歌の註に、「志貴皇子の子、母は多紀皇女といふぞ」とあり、志貴皇子の妻と考えられる。

つまり、消去法でいくと、天武の皇女の中で、軽皇子の妃となり得る可能性のあるのは、紀皇女だけということになる。
果たして、紀皇女は、軽皇子(文武帝)の妃あるいは妃の候補者として考えられるであろうか?

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2008年9月28日 (日)

文武朝における皇后冊立権の転換…梅原猛説(ⅷ)

文武天皇をめぐる謎の一つに妻の問題がある。皇后の不在と妃・夫人の謎である。
皇后の不在については、澤田洋太郎『異端から学ぶ古代史』彩流社(9410)では次のように疑問が呈されている(08年8月19日の項)。

文武即位は、文武元(697)年8月1日であり、崩御は慶雲4(707)年6月15日であるから、在位期間はほぼ10年である。
この間に、皇后を立てなかったのはなぜか?
天皇家にとって、血統はもっとも重要なテーマであるにもかかわらず、そして文武即位は持統の宿願であったにもかかわらず、皇后を立てなかったのは大きな謎である。

また、妃・夫人については、以下のような記述がある。

八月二十日 藤原朝臣宮子娘(不比等の娘、聖武天皇の母)を、文武天皇の夫人とし、紀朝臣竈門の娘・石川朝臣刀子娘を妃とした。

天皇の妻には、(皇)后、妃、夫人、嬪があり、この順に格付けられている。
文武の場合、皇后不在なので、妃が最上位ということになる。
ところが、この2人の妃については、和銅6(713)年に次のようにある。

十一月五日 石川(石川朝臣刀字娘)・紀(紀朝臣竈門娘)の二嬪の呼称を下して、嬪と称することが出来ないことにした。

石川・紀の二嬪とあるのは、最初の妃が間違いであったのか、妃であったものが嬪に格下げされたものか、よく分からないが、いずれにしろ、石川・紀の2人の女性は、嬪と称することも禁じられたということになる。
それは、夫人である宮子の地位を確かなものにするためのものだったと考えるのが自然だろう。
首尾良く宮子は、大宝元(701)年に首皇子を生み、藤原不比等の期待に応えた。

宮子は、皇太子の母であるにもかかわらず、終生夫人のままだった。
皇后は、皇族でなければならないとされていたから、宮子は皇后になれなかったと考えられる。
宮子が首皇子を出産した同じ年、藤原不比等のもう1人の妻の橘三千代が女子を出産した。光明子であり、後に聖武天皇(首皇子)と結婚して、藤原氏の力業で立后する。
藤原氏は、ようやく自家の皇后を得たことになる。

梅原猛氏は、、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)で、文武天皇の前後の天皇の皇后とその父と、天皇との血縁関係を整理した表を作成している(p214)。
この表を見ると、文武朝が劇的な転換期であったことが窺える。
つまり、文武以前は、皇后の位は、皇族であることが絶対の条件だった。
文武天皇は、皇后不在だったわけであるが、次の(女帝を除く)聖武天皇以降は、皇后を出す権利が皇族から奪われてしまったということになる。

基本的には、藤原氏が皇后を冊立する権利を手にしたことになり、天皇制は、藤原氏を中心に展開することになったわけである。
見方を変えれば、象徴天皇制というものは、この時既にはじまっていたということであろう。
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ところで、この劇的な転換がスムーズに行われたと考えるのは不自然であろう。
例えば、聖武天皇が即位してすぐ、宮子を大夫人と称する旨の勅が出されたが、長屋王の反対によって勅が取り消されるという事件が起きた(08年6月13日の項)。
つまり、宮子を皇太后なみに扱い、光明子を皇太子妃にしようとする藤原氏の策謀が、皇族を代表する立場の長屋王に反対されたということで、転換をめぐるトラブルの一端と見ることができる。

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2008年9月27日 (土)

弓削皇子の刑死…梅原猛説(ⅶ)

『続日本紀』は、弓削皇子の死を文武3(699)年7月21日とする。
そして、同じ年、弓削皇子の親しい友人だったと考えられる春日王が直前の6月27日に、母の大江皇女が12月3日に亡くなっている(08年8月26日の項)。
梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)において、弓削皇子が「思ふ」紀皇女も、だいたいこの頃死んだらしい、としている(p142)。
そして、「この三つ、あるいは四つの死の同時性は、はたして必然であろうか、偶然であろうか」と疑問を投げかける。

弓削皇子への挽歌は、置始東人が詠んでいる。

  弓削皇子薨りましし時置始東人の作る歌一首並に短歌
やすみしし わご王 高光る 日の皇子 ひさかたの 天つ宮に 神ながら 神と座せば 其をしも あやにかしこみ 昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 臥し居嘆けど 飽き足らぬかも  (2-204)

  反歌一首
王は神にし座せば天雲の五百重が下に隠り給ひぬ  (2-205)

  また短歌一首
ささなみの志賀さざれ波しくしくに常にと君が思ほせりける  (2-206)

梅原氏は、この歌の位置と内容に注目すべきだとする。
位置に注目するとはどういうことか?
『万葉集』は、全20巻からなり、巻1~巻16(第1部)と巻17~巻20(第2部)に大別される(櫻井満監修『万葉集を知る事典』東京堂出版(四版:0407))(08年6月6日の項)。
第1部はおおむね時代順に配置されているが、中核をなすのは巻1と巻2であるというのが大方の見方であろう。

置始東人の挽歌は、巻2に載っているが、挽歌は有間皇子からはじまっている。
有間は孝徳天皇の子供である。斉明天皇の土木工事に対すして人々が反発し、「狂心の溝渠だ。作るはしから自然に壊れる」と誹謗したりする空気の中で、658(斉明4)年謀反を計画する。
しかし、事前に発覚して、中大兄の命令で処刑されてしまった(08年3月12日の項)。
有間皇子の謀反にも後の大津皇子と同じように、謀略の匂いが漂う。
言い換えれば、権力に殺されたということである。

そういう人間に対する挽歌をトップバッターに置くということは、(原)『万葉集』の編者の編集意図に、権力に対する告発があったのではないか。
そして、巻2の挽歌群は、前半と後半に大別され、前半は皇族の死に関連するもの、後半は人麿と人麿をめぐる人々に関連するものである。
弓削皇子への挽歌は、前半の終わり、後半の初めに位置しており、前半の皇族の死と後半の人麿の死を結びつける位置に置かれている。

梅原氏は、梅原猛氏は、『水底の歌―柿本人麿論』新潮文庫(8302)において、人麿刑死説を展開したが、弓削皇子も、有間皇子・大津皇子・人麿などと同じように、政治的反逆者として刑死したのではないか、と疑う。
弓削皇子の死に直接触れた資料はない。
梅原氏は、弓削皇子に関連する次の万葉歌から、弓削皇子は殺された可能性がきわめて大である、とする。

  長皇子、皇弟に与ふる御歌一首
丹生の河瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛きわが背いで通ひ来ね  (2-130)

  志貴皇子の御歌一首
むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも  (3-267)

  弓削皇子に献る歌一首(人麿)
御食向ふ南淵山の巌には落りしはだれか消え残りたる  (9-1709)

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2008年9月26日 (金)

持統10年の衆議粉紜…梅原猛説(ⅵ)

弓削皇子は、高市皇子が死んだ後、持統天皇が、次の皇太子を決めるために召集した御前会議での発言で知られる(08年8月18日の項)。
持統の意中は、草壁皇子の遺児、つまり自分の孫の軽皇子であった。
しかし、参会者は「衆議粉紜」でなかなか決まらなかった、といのが『懐風藻』の記事である。

その時の皇嗣候補者はどのようであったか?
天武の皇子のクラス分け(08年9月24日の項)の中で、Aクラスの草壁皇子は既に亡くなっている。
草壁皇子の子の軽皇子はまだ14歳だったから、梅原氏は、A’とする。
Bクラスの大津は既に処刑されたが、舎人、長、弓削とCクラスの新田部、穂積は健在である。
Dクラスは高市皇子が亡くなり、忍壁、磯城が残っている。

皇嗣候補者として考えた場合、Dクラスは卑母の生まれということで、候補から外されていたと考えられる。
Cクラスの穂積皇子は、但馬皇女とのスキャンダルで失脚したと考えられ、新田部皇子はまだ若い。
とすると、Bクラスの舎人、長、弓削とA’の軽が有力候補ということになる。
梅原氏は、舎人は、舎人娘子との相聞歌などから、スキャンダルでハンディキャップがあり、軽の対抗馬としては、長、弓削に絞られていたのではないか、と推測する。
軽か長かで、議論が紛糾したのではないか。

大友皇子の遺児の葛野王が、「神代より以来、子孫相承て、天位を襲げり。若し兄弟相及ぼさば則ち乱此より興らむ」と軽皇子を強く推す発言をした。
葛野王は、あらかじめ持統から時機を見て発言するように言われていた可能性もある。

『懐風藻』では、「弓削皇子座に在り、言ふこと有らまく欲りす。王子叱び、乃ち止みぬ」とある。
長、弓削は天智天皇の皇女の大江皇女を母とする同母兄弟である。
弓削皇子が、「言ふこと有らまく欲りす」とあるのは、兄の長皇子を推そうとしたのではないかと思われる。
しかし、葛野王の一喝により、発言を取り止めてしまう。

結果的に、持統の意の通りに軽皇子が皇嗣として選ばれ、後に文武天皇として即位することになる。
持統はおそらく藤原不比等と連繋して、自分の子孫にのみ皇位を継承するように計ったものと思われる。
記紀神話は、アマテラスの孫が降臨するというストーリーであり、持統の孫の軽が即位するのに合わせたのではないか。

梅原氏は、天皇という称号も、軽皇子の即位を容易にするためのものではなかったか、とする。
つまり、大王(オオキミ)の概念には、堂々たる成人の男性ということが前提とされていたのではないか。
大王に替わる天皇の称号は、大王に付帯していた堂々たる壮年男子のイメージを払拭しようとするものではなかったか。
にもかかわらず、やはり衆議粉紜したのは、軽皇子がまだ14歳だったということが影響してたのであろう。

持統は、天武崩御の直後、愛息・草壁皇子が即位するのに障害になりそうな大津皇子を、電光石火ともいうべき早業で排除した。
持統の意に逆らった弓削皇子が、非運の道を辿るのは避けがたいことではなかったか。
弓削皇子が吉野で詠んだ次の歌には、無常感が漂っていることについては既に触れた通りである(08年8月26日の項)。

  弓削皇子、吉野に遊しし時の御歌一首
瀧の上の三船の山に居る雲の常にあらむとわが思はなくに  (3-242)

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2008年9月25日 (木)

弓削皇子と紀皇女…梅原猛説(ⅴ)

弓削皇子は、『万葉集』に、次の歌を遺している。

  弓削皇子、紀皇女を思(シノ)ふ御歌四首
吉野川逝く瀬の早みしましくも淀むことなくありこせぬかも  (2-119)
吾妹児に恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを  (2-120)
夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅鹿の浦に玉藻刈りてな  (2-121)
大船の泊つる泊りのたゆたひに物思ひ痩せぬ人の児ゆえに  (2-122)

紀皇女は、天武天皇の皇女の1人で、先の梅原氏のランク分けではCクラスに位置している。
つまり、弓削皇子にとっては、異母兄妹の1人ということになる。
弓削皇子のこの歌は、弓削皇子と額田王の相聞歌の後、穂積皇子と但馬皇女の相聞歌、舎人皇子と舎人娘子の相聞歌を挟んで置かれている。

  但馬皇女、高市皇子の宮に在(イマ)す時に、穂積皇子を思ふ御作歌一首
秋の田の穂向の寄れること寄りに君に寄りなな事痛(コチタ)かりとも  (2-114)

  穂積皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣はす時、但馬皇女の作りましし御歌一首
後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及(シ)かむ道の阿廻(クマミ)に標結へわが背  (2-115)

  但馬皇女、高市皇子の宮に在す時、竊かに穂積皇子に接(ア)ひて、事すでに形(アラ)はれて作りましし御歌一首
人言を繁み言痛(コチタ)み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る  (2-116)

穂積皇子は、天武天皇の第五の皇子ということになる。
「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時」というのは、どういう状況か?
高市皇子は、序列的には第八の皇子であるが、天武の皇子の中では最も年長である。また、壬申の乱の時に大いに活躍したと記されている。
持統天皇は、卑母の生まれであるが故に、皇位継承資格を欠く高市皇子を、皇位についた持統4(690)年の7月に太政大臣に任命する。

高市皇子は太政大臣になったことにより、天武の皇子の中でも最も権力を有することになった。
高市皇子は皇位についていたのではないか、とする砂川恵信氏の説(08年2月7日の項)や、関裕二氏の説(08年2月8日の項)もある。
長屋王邸後から出土した木簡に、長屋親王と書かれていたものがあったことは、高市即位説の有力な傍証ともいえる。

即位していたか否かは別としても、天武の皇子の中で、最も強い権力を持ったのが高市皇子であった。
その「宮に在す」というのは、一緒に住んでいるということである。
穂積皇子は、その但馬皇女と男女の関係になってしまったわけである。
穂積皇子が、「近江の志賀の山寺に遣わされた」のは、一種の追放であったと考えられが、但馬皇女はそれを追って行ったということだろう。

舎人皇子と舎人娘子の相聞歌は割愛するが、同じ名前である者同士の相聞を、梅原猛氏は、禁じられた関係の間の恋なのであろうか、としている。
つまり、この辺りに配置されている歌は、単なる相聞というよりも、禁断の恋というニュアンスのもののようである。
弓削皇子が、「紀皇女を思ふ」というのも、紀皇女の立場によっては、リスクの高いものになる。
確かに、上掲の弓削皇子の歌には不安な心理が映し出されているように感じられる。

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2008年9月24日 (水)

弓削皇子と額田王の相聞歌…梅原猛説(ⅳ)

弓削皇子天武天皇の第六の皇子とあるが、六番目に生まれた皇子ということではない。
梅原猛氏は、天武天皇の皇子皇女を次のようにクラス分けしている。
Aクラス
持統帝の生んだ子女。
草壁皇子1人。

Bクラス
持統帝の姉妹の生んだ子女。
大来皇女、大津皇子、長皇子、弓削皇子、舎人皇子。
皇子4人、皇女1人。には

Cクラス
豪族の生んだ子女。
新田部皇子、穂積皇子、但馬皇女、紀皇女、田形皇女。
皇子2人、皇女3人。

Dクラス
それ以下の氏族の生んだ子女。
十市皇女、高市皇子、忍壁皇子、磯城皇子、泊瀬部皇女、託基皇女。
皇子3人、皇女3人。

以上が『日本書紀』の天武即位時の記載における順序である。
上記では、弓削皇子は第四の皇子に位置づけられるはずであるが、『続日本紀』では数え方が異なり、上記のBクラスとCクラスが同じクラスとされ、年齢順となる。
つまり、②大津、③舎人、④長、⑤穂積、⑥弓削、⑦新田部となって、弓削は、第六の皇子ということになる。
Dクラスは、別扱いで、⑧高市、⑨忍壁、⑩磯城の順である。
この『日本書紀』と『続日本紀』における皇子の扱いの差異を、梅原氏は、皇族と貴族の身分差の縮小を意味するものと解釈している。

弓削皇子が、正史においては目だたない扱いであるのに比し、『万葉集』では存在感を示している(08年8月28日の項)。
弓削皇子と額田王の間の歌の応答について、李寧熙『天武と持統』文藝春秋(9010)に示された解釈については、既に触れた(08年8月22日の項23日の項)が、李氏の解釈では、持統の頻回の吉野行幸を批判する意味ということになる。

額田王は、弓削皇子の父の天武天皇の妃だったが天智天皇の妃となったとされている。
天武天皇との間の子供である十市皇女は、天智天皇の子供の大友皇子の正妃となっている。
入り組んだ婚姻関係であるが、壬申の乱においては、父と戦う立場に立たされたことになる。
父に情報を流して、天武優位に貢献したともされるが、実際のところは不明と言わざるを得ない。
壬申の乱の後、父の天武の許に帰ったが、近江朝の実質的な皇后であって、同時に天武天皇の皇女でもあるというのは、かなり複雑な立場だったことが想像される。
天武7(678)年に急死しているが、まだ30歳前後だったと推測され、その死因についても謎めいたものがある。

十市皇女と大友皇子との間の子供が葛野王であり、持統10年の軽皇子立太子の御前会議での、弓削皇子と葛野王とのやりとりになる(08年8月18日の項)。
つまり、葛野王からすれば、額田王は祖母ということになる。
弓削皇子は額田王に、次の歌を贈っている。

弓削皇子の歌

吉野の宮に幸(イデマ)しし時、弓削皇子、額田王に贈与(オク)る歌一首
古尓恋流鳥鴨弓絃葉乃三井能上従鳴渡遊久 (2-111)
<訓>
古に恋ふる鳥かもゆづるはの 御井の上より鳴き渡り行く
<大意>
古を慕う鳥だろうか ゆずり葉の 御井の上から 鳴いて飛んでゆく

「古に恋ふる鳥」は、ほととぎすのことと解されている。「弓絃葉:ゆずり葉」は、新葉が出ると古葉が位置を譲る常緑樹である。
弓削皇子は、この歌に何を託したのか?
李氏の解釈の是非は分からないが、梅原氏の次のような解釈は自然である。
つまり、吉野において、弓削皇子は、天武の生きていた昔のことを考えており、心に憂愁を抱えていて、その憂愁をぶつける相手として、かつて父の妃であった額田王を選んだ。
額田王は、華やかな過去を持つが、それは既にはるか遠くの出来事であり、若き弓削皇子が、己の心を打ち明ける相手として相応しいだろう、と。

額田王の応えた歌は以下の通りである。

額田王、和へ奉る歌一首 大和の都より奉り入る
古尓恋良武鳥者霍公鳥蓋哉鳴之吾念流其騰 (2-112)
<訓>
古に恋ふらむ鳥はほととぎす けだしや鳴きし我が恋ふるごと
<大意>
古を慕うという鳥はほととぎすです おそらく鳴いたでしょう わたしが慕っているように

梅原氏は、二つのほととぎすが鳴き合っていると説明している。
つまり、弓削皇子が吉野で聞いたほととぎす、あるいは彼の心の中のほととぎすの鳴き声が、額田王の心に鳴り響いているほととぎすと共鳴しているということである。
そして、ほととぎすは不吉な鳥であり、ゆずり葉も無常を示す植物であるとする。
ほととぎすの鳴き声を自己の心に聞く者は詩人であるが、詩人であることは幸福なことより、不幸なことであるにちがいない、というのが梅原氏の解釈である。

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2008年9月23日 (火)

弓削皇子…梅原猛説(ⅲ)

梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)で、高松塚の被葬者を、文武元(697)年から、和銅3(710)までに死んだ反逆の皇子に限定した(p103~)。
この間に死んだ親王は、以下の通りである(08年9月10日の項)。
文武3(699)年
 弓削皇子
慶雲2(705)年
 刑部(忍壁)皇子

三位以上の臣を加えると、以下の通りである。
文武5(701)年
 大伴御行
大宝元(701)年
 多治比嶋
大宝3(703)年
 阿倍御主人
慶雲2(705)年
 紀麻呂

上記6人の中で、持統天皇が火葬にされた後(大宝3年以降)の刑部(忍壁)皇子、阿倍御主人、紀麻呂は火葬の可能性が高いと考えられる。
したがって、持統火葬以前という条件を加えると、親王では弓削皇子だけが残り、三位以上まで広げても、大伴御行と多治比嶋だけである。
この3人の中に反逆者がいるかといえば、『続日本紀』の範囲では反逆者はいない。

時間軸の幅を広げて、高市皇子(796年没)、川島皇子(691年没)、刑部(忍壁)皇子(705年没)を加えても、「反逆の皇子」は見あたらない。
高市皇子は、大津皇子を排除した後、持統帝にとって気がかりな存在であったとしても、高市皇子は卑母の子であり、皇位を望むことはなかったと思われる。
川島皇子も、『懐風藻』によれば友だちの大津皇子を売ったとされており、それは身の保全を図ることを優先したものとすれば、反逆者とは考えがたい。
刑部(忍壁)皇子も、卑母の出身であるにもかかわらず、持統朝以後順調な出世を遂げ、知太政官事になっている。
反逆を図るはずがない。

とすれば、時代的にみて、可能性のもっとも高いのは弓削皇子ということになる。
弓削皇子について、『続日本紀』は以下のように書く。

(文武三年七月廿一日)
浄広弐弓削皇子薨ず。浄広肆大石王、直広参路真人大人等を遣わして喪事を監護せしむ。皇子は天武天皇の第六の皇子なり。

『続日本紀』は、弓削皇子について、反逆の事実を記していない。
しかし、梅原氏は、『万葉集』に収載された弓削皇子関連の歌から、孤高で悲劇的な生涯を看取するという。
そして、その孤高で悲劇的な生涯は、高松塚古墳の孤高さと相通じるとする。
梅原氏が感じ取った弓削皇子の孤高で悲劇的な生涯とはどのようなことか?

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2008年9月22日 (月)

反逆の皇子…梅原猛説(ⅱ)

梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)において、次のように言う(p101)。

古墳の被葬者を問題にすることは、この被葬者の孤高さを、古墳の孤高さとの対比において理解することでなければならぬ。この古墳のもっている特殊性を、その背後にある歴史の流れとの関連において理解することにならなければならぬ。

つまり、古墳の被葬者を必要かつ十分に理解するためには、不適格者を消すだけでは十分条件が欠けている、ということである。
歴史家が、被葬者に対する推論を避けるのは、必要かつ十分な推論を行うことが困難であるからであるとし、その困難にトライしてみよう、というのが梅原氏のスタンスである。
歴史家ならぬ哲学者が、認識の冒険を避けるわけにはいかない、ということであろう。

梅原氏は、被葬者を推理するための条件を3つ挙げる。
1.身分
壁画に四神が描かれていることからして、被葬者は天皇もしくは近い存在であると思われる。
つまり、天皇、皇太子、親王というきわめて身分の高い人間に絞られ、それに準ずる高位の人間の可能性は、なくはないだろうが、うすい。
日月・星宿も、帝位との関係を示すものと考えられ、人物像が朝賀の儀式を描いたものとすれば、被葬者が皇族である可能性はさらに高くなる。
副葬品の、鏡・刀・玉も、三種の神器との関係を考えれば、天皇にかなり縁の深い存在であると考えられる。

2.被葬者の死亡年代(≒古墳の築造年代)
梅原氏は、考古学者・歴史学者の意見を総合して、以下のように推論する。
古墳は、発生期、中期、後期、終末期に分けられるが、高松塚は、終末期後期古墳の中でも、後半に属するものとされる。
大化改新後、『日本書紀』の記すところによれば、宮は、難波→飛鳥→近江→飛鳥と遷っている。
飛鳥に宮が定着したのは、天武天皇のときであり、高松塚の築造も天武以後となる。
出土品の海獣葡萄鏡の制作年代は7世紀後半とされる。被葬者の手に入り、生前の使用を考えると、7世紀後半から8世紀初頭の時期と考えることができる。
さらに、梅原氏は、以下の視点を付け加える。
①律令制との関係を考えると、大宝律令のできた大宝元(701)年以後か、以前としたらあまり遡らない時期となる。
②遺骨は火葬骨ではないから、皇室で火葬を採用する以前ということになる。天皇で最初に火葬されたのは、大宝3(703)年以前と考えるのが自然である。
③「聖なるライン」を認めるか否かは別として、藤原京と密接に関係していることは否定できない。奈良遷都後に、古都の南に古墳を作ることは考えにくい。

上記のように推論の条件を整理し、梅原氏は、被葬者を以下のように論理を展開する。
天皇あるいは皇族との関係を示すものと考えられ、梅原氏は、高松塚に葬られているのは、古事記神話におけるオオクニヌシノミコトを同じように、国家の反逆者であろう、と考える。
オオクニヌシノミコトは、反逆者であるにもかかわらず手厚く葬られたのではなく、反逆者であるが故に手厚く祀られた。
壮大な御殿で慰められ、末永く出雲の地にとどまり、地上の国とは別の国で安らかな生を送ることを命じられた。

高松塚の世界も、驚くほど華麗である。
それは天皇陵よりもはるかに華麗である。つまり、律令制の権力者は、被葬者に次のように命じたのではないか。
ここ(高松塚)はすばらしい美の世界であり、この世界においてあなたは王者だ。そのしるしとして三種の神器をあげましょう。
そして、万一のことを考えて、頭蓋骨をとり、刀身をぬき、日月と玄武の顔に傷をつけた。
と考えれば、被葬者は「反逆の皇子」ということになる。

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2008年9月21日 (日)

地下の朝賀…梅原猛説

「高松塚の壁画とその年代」(『高松塚論批判』創元社(7411)所収)において、有坂道隆氏により「スリラー小説以上の迷論」と評された梅原猛氏の推論を見てみよう。
黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)において、梅原氏は、次のように論を展開している(p48)。

この華麗なる壁画にかこまれた、狭く暗い世界。そこで今しも、朝賀の儀式が行われようとしている。東西。男と女の八人ずつの官人や官女が、この世界の王者をかこみ、四方には四神の旗がたてられ、それがはたはたと風になびき、天には日月が輝き、日月は多くの星とともに、この地下の世界の天子の徳を讃えている。
たしかに見かけは、その通りである。しかしこの世界は、地下深く閉じ込められた世界であり、この死霊は、けっしてよみがえってこない死霊なのである。頭蓋骨のない死霊が、どうして蘇ることができよう。
この死霊は、三種の神器らしいものをもっている。地上においては、草壁皇子から持統天皇をへて文武天皇に伝わり、また二人の女帝の手をへて聖武天皇に伝わった剣や鏡や玉にはなはだよく似た三種の神器をこの死者はもっている。しかし、やはり、古墳製作者は死霊の力にある程度の恐怖をもっているのである。死霊が、あれほど、強く再生を否定されても、もしかして復活するかもしれない。とすれば、剣が危いのである。もし死霊がスサノオノミコトのように剣をもって乱暴したらどうなるのか。私は、先に、草薙剣は、『古事記』の神話製作者の意識においては、正倉院にあり高松塚にあったように、金銀をちりばめた唐伝来の剣であったかもしれないといった。ここに葬られているのは、スサノオの如き、強力な皇族、その強力な皇族の霊が復活して、猛威をふるったらどうなるのか。私はスサノオノミコトが、アマテラスに草薙剣を献上した話を思いだす。死霊が生身の刀身のついた刀をもっていてはまずいのである。

そして、死の世界にはなんらかの欠如のしるしが必要なのだ、として、何面に朱雀がなかったことも、最初からなかったのではないか、とする。
北面の玄武の頭が欠落し、東面の太陽、西面の月も欠落しているのであり、南面にのみ欠落が存在しない方が、むしろおかしいと考えるべきではないのか。
天井の星宿の図にも、中心にあたる北斗七星が欠落している。
北斗七星は、天皇の位を象徴するものであるが、この地下の世界には、天皇そのものが欠落している、ということになる。

都(藤原京)の南の檜隈という新開地の一角に、自然の山を利用した小さな古墳がつくられる。広さは王以上であるが、高さは四位なみで、石槨は、五位から八位までの規定よりもさらに小さい。
死霊をおしこめておくためには、なるべく狭い方がいい。
内部に漆喰を塗る。
その漆喰は、壁画制作用であるばかりか、死体の密封用の役割をしている。

この墓には、木棺を入れた墓道のようなものがあったようであるが、一旦棺を入れたら、道は厳重に閉じられたらしい。
墓道状の溝の南端に、縦・横ともに60センチ、高さ36センチほどの切石があった。
この切石は、イザナギノミコトがイザナミノミコトの追跡を防ぐために、黄泉比良坂においた千引の石の如き役割をなしているのではないか。
版築で固めたのも、死者を厳重に閉じ込めるためではなかったか。

梅原氏は、さらに次のように書く。

私は、大宝元年よりそんなに遠い前でも後でもないある一日、この高松塚で行われた不気味な儀式に思いをはせるのである。暗い狭い古墳の中で、今しも朝賀の儀式が行われようとしている。四周には四神、日月の旗がたなびき、今ここで、この黄泉の国で即位した王者は、まさに朝賀の儀式を行おうとしている。日、月、四神、星宿、それに杖や刀をもつ官人たち、なにひとつ朝賀の儀式に必要なもので欠けているものはない。しかし、大切な、肝心かなめのものが欠けている。この王者の頭が、ここにはない。そればかりか、この王者のふり上げようとする刀には刀身はなく、また日月も、半ばいじょう欠け、玄武もまた顔を欠いているではないか。それはまことに不思議な朝賀の儀式である。

律令制の権力者は、なぜこのような無気味な儀式を行わせたのか?
それは、彼が反逆者であったからである、というのが梅原氏の論理である。
オクニヌシノミコトは、国家への反逆者であった。そして、死を命じられ、遠い出雲に手厚く葬られる。
反逆者であるにもかかわらず手厚く葬られるのではなく、反逆者であるが故に手厚く祀られる。

高松塚も同様である。
オクニヌシノミコトを祀った出雲大社が、天皇家の祖先神を祀った伊勢神宮よりはるかに壮大であるように、高松塚も、天皇陵よりもはるかに華麗な古墳なのである。
王者のしるしとして、三種の神器を与え、死霊を永遠に地下に閉じ込めた。
隠された十字架―法隆寺論 』新潮文庫(8602)において、法隆寺の聖霊会を、怨霊を鎮魂してそれが蘇らないためのものだとしたのと同様の梅原氏の論理である。

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2008年9月20日 (土)

被葬者推論の条件…⑪壁画(ⅴ)欠落と損傷

高松塚古墳の壁画の東西の壁の日月は、表面がけずられている(梅原猛氏『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)/p31)。
日に貼られている金箔、月に貼られている銀箔の大部分が剥落している。
さらに、北方の玄武の蛇と亀の頭が削り取られている。

発掘のリーダーの網干善教氏も、末永雅雄編『シンポジウム高松塚壁画古墳』創元社(7207)において、「玄武の顔、すなわち亀と蛇の部分は、明らかに自然の剥落ではなくて、人為的に取り去った痕跡があります。それは私たちが肉眼で見た限りにおいては言えると思いますと語っている。」(p44)。
さらに、既に触れたように(08年9月11日の項)、遺骨の人骨には、頭蓋骨がなかった。
舌骨、甲状軟骨、善頸椎は残存しているので、斬首されたものではない、というのが鑑定結果である。
また、副葬品の大刀には、刀身がなかった。

高松塚古墳には盗掘のあとがあるという。
したがって、これらの欠落や損傷は盗掘者の仕業である可能性がある。
しかし、梅原氏は、頭蓋骨と刀身だけ持ち去る盗掘者の存在は不自然であるという。
また、蘇我馬子の墓と考えられている石舞台古墳の石室が露出しているのは、蘇我氏滅亡のときに、あばかれたためであるという。
それと同じように、高松塚も「あばかれた墓」である可能性がある。
しかし、高松塚は、築造後大規模に改造された痕跡がなく、この説も成り立ちがたい。

そこで、梅原氏は、この古墳に葬られた死体には、最初から頭蓋骨がなく、刀には刀身がなく、壁画の日月にと玄武の顔は傷つけられていたと考えるべきではないか、とする。
高松塚の築造には相当の時間がかかったと推測される。
その間に、死体はどこにあったのか?

梅原氏は、その期間について、殯との関連性を指摘する。
(もがり)とは、日本の古代に行なわれていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その棺を安置する場所をも指すことがある。殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では「あらきのみや」)という。
(WIKIPEDIA08年9月5日最終更新)
高松塚の築造に時間を要したとすれば、殯の時間も相当の期間必要で、死体は白骨化していた可能性が高い。
白骨化した死体から、頭蓋骨を抜くのはわけがない。

梅原氏の推論によれば、殯の存在を考えれば、頭蓋骨の欠如は理解できる。
刀身は、はじめから刀身を欠いていたか、刀身が木質であったかである。
玄武と日月は、壁画が完成してから、死体が運ばれ、石槨が閉じられるまでに傷つけられたのだろう。

問題は、その理由である。
梅原氏は、死体に頭蓋骨がないのは、一種の刑罰なのだとする。
隋・唐の時代に完成された律つまり刑法においては、死刑には、斬首刑と絞首刑とがあり、斬首刑の方が重かった。
絞首の場合は、首と胴がはなればなれにならず、古代的な観念では葬られた場合に再生可能であるのに対し、斬首の場合には、首と胴が離れるので、再生不可能である。
斬首刑とは、この世の生命を奪うだけでなく、あの世での復活の可能性を奪う刑ということになる。

高松塚の死体は、斬首されてはいない。
しかし、決して死後に蘇ることのないように、頭蓋骨が取り去られた。
梅原氏は、『隠された十字架―法隆寺論』新潮文庫(8602)において、法隆寺の聖霊会の中心となる、「蘇莫者」について、自身の「蘇我莫きもの」という解釈を「蘇る莫かれのもの」に修正し、この高松塚の被葬者も、蘇莫者すなわち蘇ってはならない人の霊を祀ったものではないか、とする。

そすれば、華麗な壁画で囲まれた狭く暗い世界で行われた朝賀儀式は、地上の生の世界と酷似したものではあったが、それと同じであってはならず、その識別のための証拠が必要であった。
それが玄武の顔と日月を故意に傷つけた理由ではないのか。
死の国が生の国に決して及ばないしるしとして、日も月も、死の国の日であり死の国の月であり、四神も死の国のものであるしるしとして、玄武の顔を剥落させ、ディグニティを欠落せしめたのではないか(p49)。

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2008年9月19日 (金)

被葬者推論の条件…⑩壁画(ⅳ)雲

高松塚古墳の左右の日月の下には、平行線の形で雲が描かれている。
『万葉集』に対して、考古学の立場からアプローチした原田大六氏は、『万葉集発掘/考古学による万葉解読』朝日新聞社(7303)において、雲について、次のように問題提起している(p73)。

太陽と月には雲が描かれている。太陽の方は著しく金箔の部分が剥落しているが、月の方はかなり銀箔も残存している。百済宗山里六号墳に日月は雲と共に描かれているので、その関係が考えられないことはないが、なぜ日月には雲が描かれたのか。

この雲に着目して、梅原猛氏は、次のように説く(『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)/p27)。

長広敏雄氏によれば、このような平行線で雲を表わす描き方は、六世紀の中ごろの、六朝時代の中国にあるが、その後、隋にも、唐にもまた高句麗にもなく、ただ、法隆寺にある玉虫厨子の背面の図と同じく、かつて法隆寺にあった透彫の金銅灌頂幡にあるというのである。
ここで、高松塚と法隆寺の関係が指摘されているが、また他にも、法隆寺と高松塚を結びつけるものは多い。高松塚の女人像のスカートの形は、中宮寺天寿国曼荼羅の人物のスカート形に似ている。
中略
私は、そういう物質的類似に精神的類似を加えたいのである。雲、それこそ、法隆寺において再三再四くりかえされるイメージである。それは、山背大兄王(?-六四三)が殺されるとき出たという黒雲のイメージであるし、また、その雲にのって、太子一族が、極楽浄土へ昇天するというイメージでもある。私は法隆寺にのみ存在する雲形斗栱なるものの、その源は、遠く漢代の中国の影響に帰せられるべきものではなく、むしろ近く、『書紀』や『太子伝暦』に描かれる太子の一族滅亡のさいの黒雲のイメージに、求められるべきことを再三妻子力説した。(拙著『隠された十字架』参照)そして、同じような雲のイメージが、出雲大社にある。
中略
高松塚古墳に描かれた雲は、そういう死の国を表わす雲にあると思う。

また、原田大六氏は、上掲書において次のように解説している(p79~)。

この照らす日月の下は天雲の向伏す極み谷ぐくのさ渡る極み…… (5-800/山上憶良)

この歌は、高松塚の壁画を見れば理解できるように、歌の日月は、東の太陽西の月であり、天雲は東の太陽の雲と西の月にかかっている両方の雲を指し、東の果から西の果までをいっている。
「谷ぐく」は蟾蜍のことで月を意味することはいうまでもないだろう。「谷ぐくのさ渡る」とは、「月が東から西まで渡るその両極限」のことである。後漢鏡のひとつに、東西に日月を配したのがあるが、円形の中に烏を描いたのが太陽、蟾蜍を描いているのが月である。太陽の烏は金色で三本足といわれているもので、日本での「頭八咫烏(ヤアタノカラス)(『日本書紀』)に当る。これは北部九州の装飾古墳にもあらわれ、福岡県浮羽郡吉井町の珍敷塚古墳と鳥船塚古墳では、大きな太陽の下に舵取の乗る舟を描き、その舳や艪に烏がとまっている。これは金烏であろう。

注:蟾蜍:ひきがえる

北山にたなびく雲の青雲の星離りゆき月を離りて  (2-161)
向南山陳雲之青雲之星離去月矣離而

これは、天武天皇の崩御に際して、皇后(後の持統天皇)が詠んだ挽歌である。
原文の向南山は、キタヤマと訓じられている。皇居で南に向かって座すのは天皇であり、実在の山ではなく観念上の山である。
この観念上の北山に、たなびくという雲も観念上の雲であり、中国から伝わってきた雲の観念では、雲には神が宿ると考えられ、人の魂が昇天する時も雲に乗って行くものと考えられた。
皇后は、天武の魂を迎えに来た雲のことを「北山にたなびく雲」と表現したのである。

皇后の詠んだ「青雲」は東雲のことであり、青雲に迎えられた天武の魂は、高松塚古墳が金箔を置いた太陽の許へ飛行すると考えたのである。
太陽の許に昇天していった魂は、星から離れ、月を離れて西方へ行くのであり、高松塚古墳の壁画の太陽と星宿と月の関係から理解されるように、魂だけが太陽に向かって西行すれば、星宿を離し、月を離して行くことになるのである。
ここで、星は大衆の魂の宿るところであり、月は皇后や皇太子を指した。

上掲の歌は、原田氏の訳では次のようになる(p82)。

天皇の御座である北山に、魂を迎えにきた雲の、その太陽が、みんなの星を残し、皇后の月を残して雲隠れて行く

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2008年9月18日 (木)

被葬者推論の条件…⑨壁画(ⅲ)人物像

壁画には、16人の人物像が描かれている。
東西に、それぞれ男4人、女4人ずつである。
この人物像は、何を描いているのだろうか?

源豊宗氏は、末永雅雄編『シンポジウム高松塚壁画古墳』創元社(7207)において、美術史的視点から壁画を次のように評している。
第一に注目すべきは、構図であって、その自由さは非常に進んだものであり、そこに一つの雰囲気というものが描かれている。
ここに描かれたような対話の姿のようなムードの表現というものは、白鳳時代にはなく、天平時代にきてもきわめて少ない。

そして、空間感覚、空間の表現というものが非常に発達している、とする。
人物の前後の関係や配列が、三次元的に表現されている。
様式的な面からみても、高松塚は表現が非常に自由である。
アルカイック(古拙)な時代の表現には強直性があり、それは白鳳時代に続いているが、それに比すと、高松塚は、非常に運筆が自由で、弾力的でやわらかになっている。

高松塚の壁画は、唐の永泰公主の墓と似ている部分があるとされるが、異なるのは服飾あるいは風俗である。
中国では、裳が非常に胸高であり、ほとんとがショールをかけているが、高松塚にはそれがない。
高松塚の人物は左前であるが、中国ではそういうことはない。
高松塚の人物画は上着が非常に長く、膝に達するくらいであり、高句麗の壁画に近いが、中国とは異なる。
顔つき、相貌も、中国人の顔ではなく、朝鮮人のタイプである。

有坂道隆氏は、「高松塚の壁画とその年代」(『高松塚論批判』創元社(7411)所収)において、「人物画については、まことに不思議な議論が多い」といい、以下のように記す。

たとえば、ひどい説では、「愉しい行楽に出かけるといった光景にみえる」といい、歌垣的な雰囲気の感があるという。また女性の持ち物の一つが毬杖(ギツチョウ:クリケットに似た球戯に使用する毬を打つ長柄の槌)であるという説が出ると、被葬者は当世風にいってゴルフ好きであり、これからゴルフに行く図だといった珍解説もあった。あのうつろで悲しみにたえた顔や、あてどもなく立ちくれている姿が、剥落のためもあるのであろうが、楽しそうに見えるとは、私には不思議でしかたがない。

梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)には、岸俊男氏が、『貞観儀式』などの儀式の次第を記した史料を参照しつつ、「高松塚の人物像の持ち物に、非常によく似ておるということがわかります」という言葉を引用して、岸氏はこの図を、朝賀の儀式の図と考え、そして、その持物を、その儀式につかう持物であると考えている、としている。
梅原氏は、この持物が、そのままそっくり『貞観儀式』にあげられている持物にあたるかどうかは、今少し詳細に検討する必要があろう、としつつも、この図を朝賀の儀式に比した岸氏の眼光はさすがである、と称揚し、この図を朝賀の儀式として、次のように解説する。

そして、この地下の狭い古墳の中で、今しも、朝賀の儀式が行われようとしているのである。ちょうど、大宝元年に地上で行われた儀式のように、、四方には、四神の旗がなびき、天にある日月が、この世界を治める王者の徳を祝福するとき、ここに、男八人、女八人の人間に囲まれた天皇が、今しも朝賀の儀式を行おうとしているのである。
いったいこの暗く狭い古墳の中で、何のためにこのような華麗なる朝賀の儀式をとり行う必要があるのか。壁画は死者とともに埋められる副葬品と同じく、死者の鎮魂のためである。とすれば、この死者は、なぜに、このような華麗で、しかも、空しき鎮魂の儀式を必要とするのか。

これに対し、有坂氏は、上掲書の中で、次のように批判する。

中には、「この暗く狭い古墳の中で、何のためにこのような華麗なる朝賀の儀式をとり行う必要があるのか」というところから、飛躍してスリラー小説以上の驚くべき迷論を展開した人さえいる。

スリラー小説以上の迷論とは、梅原氏の推論のことであろう。
有坂氏は、『貞観儀式』では持ち物が他にもいろいろあり、たまたまその中のいくつかのものが一致する、といえるだけなのである、とし、朝賀の儀式の図であるという説は成立しない、とする。
そして、朝賀の儀式でないことは、一見してわかることである。なぜならば、男女十六人は、歌垣的な雰囲気があると誤解されるように、各人の向きはバラバラで、朝賀の儀式の姿とするならば、まことに行儀が悪いことになる。朝賀の儀式説を唱える人は、朝賀の儀式の休憩中の姿をわざわざ描いたものか、と皮肉る。

有坂氏によれば、この壁画人物は、死後の世界へ旅立った被葬者に供養する従者の姿を描いたものとしか解しようのないもである。
そして、東壁南から二人目の男子が持っている長柄のついた蓋は、棺の中の被葬者にさしかけているのであり、持ち物は、貴人に供奉する従者が持つべき威儀の具なのである。

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2008年9月17日 (水)

被葬者推論の条件…⑧壁画(ⅱ)星宿

天井に描かれている星宿は何を意味しているか?
B2_2末永雅雄氏は、『シンポジウム高松塚壁画古墳』創元社(7207)において、次のように発言している。

天井の数多い星もすべて金ぱくを使っています。私の知識では、このような表現方法はこんどが初めてです。それだけに、東京で網干君の第二報を聞いて、私は驚きはしなかったけれども、ただちに保存をしなければならないとおいう強い線に出たのは、一つにはあれだけ星宿をあらわしたものは、中国から日本までの壁画古墳には、ほかに例がないということからですよ。しかも天井に出ているでしょう。

また、同書において、有坂道隆氏は、次のように発言している。

私は高松塚のこの壁画、天井の星宿から四壁の四神などは、すべて統一した思想表現であると思います。
中略
それから、天井の星はかなり剥落もありますが、カラー写真を見ますと、次のようなことがほぼ確実に申せそうです。まず天井の四周には、二十八宿の星座を七宿ずつ、東西南北も順序もまちがえないで、つまり、下の四神とちゃんと対応して描いている。ただ、南方については、ちょうど朱雀が消滅しているのと同じように、天井の星もだいぶん剥落しております。それでもいくつか星が残っており、これをたどりますと南方の七宿があったとまちがいない。つまり、もともと完全に二十八宿を描いていたと思います。
次にまん中に妙な星があります。ちょっと見ると中心から片寄っているように見えますが、たんねんに星を拾ってみますと中央部になります。この中央部は、まん中に一つの星(北極星)があり、その星からまっすぐ赤い線が引かれてまた星が一つ見え、その次に星の剥落したようなあとがちょっと見えます。その先にもう二つ星があるはずなのですが、一つは剥落したようなあとが写真に見えますし、おそらくもう一つもあるだろうと思います。それから、まん中の星(北極星)の右のほうに、現在残っております星が二つと、剥落したあとのはっきり見える星が一つあります。それらを結んでいる赤い線をたどりますと、結局ここに四つの星があったことも確実です。。そうしますと、これは天の中心の北極五星と、北極を囲みます「四輔」を示しています。四輔というのは、輔佐のいわば大臣のことです。
中略
天井には、二十八宿のほかには、この北極五星と四輔四星だけが描かれたおり、北斗七星その他の星は見当たりません。
したがって、この古墳の壁画は、天帝が大宇宙を支配しているという意味を表現している統一した絵画であります。この壁画は一見、ただ単に中国古来の思想表現を最も端的にこの狭いところにまとめて表現したと考えられます。

(図は、上掲書から引用)

有坂隆道氏は、また「高松塚の壁画とその年代」(『高松塚論批判』創元社(7411)所収)において、次のように記している。

四神が二十八宿であれば、両者を描くことは重複を意味する。しかしここでは、もちろん、この壁画の画師に、二十八宿即ち四神という観念が欠けていたという問題ではなく、四神は二十八宿を原義としながらも四方を守る霊神として、中国の伝統的な意匠を、教えられるままに正しく、採用したのである。日月を金銀箔で示し、星もまた金箔を用いた豪華で貴重な例は、ほとんど他に類例をみないようであるが、それだけにその持つ意義を理解し、しかも教えられたとおり忠実に描いたものと解せられる。
高松塚壁画は、統一された構図を持っている。星宿といい、日月・四神といい、いずれも「治天下」の思想を示している。それはまさに被葬者の尊貴性を物語っている。
中略

高松塚を渡来人の古墳として、全く異質のものであると割り切れれば問題は簡単である。しかし、どうしてそのような論証ができるであろうか。高松塚の壁画は、星宿・日月・雲・人物画以外に、その他の装飾的絵画がないだけでも、むしろ中国・朝鮮の古墳壁画と異質的ではなかろうか。

梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)において、上記の有坂氏の見解に基づきつつ、以下のように述べている。

ここに、われわれは、大宝元年に地上で成立した天皇制と、同じ天皇制が地下において成立したと考えざるをえないが、このような、天皇の権力を日月に比する考え方が成立するためには、天文にたいする関心が必要とされるが、有坂氏は、それを天武天皇の時代に求めていられる。これは、王政ではない、いわゆる天皇制の成立の時期を天武天皇以後に、そして、その完成を、大宝以後に、つまり、藤原政権の成立の時期に求めているわれわれの前々からに考え方と、期せずして一致するものである。

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2008年9月16日 (火)

被葬者推論の条件…⑦壁画(ⅰ)四神と日月

高松塚古墳が広く注目を集めたのは、何といっても壁画の存在による。
石槨の壁と天井に、日月、四神、人物像、星宿が描かれていた。
被葬者を推論するに際しては、もちろんこの壁画をどう解釈するかが最大のポイントということになる。
壁と天井に描かれている絵は、何を物語っているのか?

2 梅原猛氏は、、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)において、岸俊男氏の解釈を援用しつつ、次のように述べている(pp17~19)。

まず四神であるが、岸氏は、この四神の絵を『続日本紀』大宝元年(七○一)の「大宝元年春正月乙亥朔、天皇大極殿に御して朝を受く、其の儀、正門に於いて、烏形の幢を樹つ。左に日像青竜朱雀の幢、右に月像玄武白虎の幢。蕃夷の使者は左右に陳列す。文物の儀は是に於いて備れり」という記事との関係において考える。
中略
その年(大宝元年)には「大宝律令ができ、文字通り文物の儀が備わった年にとどまるものではない。この律令の実質上の制定者、藤原不比等(六五九-七二○)が、その独裁的権力獲得の第一段階をふみはじめた年である。この年三月、新しい官位の制が定められて、藤原不比等は大納言となるのである。そして、このときほぼ、政治の中心部に坐った不比等は、さまざまな策謀により競争者を排斥し、和銅元年(七○八)にはより強い独裁体制をつくり出し、彼が死ぬ養老四年(七二○)までには四百年以上にわたる藤原政権の基礎をつくったのである。「大宝律令」の制定につぐ奈良遷都、和銅開珎の鋳造、『古事記』の撰修、わが国の基礎をつくった画期的な数多くの文化事業は、いずれもこの時代の産物であり、私はこれらすべては、たとえ直接ではないにしても、藤原不比等の意志の下に行われたと考える。
中略
歴史において、この四神思想がはっきり語られるのは、大宝元年と和銅元年の二度であり、いずれの年も、藤原不比等の権力が、飛躍的に高まった年なのである。

四神はもともと東西南北の七つの星座(二十八宿)を司るものとされる。
東方七宿の総称が青竜であり、北方七宿が玄武、西方七宿が白虎、南方七宿が朱雀である。
高松塚古墳の四壁には、四神が描かれいるというわけであるが、このうち南壁の朱雀は剥落していた。

朱雀については、当然描かれていたと考えるべきだ、とされる(有坂隆道「高松塚の壁画とその年代」『高松塚論批判』創元社(7411)所収)。
しかし、はじめから描かれていなかったという可能性も否定し切れないだろう。
梅原氏は、四神について、薬師寺の薬師如来の台座がよく似ていることを指摘する。
そして、薬師寺は、天武・持統の霊に守られた、草壁-元明-文武政権安定の願いによって建てられた寺であって、四神は、大宝元年の朝賀の儀式及び和銅元年における四神の詔と密接な関連を持っているとする。

そして、『万葉集』の次の草壁皇子が亡くなったときの柿本人麿の歌を引用する。

あかねさす日は照らせれどぬばたまに夜渡る月の隠らく惜しも  (2-169)

つまり、天子を太陽や月に比した比喩としての用法であり、日月も、天子の威光と関係を持っているとする。

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2008年9月15日 (月)

被葬者推論の条件…⑥大刀と玉

高松塚古墳からは、棺、人骨、鏡の他に、大刀の金具と玉類が出土している。
大刀は、鞘および柄の木部は腐ったようであるが、それに付いていた銀製の金具が残っていた。
この金具とよく似た金具が正倉院にある(末永雅雄編『シンポジウム高松塚壁画古墳』創元社(7207)/p98、梅原猛『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)/p35)。

正倉院にある大刀は、金銀鈿荘唐大刀(キンギンデンカザリノトウタチ)と呼ばれ、草壁皇子→藤原不比等→文武帝→不藤原不比等→聖武帝とわたったという由来の大刀である。
言い換えれば、即位のしるしというべき大刀で、草壁の血統を、草壁→(持統)→文武→(元明)→(元正)→聖武と維持するために、藤原不比等が智謀を揮ったものとされる。
正倉院御物の大刀は、皇位継承を示すものといえるが、高松塚古墳に、このような大刀とよく似た大刀が収められていた。

また、琥珀製の丸玉やガラス製の丸玉が、堆積土中に散乱して出土した。
玉は、中国では死霊を守るものとしての意味を持っているという。
玉は日本語では魂と同じ音を持つ。
ガラス玉といえども、当時は大変な貴重品であった。
古墳に副葬された玉類は、死霊を鎮魂するためのものであったと考えられる。

海獣葡萄鏡、大刀、玉の3点セットは、いわゆる「三種の神器」と同じ組み合わせである。
三種の神器は、皇位継承のしるしであった。
梅原氏は、次のように言う(上掲書p36)。

(三種の神器を皇位継承のしるしとする)この日本神話は、いかにしてできあがったのか。このような神話の書かれている書物、『古事記』が書かれたのは和銅五年(七一二)、この高松塚がつくられたとみられる藤原京の時代を、わずかに下る頃である。これは実際三種の神器ではないのか。正倉院に伝わる金銀鈿荘唐大刀というのは、じっさい、草壁-文武-聖武へと伝わる皇位継承のしるしであった。われわれは、三種の神器の話を遠い神代に求めているが、私は、『古事記』の神話で語られているのは、遠い神代のことであるより、『古事記』がつくられた時代のことではないかと思う。
私は、三種の神器の八咫鏡なるものも、実は、海獣葡萄鏡であり、草薙剣なるものも実は、金銀鈿荘唐大刀であり、八坂瓊曲玉なるものも実は、唐請来のガラス玉であったような気がして仕方がない。いすれにせよ、この死者は、三種の神器に比すべき宝物をもってここに眠っているわけである。

しかしながら、大刀については既に書いたように(08年9月9日の項)、刀身が発見されなかったという大きな謎が残されていた。
刀身は、大刀の主要部分である。刀身のない大刀に、いかなる意味があるのだろうか?

高松塚古墳が盗掘にあっていたことが知られている。
石槨の内部には、灯油台に使われたと思われる鎌倉時代の土器が数多くあったという。
盗掘者は、刀の刀身だけをはずして持ち去ったのか?
刀身だけをはずすというような作業が、暗い古墳の内部で、果たして可能なのか?
また、刀身を持ち去った盗掘者は、鏡には興味がなかったのか?

遺骨に頭蓋骨がないこと、大刀に刀身がないこと。
この2つの事象に関連性があるのだろうか?
あるとすれば、どのような意味を持っているのだろうか?
そのことを合理的に説明することが、被葬者推論の重要なキーであるようである。

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2008年9月14日 (日)

被葬者推論の条件…⑤海獣葡萄鏡

高松塚古墳から、鏡が一面発見されている。
2海獣葡萄鏡と呼ばれる種類のもので、中国の唐代に愛用された紋様で、わが国には、7世紀頃に伝わったとされている(写真は、梅原猛『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306))。

海獣葡萄鏡は、鏡の紋様面全体に葡萄唐草紋が敷き詰められた鏡の一種である。
葡萄唐草紋は、西域が起源であるとされ、たくさんの実と房をつけることから、豊穣と多産を象徴したものであるという。
玄奘三蔵が、西域から帰ってくるのが貞観19(645)年である。大化改新の頃であるが、その頃から、西域的なものが唐に盛んに流入してきたのではないかと考えられる(末永雅雄編『シンポジウム高松塚壁画古墳』創元社(7207))。

葡萄唐草紋鏡は、内区に獣系の紋様が、外区に禽獣や昆虫などが配置される。
内区の獣系の紋様が海獣であることが、海獣葡萄鏡の名前の由縁であるが、実際の海の獣ではなく、想像上の生物である。

海獣葡萄鏡は、直径によって、以下のように区分される。
大型鏡:直径約30センチ(弱)・重量2000~5000グラム
中型鏡:直径10~20センチ
小型鏡:直径10センチ以下
高松塚古墳出土の海獣葡萄鏡は、中型鏡に分類される。

高松塚古墳出土の海獣葡萄鏡は、成分分析の結果、正倉院御物と同じ中国製鏡と判断された。
http://asuka.huuryuu.com/kiroku/teireikai-3b/teireikai3-b2.html
中国から持ち帰ったのは、遣唐使ではないかと推測される。
この海獣葡萄鏡と同型とされるものが、国内に7面、中国に3面あるという。
そのうちの中国の陝西省西安市東郊孤独思貞墓出土の海獣葡萄鏡は、神巧2(698)年の墓誌を伴っていた。

中国社会科学院考古研究所の王仲珠氏は、陝西省出土の海獣葡萄鏡を高松塚古墳出土の同型鏡であるとし、その鋳造を7世紀末として、同じ鏡が日本にもたらされた時期を、慶雲元(704)年の遣唐使であるとした。
その前の遣唐使は、天智8(669)年に出発したもので、この間約30年間にわたって遣唐使の派遣が中断されており、新羅との交流が積極的に進められていたが、海獣葡萄鏡は朝鮮半島では発見されていない。
とすると、慶雲元年帰国の遣唐使が、鋳造間もない海獣葡萄鏡を持ち帰ったという推測が成り立つ。

王氏の見解に従えば、被葬者は8世紀初頭まで生きていたことになり、7世紀代に亡くなった人物は、被葬者の候補からは除外されることになる。
王氏は、このような観点から、天武の皇子のうちの忍壁皇子を被葬者ではないか、とする。
しかし、非公式の交流や、民間での交易・交流等もあったと考えられることから、海獣葡萄鏡を決め手として、被葬者を推論することはできないと考えるべきではなかろうか。

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2008年9月13日 (土)

被葬者推論の条件…④大化薄葬令との関係

梅原猛氏は、高松塚古墳は、「その壁画の華麗さにたいするこの古墳そのものの小ささにおいても、また異常なのである」としている(08年9月4日の項)。
高松塚古墳の直径は約18メートルだから、仁徳天皇陵といわれている大仙古墳のような長さが400メートルを越える巨大な古墳(08年5月2日の項)とは、明らかに異なる思想によって築造されたものといえる。

古墳の規模に関しては、大化の「薄葬令」と呼ばれるものとの関連が問題になる。
『日本書紀』の孝徳紀の大化2(646)年正月のいわゆる「改新の詔」の解釈をめぐって、さまざまな論議があるが(08年3月27日の項29日の項30日の項31日の項4月1日の項2日の項3日の項4日の項)、3月甲申の条の詔、いわゆる「薄葬令」についても、解釈に議論がある。
「薄葬令」は、造墓の制限や禁止に関するもので、王以上、上臣、下臣だけが墳丘の造営を認められ、大仁以下小智は、小石室を造ることは認められるものの、墳丘の造営は認められなかった。
「薄葬令」では、以下のように規定されている。

夫王以上之墓者。其内長九尺。濶五尺。其外域、方九尋。高五尋役一千人。七日使訖。其葬時帷帳等用白布。有轜車。上臣之墓者。其内長・濶及高、皆准於上。其外域方七等尋。高三尋。役五百人。五日使訖。其葬時帷帳等用白布。担而行之。〈蓋此以肩担与而送之乎。〉下臣之墓者。其内長・濶及高、皆准於上。其外域方五尋。高二尋半。役二百五十人。三日使訖。其葬時帷帳等用白布。亦准於上。大仁。小仁之墓者。其内長九九尺。高・濶各四尺。不封使平。役一百人。一日使訖。大礼以下小智以上之墓者。皆准大仁。役五十人。一日使訖。
http://www.j-texts.com/jodai/shoki25.html

以下、末永雅雄編『シンポジウム高松塚壁画古墳』創元社(7207)における議論をベースに、高松塚の規模と「薄葬令」の関係を検討してみよう。
先ず「王より以上の墓は、その内の長さ九尺、濶(ヒロ)さ五尺、方九ヒロ、高さ五尋。一千人を役し、七日に訖(オワ)らしめよ。その葬らん時の帷帳等には、白布を用いよ。轜車(柩車)有れ」と規定している。
1000人という数が、延べで規定しているのか、1日の人数なのか明確ではないが、「大仁・小仁は一百人、一日」とあることを勘案すれば、延べ人数と考えた方が自然であると思われる。
7日で1000人とすれば、1日150人ほどであり、高松塚古墳の規模で有れば、その程度の人数が働くのが限度とも思われる。

「内の長さ九尺、濶さ五尺」とあるのは、石槨のことと考えられる。どのような尺度が用いられていたか、言い換えれば1尺の長さについても議論があるところで、高麗尺(1尺=35.6センチ)と唐尺(1尺=29.6センチ)という説がある。
唐尺で計算すると、9尺=2.66メートルで、高松塚の奥行きとぴったり合う大きさである。
幅5尺は、唐尺で1.48メートルで、高麗尺だともっと広いので、高松塚の石槨の幅1.03メートルより広いことになる。

言い換えれば、高松塚の石槨は、「薄葬令」の規定よりも狭い。
上臣および下臣については、共に「内の長さ・濶さ・高さは、皆上に准(ナラ)え」とあって、石槨の大きさは王以上と同じとされている。
墳丘についての規定は、以下の通りである。王以上:方9尋・高さ5尋上臣:方7尋・高さ3尋下臣:方5尋・高さ2尋半 高松塚の直径は約18メートルであって、1尋=6尺=約2メートルとすると、9尋=約18メートルで、王以上の規定に合致する。
高さ5尋は、約10メートルである。
高松塚は、高さ約5メートルなので、2尋半の下臣に相当する規模であるが、盛り土の崩れ等を勘案すると、上臣相当という辺りと考えられる。

高松塚は、一部「薄葬令」の規定と合致しない部分もあるが、総じていえば「薄葬令」に近いと考えられる。規模からすれば、王より以上の墓つまり皇族の可能性が高く、臣下であったとしても最上級の上臣ではないか、ということになる。

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2008年9月12日 (金)

被葬者推論の条件…③地域の特性

高松塚古墳は、明日香村大字平田字高松にある。
従来、高松塚とか高松山と呼ばれてきた。塚と古墳は同じようなものだから、高松塚だけでもいいようなものであるが、壁画発見以来、高松塚古墳という呼び方が定着しているようである。
3_2この地域は、檜隈(ヒノクマ)といわれる地域で、石舞台古墳、飛鳥寺、飛鳥の宮跡などのある高市地区の西側に位置する。

高松塚古墳の北側には、菖蒲池古墳があり、その南側に天武・持統陵がある。
天武・持統陵が藤原京の朱雀大路の延長線上にあることが、岸俊男(故人:京都大学教授:当時)によって指摘されていた。
いわゆる「聖なるライン」と呼ばれる線である。
岸氏自身は、その意義については慎重な立場を保持していたようであるが、1/3000の地図でみると、菖蒲池古墳、天武・持統陵、文武陵が、南北ほぼ一直線に並んでいる。
中尾山古墳と高松塚古墳は、その西側に100メートルほどずれている。

檜隈地域には、渡来人が多く居たといわれる。
(地図は、末永雅雄編『シンポジウム高松塚壁画古墳』創元社(7207)より引用)。
同書で、秋山日出雄氏(橿原考古学研究所研究員:当時)は、大略次のように説明している。

檜隈という地域は、渡来人が住んでいた場所で、檜隈にある檜隈寺は、檜隈にいた東(倭:ヤマト)の漢(アヤ)氏の氏寺だろうと言われている。
『続群書類従』に、「坂上系図」というものがある。それを見ていくと、欽明天皇のときに、大陸が渡来人がやってきて、今来郡というのを作り、それが後の高市郡であると書かれている。
つまり、高市郡一帯には、渡来人が大勢いたと考えられる。
『続日本紀』の宝亀3(772)年の坂上氏の上奏文には、高市郡の十姓のうち、八、九姓までは坂上一族であるとある。
倭漢(ヤマトノアヤ)氏には、平田宿祢や平田忌寸という一族がいるが、高松塚のあるあたりが現在の平田ということになる。

渡来人は、大和南部全体に住んでいたと考えられるが、その中でも特に檜隈を中心とした地域に多く住んでいたと考えられている。
飛鳥に都が置かれた一つの原因は、このような渡来人の存在があったことが考えられる。

それを踏まえて、源豊宗氏(文化財審議会専門委員:当時)は、高松塚の被葬者を渡来人と考える、としている。
檜隈が渡来人の拠点だったということから、司馬遼太郎や松本清張などの小説家は、被葬者を朝鮮系の渡来者とみている。
これに対し、直木孝次郎氏(大阪市立大学教授:当時)は、檜隈の域内に、天皇の陵が一つならず設けられていることは、渡来者の色彩は強いにしても、それ以外の貴族の墓が設けられないほど規制力の強いものではなかった、とする。
直木氏は、このような位置関係からして、高松塚のある地域は、天皇ないしそれに関係のある人たちの墓地とみるべきだ、とする。

つまり、直木氏は、被葬者は、朝鮮系渡来者よりも、天皇と関係の深い人というように考えた方が妥当だろうと考えているということである。
しかし、そもそも天皇家のルーツは朝鮮系渡来者との説もあり(08年4月25日の項)、文武天皇と新羅・文武王とが同一人という説もある(08年8月21日の項)。
朝鮮系渡来者と天皇家と関係に深い人というのは、必ずしも二律背反ということではないのではなかろうか。

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2008年9月11日 (木)

被葬者推論の条件…②遺骨の鑑定結果

高松塚古墳には、人骨が遺されていた。
その人骨の特性が分かれば、被葬者を推論するための有力な条件になる。
人骨の鑑定は、島五郎大阪市立大学名誉教授(故人)によって行われた。
鑑定結果の大要は、以下の通りであった(末永雅雄編『シンポジウム高松塚壁画古墳』創元社(7207))。
(なお、このシンポジウムは、昭和47(1972)年4月15日、22日に行われた。壁画発見の直後の時期であり、まだ報告書も出ていない。壁画発見という衝撃を踏まえて、その時点での知見ということであり、調査不十分段階という一面、直感的な認識が示されていると考えられる)

1.部位
出土した人骨は、大腿骨、下腿骨、上膊骨、前膊の一部分

2.数
一体

3.性

4.体格
筋肉あ非常に発達している

5.年齢
第三大臼歯の磨耗度合いから推計すると、30歳代かそれ以上

6.不審点
頭骨が見当たらなかった。
しかし、歯と、頭の下につづく舌骨、甲状軟骨、顎骨はあった

梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)において、島五郎氏の年齢の推論について、異議を申し立てている。
島氏の推論の基礎は、第三大臼歯の磨耗の程度である。
島氏は、これを「2度」と鑑別し、それは6年から7、8年程度使っている程度の減り方であるとする。
そして、第三大臼歯の萌出年齢を、16歳~30歳としている。
つまり、推定年齢は、{16+(6~8)}~{30+(6~8)}=22~38歳である。

しかるに、島氏は、30歳代かそれ以上と鑑定している。
梅原氏は、この島氏の論理矛盾に疑問を呈しているのである。
梅原氏は、さらに橿原考古学研究所によって編集された正式の『中間報告書』にける島氏の鑑定を次のように要約する。

高松塚の人骨には三本の歯が残されていた。そのうち二本は大臼歯、そして他の一本は小臼歯である。しかし、小臼歯の方は破損が著しいので、島氏は鑑定の対象からはずした。残った二本の大臼歯のうち、一本は下顎右側大臼歯であり、もう一本は上顎左側の大臼歯である。島氏は後者にかんしてはっきり「第三大臼歯である」とし、前者にかんしては「第三大臼歯と考えているが、第二大臼歯であるかもしれない」という。

しかし、島氏は、上掲『シンポジウム高松塚壁画古墳』において、残っていた歯を、「下顎の左右の第三大臼歯とこわれた小臼歯」と表現している。
つまり、島氏は、「歯の種類の鑑定を変えた」と判断せざるを得ないことになる。
歯の種類の同定は、年齢推計のもっとも基礎的な条件であると思われる。
しかるに、歯の種類の鑑定が不定であっては、年齢の推計についても疑念を持たざるを得ない。
しかも、このような鑑定の変化にもかかわらず、「30歳以下である可能性は少ない」という推計年齢の結論自体は不変である。
島氏は、『中間報告書』において、「換言すれば、残存歯牙から本古墳出土人骨の年齢を適確に推定することは、かなり困難である」としている。
とすれば、「それが29歳である確率は高いものではない」というように言うべきではない、というのが梅原氏の批判である。
このような批判をもとに、梅原氏は、被葬者の推定を行うに際し、島氏の年齢に関する鑑定結果を括弧に入れて論旨を進めたい、と判断している。

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2008年9月10日 (水)

被葬者推論の条件…①古墳の築造時期

高松塚古墳の被葬者は誰か?
発掘調査成果から、被葬者を推論するための条件を整理すれば以下の通りである(奈良新聞『高松光源』)。
http://www.nara-np.co.jp/special/takamatu/vol_02d_01.html

1.古墳の外形
直径24メートル、高さ9.5メートルの終末期後期の円墳。未調査部分があるにしても、八角形墳ではないと考えられる。

2.石槨
奥行き(南北)2.65メートル、幅(東西)1.03メートル、高さ1.13メートル。

3.壁画
四方の壁に、玄武(北)、青竜(東)、白虎(西)、が描かれ、南壁に想定される朱雀は、盗掘で確認できなかった。
色鮮やかな人物群像が、東西の壁面に一対ずつ配置されている。
天帝の権威の象徴とされる星宿が天井に、やや下の壁面に日像、月像が描かれていた。

4.副葬品
海獣葡萄鏡(表面径16.8センチメートル)一面。金銅製の棺金具や大刀の外装具など。
漆塗りの表面は豪華な金箔仕上げ。

5.遺骨
熟年男性と鑑定される。

ところで、この被葬者推論の条件について、梅原猛氏は、以下のような異常性を指摘している。
①被葬者の遺骨には、頭蓋骨も下顎骨がなかった。
②副葬品の大刀には刀身がなかった。
③壁画の四神のうち玄武の頭がけずりとられ、日月は、表面をはぎとられていた。
④星宿に帝王を表す北斗七星がなかった。

高松塚古墳の築造時期は何時ごろと推計されるのだろうか?
石室が凝灰岩の切石で造られていることや、副葬品の種類などから、7世紀末~8世紀初めであることは、ほぼ間違いないものと考えられている。

末永雅雄編『シンポジウム高松塚壁画古墳』創元社(7207)の巻末に、「崩・薨・卒・死」の記事が収載されている。
このうち、7世紀末~8世紀初については、以下のようである。
持統3(689)年
草壁皇子:薨/4月13日/書紀
春日王:薨/4月22日/書紀

持統5(691)年
川嶋皇子:薨/年9月9日/書紀
佐伯宿祢大目:卒/9月23日/書紀

持統6(692)年
大伴宿祢友国:卒/4月2日/書紀
文忌寸智徳:卒/5月20日/書紀

持統7(693)年
百済王善光:正月15日/書紀
藤原(中臣)朝臣大嶋:卒/3月11日/書紀
蚊屋忌寸木間:卒/9月16日/書紀

持統8(694)年
河内(川内)王:卒/4月5日/書紀

持統9(695)年
賀茂朝臣蝦夷:卒/4月17日/書紀
文忌寸赤麻呂:卒/4月17日/書紀
泊瀬王:卒/12月13日/書紀

持統10(696)年
大狛連百枝:卒/5月13日/書紀
高市皇子:薨/7月10日/書紀
若桜部朝臣五百瀬:卒/9月15日/書紀

文武2(698)年
田中朝臣足麿:卒/6月29日/続紀

文武3(699)年
坂合部女王:卒/正月28日/続紀
日向王:卒/6月23日/続紀
春日王:卒/6月27日/続紀
弓削皇子:薨/7月21日/続紀
新田部皇女:薨/9月25日/続紀
大江皇女:薨/12月3日/続紀

文武4(700)年
道照:物化/3月10日/続紀
明日香(飛鳥)皇女:薨/4月4日/続紀

文武5・大宝元(701)年
金所毛:卒/正月14日/続紀
大伴宿祢御行:薨/正月15日/続紀
県犬養宿祢大侶:卒/正月29日/続紀
忌部宿祢色布知:卒/6月2日/続紀
多治比真人嶋:薨/7月21日

大宝2(702)年
路真人登美:卒/10月1日/続紀
持統天皇:崩/12月22日/続紀

大宝3(703)年
阿倍朝臣御主人:薨/閏4月1日/続紀
民忌寸大火・高田首新家:卒/7月23日/続紀

慶雲2(705)年
豊国女王:卒/7月23日/続紀
刑部(忍壁)親王:薨/5月7日/続紀
紀朝臣麻呂:薨/7月19日/続紀
葛野王:卒/12月20日/続紀

慶雲3(706)年
大神朝臣(大三輪)高市麻呂:卒/2月6日/続紀
与射女王:卒/6月24日/続紀

慶雲4(707)年
文武天皇:崩/6月15日/続紀
文忌寸禰麻呂:卒/10月24日/続紀
衣縫王:卒/11月24日/続紀

和銅元(708)年
柿本朝臣佐留:卒/4月20日/続紀
美怒(禰怒)王:卒/5月30日/続紀
但馬内親王:薨/6月25日/続紀
高向朝臣麻呂:薨/閏8月8日/続紀

和銅2(709)年
上毛野朝臣男足:卒/4月16日/続紀
犬上王:卒/6月28日/続紀
下毛野朝臣古麻呂:卒/12月20日/続紀

和銅3(710)年
高橋朝臣笠間:卒/正月11日/続紀
巨瀬朝臣多益須:卒/6月2日/続紀
黄文連大伴:卒/10月14日/続紀

古墳の築造時期を、7世紀末~8世紀初頭に絞れば、上記の人々が第一次候補者ということになる。

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2008年9月 9日 (火)

被葬状態の謎と大宝元年正月の朝賀

高松塚の被葬者について、考古学・歴史学の専門家の間で、慎重論が強い中で、梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)で、精細な推論を展開している。
同書の第二章は、「推論の条件」と題され、梅原氏の推論がいかなる前提で進められたかが記されている。
梅原氏によれば、「孤高の古墳」である高松塚古墳は、以下のような「はなはだ奇怪なる四つの謎」を秘めている(p57)。

一つは、この被葬者の遺骨には頭蓋骨も下顎骨も共にないことである。つまりこの死骸は頭なき死体であったのである。そして第二に、この副葬品は、鏡と大刀と玉が残されていたが、その大刀には刀身がなかったことである。第三に、この壁画の四神のうち玄武の頭はけずりとられ、日月は、その面を故意にはぎとられていたことである。第四に星宿にはかんじんの帝王を表す北斗七星がないことである。

『続日本紀』の大宝元(701)年の元旦に朝賀の儀式の様子が記されている(宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206))。

春正月一日、天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀式の様子は、大極殿の正門に烏形の幢(先端に烏の像の飾りをつけた旗)を立て、左には日像(日の形を象どる)・青竜(東を守る竜をえがく)・朱雀(南を守る朱雀をえがく)を飾った幡、右側に月像・玄武(北を守る鬼神の獣頭をえがく)・白虎(西を守る虎をえがく)の幡を立て、蕃夷(ここでは新羅・南嶋など)の国の使者が左右に分れて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。

Photo 07年の大晦日の各紙は、藤原宮南門前から、大規模な柱穴列が見つかったことを報じ、それが『続日本紀』に記された朝賀の儀式の傍証であるとされた(08年1月1日の項)。
梅原氏は、次のように書く(p51)。

大宝元年(七○一)の元旦、宮廷では、四方に四神と日月の旗を立て、盛大な朝賀の儀式がもよおされた。大宝元年といえば、「大宝律令」が制定され、律令の事実上の制定者藤原不比等が、独裁的権力を確立する第一歩をかためたときである。この塚では、この朝賀の儀式と同じように、四神、日月の旗がたち、そして岸俊男氏がいうように、十六人の男女が、今しも朝賀の儀式を行おうとしているのである。
しかし、この暗い狭い塚の中で、行われんとしている朝賀の儀式には、決定的な欠如が存在していたのである。この儀式の主役には頭がなく、この人物は三種の神器らしいものをもっているが、刀には刀身がなく、また、彼をとりまく世界の日月は欠け、玄武には頭なく、星宿には、天皇のしるしの北斗七星が欠けていたのである。

梅原氏によれば、この古墳は地元の人にとって、特別な意味をもった古墳だった。
明日香村には数多くの古墳があるが、この古墳だけが神としてまつられていたのだという。
この古墳は、古宮と称せられ、字上平田に住む共通に橘の紋をもつ九軒の家の人によって代々祭られてきた。
古宮の講の代表者・前田忠一氏は、梅原氏と毎日新聞社の青山茂氏に次のように語ったという(p59)。

この高松塚の発掘の前に、坊さんがきて慰霊祭をしたというが、わしらから見れば、どうも納得がいかん、あの塚は神様が祭ってあるというのがわしらの確信だ。それなのに、坊さんが来て慰霊をするのは何事だ。神さんは怒っていられるにちがいない。

網干善教(構成・太田信隆)『高松塚への道』草思社(0710)には、昭和47年3月6日に、慰霊法要をしたとある。
網干氏は、人の墓を掘るのだから、きちんと慰霊法要をしてから発掘するというのが、末永雅雄氏の考え方であって、橿原考古学研究所の慣わしであったという。
前田氏のいう坊さんが、網干氏だったのかどうかは確証はないが、なかなか微妙な問題だと思う。

梅原氏は、高松塚の被葬者が神として祭られてきたことに関して、柳田国男の「人を神に祀る風習」を参照する。

死者を神として祀る慣行は、確かに今よりも昔の方が盛んであった。しかしそれと同時に、今ではもう顧みない一種の制限が、つい近い頃までは全国的に認められて居た。
……
(人を神として祀るについて)年老いて自然の終りを遂げた人は、先づ第一に之にあづからなかった。遺念余執といふものが、死後に於いてもなほ想像せられ、従って屡々タタリと称する方式を以て、怒や喜の強い情を表示し得た人が、このあらたかな神として祀られることになるのであった。

梅原氏は、「高松塚の被葬者は、柳田国男のいうような運命をもった人であるということになる」としている。

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2008年9月 8日 (月)

様々なる被葬者論

高松塚の被葬者については、専門家・研究者は、発言に慎重であるべきだ、という意見がある。
そうかも知れないが、被葬者を推測することは、この古墳の築造されたであろう時代の像を捉える上でも重要なポイントであると思われる。
高松塚古墳は、発見以来センセーショナルに報じられてきたこともあり、被葬者に対して様々な見解が提示されてきた。
しかし、現時点に至るも決定打と評価されているものはないようである。

奈良新聞の連載記事『高松塚光源』では、以下のような諸説を紹介し、以下の3つに大別できるとしている。
http://www.nara-np.co.jp/special/takamatu/vol_02d_01.html
(なお、所属・肩書きはWIKIPEDIA(08年9月2日最終更新)を参照して補足した)
1.天武の皇子たちなどの皇族
2.上級の臣下
3.海外の王族

1.直木孝次郎氏(大阪市立大学名誉教授)
忍壁皇子
人物像の服装や立地から考えられる条件は、以下の3つ。
(1)686年から710年(または701年から719年)に死んだ人物
(2)大納言以上で天皇かその近親者の可能性が強い
(3)熟年男性
忍壁皇子はすべての条件を満たしている。

2.王仲珠氏(中国社会科学院考古研究所研究員)
忍壁皇子
高松塚の海獣葡萄鏡は中国・陝西省の独孤思貞墓で出土した海獣葡萄鏡(7世紀末)と同笵(どうはん)関係にあり、704年帰国の遣唐使によってもたらされた可能性が強い。7世紀に死んだ皇子たちはこの鏡を副葬できず、忍壁皇子だけが被葬者になりえる。

3.猪熊兼勝氏(京都橘女子大学教授)
忍壁皇子
四神図や星宿は皇族の独占物だった。高松塚の壁画が描けるのは天武直系の皇子しかいない。「聖なるライン」は北で天智陵を結び、天子の象徴である北斗七星を表したのではないか。人骨の鑑定年齢からも忍壁皇子がふさわしい。

4.菅谷文則氏(滋賀県立大学教授)
弓削皇子
忍壁皇子を含め、持統天皇以後の皇族たちは火葬された可能性が強い。弓削皇子が没した699年は持統の火葬以前。出土した須恵器からも藤原遷都(694年)直後の古墳といえる。平城京に移ってからの帰葬は反逆行為。

5.梅原猛氏(哲学者)
弓削皇子
頭蓋骨を取り除いて壁画を傷つけたのは怨霊(おんりょう)の復活を恐れたため。
被葬者の条件は以下の3つ。
(1)天皇、皇太子、親王など極めて身分の高い人物
(2)築造年代は710年以前
(3)反逆の皇子
弓削皇子は謀反罪で処刑されたと推定され、これらの条件を満たす。

6.原田大六氏(故人:考古学者)
高市皇子
高松塚古墳壁画の素材はすべて九州の装飾古墳にある。高市皇子の母親は九州出身の尼子娘。藤原京朱雀大路の延長上にある立地条件からも天武天皇との関係が考えられる。男子像は壮年が中心で、高市皇子の死亡年齢と一致している。

7.和田翠氏(奈良県立橿原考古学研究所?)
葛野王
文武天皇が葬られた「安古」と十市皇女が眠る「赤穂」は同じ地域。中尾山古墳が真の文武陵とすれば、その一帯が「安古」「赤穂」だったと考えられる。すぐ隣りの高松塚古墳には、大友皇子と十市皇女の間に生まれた葛野王が葬られた可能性がある。

8.河上邦彦氏(奈良県立橿原考古学研究所、現神戸女子大学教授)
天武の皇子・皇女
「聖なるライン」を東限として想定できる墓域は岸説の藤原京とほぼ同じ大きさ。これが天武の陵園で、そこに築かれた高松塚古墳には、天武の皇子・皇女が葬られた可能性が強い。藤原京の南西に「死者の都」が形成されていたのはないか。

9.岡本健一氏(京都学園大学教授)
石上麻呂
男子像にさしかけられた深緑の蓋(きぬがさ)は被葬者が一位の人物であることを示している。石上麻呂は没後に従一位を追贈された。藤原京の留守司を務めたので飛鳥に葬られたのだろう。78歳という没年も「熟年以上」の鑑定結果に矛盾しない。

10.白石太一郎氏(奈良大学教授)
石上麻呂
壁画は被葬者の威儀を示しており、深緑の蓋も被葬者にさしかけたと考えるべき。左大臣・石上麻呂を輩出した物部氏が、その喜びと一位の格式を表すために壁画を描かせた。出土した大刀は正倉院に伝わる金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうからたち)と同じ形式で、奈良時代の古墳と考えられる。

11.千田稔氏(国際日本文化研究センター教授)
百済王禅光
四神や星宿が描かれた壁画古墳は「宇宙王」の墓。舒明天皇が百済宮や百済大寺を造営したように、天皇家には百済に大変な親近感を持っていた。人質のまま故国を失った百済王禅広のために、百済の伝統に基づく古墳を造ったのではないか。

12.堀田啓一氏(高野山大学教授)
高句麗の王族
高松塚には高句麗の古墳に描かれた画題が統合されている。高句麗の滅亡は668年で、亡命してきた高句麗の王族クラスを被葬者と考えることもできる。

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2008年9月 7日 (日)

高松塚被葬者論と認識の冒険

華麗な壁画と規模の小ささというコントラストを持つ高松塚古墳に葬られているのは、果たして誰か?
この設問は、多くの人が関心を持つものであろう。
梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)において、次のように言う。

この問題は容易に解けない問題である。この古墳には、墓誌銘がなかった。そして墓誌銘がない限り、この古墳の被葬者は明らかにならないと、歴史家はいう。しかし、墓誌銘が出たら、誰でも、被葬者が分かるではないか。分からないことを研究するのが学問ではないか。

そして、直木孝次郎氏の言葉を引用している。

高松塚古墳を歴史学の立場からみようとすると、第一問題になるのは、被葬者はだれか、ということである。
これについては、墓誌銘が出ない以上論ずるべきではない(『歴史と人物』四十七年六月号の座談会における井上光貞・岸俊男両氏)とか、軽々な発言は死者に対して無礼である(『毎日新聞』四十七年四月七日号の座談会における上田正昭氏)など、歴史学会には否定的・消極的な意見が強く、被葬者についての研究は停滞している(『仏教芸術』八七号「日本古代史からみた高松塚古墳-壁画と被葬者を中心に-)

現場で発掘調査の指揮をとった網干善教氏は、自分は、被葬者にはあまり興味がない、という(網干善教(構成・太田信隆)『高松塚への道』草思社(0710))。
なぜなら、誰が被葬者かは、そう簡単には分からず、いくら努力しても、答えの出ない問題だからである、という。
被葬者は誰かという問題は、どこまでいっても確かな答えが得られず、だから、研究者が簡単に「誰々の墓だろう」などと言うべきではない。まして、発掘担当者が発言すると、一般の人がその発言を信じてしまいがちなので、口にすべきではない、とする。

果たして、容易に答えの出ない問題に対して、どう向き合うべきなのか?
もちろん、専門家・研究者としての発言が慎重であるべきだ、という考え方は理解できる。
しかし、大胆な仮説をもって思考を進めること自体は重要なことではないだろうか。
私は、梅原氏の上掲書の最後に記された次の言葉に共感を覚える。

私の高松塚論が何らかの決定的結論をもたらすことが出来なかったとしても、それはそれで一つの認識の冒険であったと私は思う。

歴史学界には上記のような直木孝次郎氏が紹介しているような雰囲気が強いのであるためか、高松塚古墳の被葬者を直接論じた著書は、管見の範囲では、梅原氏の上掲書以外には、異端の歴史家ともいうべき小林惠子氏の『高松塚被葬者考―天武朝の謎』現代思潮社(9812)があるくらいなようである。
小林氏は、以下のようにいう。

一部専門家の中には、被葬者のみを追求することは歴史学的ではないという意見の人も何人かいる。しかし、高松塚の被葬者が誰であるかを知ることは、当時の政治的な史実を知る上で、もっとも具体的かつ有効な方法であろう。
高松塚の被葬者に推量された人物はおそらく、一○人に近いであろう。しかし、いずれも、これという該当者とはいえないし、定説には遠く、そのほとんどは忘れられようとしている。
その理由として、高松塚の歴史的背景を『書紀』の記載のままに、すべての研究者が信じているからではないか。

小林氏の説の当否は別として、タブーや権威にとらわれないで、虚心に当時の状況を追求しようとする姿勢は重要であろう。
高松塚古墳は、保存の不手際等で解体を余儀なくされた。
しかし、せめてそれを機会に、新たなる認識の冒険が出てくることを期待したい。

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2008年9月 6日 (土)

高松塚古墳発見の経緯

網干善教(構成・太田信隆)『高松塚への道』草思社(0710)によれば、石舞台の復元が終わったあとも、網干氏は、飛鳥京の宮跡の発掘に従事していた。
昭和45(1970)年の10月頃、網干氏は、村役場の課長をしていた山本幸夫氏から、村の道路計画の話を聞く。
当時は、天武・持統陵から文武陵のあたりは、柿や蜜柑の畑で、畦のような道しかなく、農家の人は収穫した産品を肩に担いで持ち帰っていた。

農家が軽四輪を持つようになったが、車が通れるような道がないので、農業振興のために、農免道路が造られることになった。
農業振興の補助金を得つつ、観光客向けも兼ねた、軽四輪が通れる道路を造ろうという計画である。
その計画を集会所で説明したところ、地元の人が、「そこは高松塚のそばやな」と言ったという。

山本課長は別の地域の人だったので、その時は詳しいことは分からなかったらしい。
地元に人の話では、生姜の穴を掘っていたら、切石が見えたのだという。
山本課長からそのことを聞いた網干氏は、「これは大変なことになった」と直感的に思った。
牽牛塚(ケゴシヅカ)古墳だとか、中尾山古墳とか、由緒のある古墳はみな切石を使っていたからである。

網干氏は、すぐに役場で自転車を借りて現場に向かった。
しかし、竹藪の生い茂った現地では、なかなか穴が見つからなかった。
1時間ほど探して穴を見つけることができた。直径70センチくらいの蛸壺型の穴だった。
中には入らなかったが、上から監察すると、凝灰岩の切石であることが分かった。

網干は、その日の発掘の仕事が終わった後、河内の狭山に住んでいた末永氏を訪れ、報告した。
末永氏は、網干氏に「君、どうする?」と問いかけた。
網干氏が、「まず測量して図面を作らないと計画も立てられない」と答えると、「あまり公にしないで、きちんとした図面を作るように」とアドバイスがあった。

翌日から、龍谷大学の大学院生を交え、計5人で、4日間かかって、図面を作って末永氏に報告した。
末永氏は、「これは発掘しなければならない」といい、発掘の準備にとりかかることになった。
ちょうどその頃、川原寺の裏山で塼仏が出土した。
川原寺は、白鳳時代に創建された古寺で、その裏山にある神社の崖崩れのようなところで拾ったものだった。
塼仏は、仏や菩薩をレリーフにした土製の仏像のことで、凹型の原型に粘土を詰め込んで、凸型の仏像を作って乾燥し、素焼きにしたものである。
唐朝の影響を受けて制作され、7世紀後半に流行した(08年3月6日の項)。
白鳳時代の塼仏が出土したとなると、重大事である。
網干氏は、その場にいた村会議員の関武氏に、役場の予算をかき集めるよう依頼した。
塼仏の出土地の横が村長の家だったこともあり、50万円の予算を確保できた。
それで、塼仏の調査を始めようとしたところ、村長は、「高松塚を知っているか?」と聞き、高松塚を先に掘って欲しいと要望した。

昭和47(1972)年の3月1日から、高松塚古墳を発掘することになった。
3月6日の慰霊法要を行い、実際の発掘が始まった。
高松塚は版築で塚を築き上げてあった。版築は、粘土に砂を置いて叩き詰め、5センチくらいの層にしていく方法で、お寺の基壇とか建物の土台とかで用いられた。
固めてあるから極めて硬く、普通の鍬なら曲がってしまうという。

3月20日の彼岸は、幸いにして(?)荒天だったため作業を休止し、21日に発掘を再のーと開した。
石槨にあいた穴を大きくする作業を続けているとき、穴の中に光が射し込むと、なにか色がついているように見えた。
その日のことを網干氏はB5版のノートに日記として記している。
上掲書に3月21日分の記述が引用されている。

昨日は大雨であてので午前中は駄目と思っていたところ、案外濡れていないので、早速、作業にとりかかる。
……
盗掘孔を少し広げて中を覗くと、西側に何か色のついたものがかすかに見えた。そこへちょうど陽光が差し込んで少し明るくなると、青い服に茶色の腰ひもをつけた人物が描かれていた。

後に華麗な絵であることが判明する壁画発見の歴史的な瞬間であった。

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2008年9月 5日 (金)

網干善教氏と石舞台古墳

網干善教(構成・太田信隆)『高松塚への道』草思社(0710)に、高松塚古墳発見の経緯が語られている。
網干氏は、明日香村で生まれ育った考古学者であった。実家は、唯称寺という浄土宗のお寺で、石舞台古墳のすぐ下にあった。
2石舞台古墳は、明日香観光の定番なので、訪れた人は多いだろう。
巨大な石に驚かされる。石の総重量は、2300トンに達するといわれている。

古くから玄室が露出していたが、昭和8年から、京都大学考古学教室によって本格的な発掘が行われた。
網干氏は、昭和2年生まれだから、発掘が始まった時にはまだ小学校の就学以前だった。
発掘作業にトロッコを使っており、そのトロッコに乗せて貰うのが楽しかった、という。
網干氏が考古学を専攻するようになった、いわば原体験ということになるだろう。
(写真は、http://www.kasugano.com/kankou/asuka/index4.htmlよりコピー)

網干氏は、旧制の畝傍中学に入学する。
畝傍中学は、土地柄なのであろうか、樋口清之、森本六爾などの考古学者などの出身校で、網干氏の入学する前に、有名な高橋健自氏が赴任してきていた。
その高橋氏の影響で、卒業生が考古出土品を、学校に持ち込んできた。それらを収蔵した部屋があって、徴古室と命名されていた。
その当時、このような部屋を持った中学校など、日本で唯一であったと思われる。

網干氏は、畝傍中学の考古学部に入り、日色四郎という先生に、橿原考古学研究所に連れていかれる。
橿原考古学研究所は、紀元2600(昭和15)年に橿原神宮の大造営が行われた際、橿原神宮の外苑から出土した土器を調査するために、奈良県が設立したもので、初代の所長は末永雅雄氏だった。
専任の研究員がいるということではなく、考古学の勉強をしたい人が集まっていたという。

末永雅雄氏は、京都大学の考古学教室で、卒業はしていないが浜田耕作氏の教えを受けた(WIKIPEDIA/08年3月4日最終更新)。
網干氏が大学へ入学する頃は、龍谷大学で講義を持っていた。
末永氏に相談をして、網干氏は龍谷大学に入学し、学部-大学院の間だけでなく、卒業して副手になってからも、さらには講師になってからも末永氏の講義を聴いた。17年間に及ぶという。
龍谷大学は、有名な大谷探検隊をシルクロードに派遣したことで知られるが、考古学、歴史学、仏教学などに多くの学者を擁していた。

戦争が終わり、中断していた考古学の調査を再開させようという気運が盛り上がってきた。
石舞台古墳が第一にノミネートされた。戦前に発掘に携わった諸先生は、いずれも重鎮になっていたから、網干氏が現場の指揮をとることになった。
網干氏は、昭和29年から33年まで、石舞台古墳の復元工事を担当した。

石舞台古墳は、蘇我馬子の墓である、というのが定説であるが、封土を剥ぎ取られた横穴式石室がむき出しになったものである。
石室の全長は約19メートルあり、この種のものとしては最大だという。玄室の内法は、長さが約7.7メートル、幅が約3.4メートル、高さが約4.8メートルあった。
石の産地は、奈良盆地の南東にある多武峰のふもとを流れる冬野川の上流と推定されている。石舞台古墳まで、約3キロメートルの距離がある。
古人の技術力に感嘆の念を覚えるのは私だけではないだろう。

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2008年9月 4日 (木)

高松塚古墳のポジショニング

梅原猛『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)は、高松塚古墳は、「異常なる古墳」であるとする。
第一は、もちろん華麗な壁画をもっているという点において、である。
後に、同じ明日香村にある「キトラ古墳」にも壁画が描かれていることが分かったが、壁画を有する古墳が希少であることは間違いない。

Photo梅原氏は、高松塚古墳は、「その壁画の華麗さにたいするこの古墳そのものの小ささにおいても、また異常なのである」としている。
古墳は、中期から後期へ、後期から終末期へと徐々に小さくなっていくが、高松塚古墳は、終末期古墳としても、とりわけ規模が小さい古墳である。
高松塚古墳の実測図をみると、直径は約18メートル、高さは約5メートルである。
梅原氏は、この古墳の大きさは、方九尋、高さ二尋半であって、薄葬令と関連づけて考えると、土盛りの広さは王(ミコタチ)以上であり、高さは大徳小徳にあたる下臣(ヒクキマエツキミ)、四位相当の人に相当する、とする。

Photo_2石槨の大きさは、幅1.035メートル、高さ1.134メートル、長さ2.655メートルである。
これを、幅・高さ約3尺、長さ7.5尺と換算すると、石槨をつくり得る最低層の石槨よりも一段と小さい。
墓域の大きさも、同時代と見られる天武・持統陵に比定されている檜隈大内陵、草壁皇子陵に比定されている真弓丘陵、文武天皇陵に比定されている檜隈安占上陵、高市皇子陵に比定されている三立岡陵などに比べると、はるかに小さい。
つまり、高松塚古墳ははなはだ小さな古墳であるということになる。

梅原氏は、次のように問う。

なぜ、人眼につかない丘の一隅につくられたこのようなささやかな古墳に、あのような壁画がかかれねばならなかったのか。この古墳の見かけの小ささと、その内部の立派さとは、あざやかなコントラストをなすが、それは何ゆえか。

高松塚古墳は、ほぼ藤原京の中央、朱雀大路の南への延長上、いわゆる「聖なるライン」のやや西へずれたところに位置している。
この中央線上に、菖蒲池古墳、天武・持統天皇陵、文武天皇陵がある。
その位置からすると、天武・持統天皇の近親者が葬られている可能性が高いと推論される。
また、壁画に描かれている、日月、四神、人物像、星宿からして、被葬者は、王者として位置づけられていると理解される。
(図は、奈良新聞の連載記事『高松塚光源』から引用)。
http://www.naranp.co.jp/special/takamatu/vol_02d_01.html

梅原氏は、考古学の泰斗・斉藤忠氏の次の言葉を引用している。

高松塚古墳は、日本の装飾古墳または壁画古墳、あるいは壁画横穴の系統の中から、まったく別格な特殊な存在なのである。私は高松塚古墳の日本装飾古墳中に占める地位を一と口で表現せよといわれたならば、次のように答えるであろう。「孤高の古墳」と。

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2008年9月 3日 (水)

高松塚古墳の発見

高松塚古墳の発見は、考古学上戦後最大の発見だとされる。
2昭和47(1972)年3月21日、奈良県明日香村の高松塚古墳で、極彩色の壁画が見つかった。
(写真は網干善教(構成・太田信隆)『高松塚への道』草思社(0710))。

古墳は、翌昭和48年4月に特別史跡に指定され、壁画は昭和49年4月に国宝に指定された。
高松塚古墳は、明日香村が整備計画を立てるに際し、この地域一帯を詳しく調べるために、奈良県立橿原考古学研究所に発掘を依頼したことから発掘調査が始められ、その調査の過程で発見された。
所長は、考古学の泰斗の末永雅雄博士で、末永博士の指揮の下に、現場でリーダーを務めていたのが、網干善教関西大学助教授(当時)だった。網干氏は、明日香村の出身で、橿原考古学研究所の所員を兼務していた。

高松塚古墳は、より充実した研究と保存管理を行うために文化庁に移管された。
文化庁は、温度・湿度を制御する装置を設けて保存に努めたが、平成14(2002)年から翌年にかけての調査で、壁画に大量のカビが発生していることが分かった。
また、退色して黒ずんでいる部分もあった。
文化庁は、古墳の内部では、壁画の劣化を防ぐことは困難と判断し、平成17(2005)年6月、恒久保存対策検討会を開いて、古墳の解体を決めた。
07年に専門家によるプロジェクトチームが実物大2の墳丘や石室でリハーサルした上で、4~8月に特別史跡の墳丘・石室を解体し、壁画の補修が行われている。

高松塚古墳は、人目につかない小さな古墳であった。
(写真は、梅原猛『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306))。
そのような古墳に、鮮やかな彩色壁画が描かれていたことが、専門家だけでなく、一般の歴史・考古学愛好家を驚かせた。
装飾古墳の存在は、中国や朝鮮半島では知られていた。また、北九州においても、やや趣きは異なるが、装飾古墳が存在していた。
しかし、畿内に存在するとは想定されていなかった。
高松塚古墳は、終末期古墳の後期という時代区分に属する。
つまり、古墳文化の最終段階のものとして位置づけられる。
古墳は、中期から後期へ、さらに終末期にと、次第に小さくなっていく。高松塚古墳は、そういう傾向の中においても規模の小さなものであったが、その内部に、中国や朝鮮半島に繋がる鮮やかな壁画を持っていた。
東アジア史におけるわが国の位置づけを再考する契機になる発見であった。

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2008年9月 2日 (火)

人麻呂の持統・文武批判

人麻呂が軽皇子を詠んだ中の次の一首を見てみよう。

ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とそ来し  (1-47)

岩波書店の『萬葉集一/日本古典文学大系』(5705)では、大意を次のように示している。

草を刈る荒野ではあるが、亡くなられた草壁皇子の記念の地であるとてやってきたことである。

46~49の反歌を「起承転結」のワンセットとして捉えると(08年8月28日の項29日の項、47番歌は46番の「起」をうけて自然である。
この歌に関して、李寧熙氏は、次のように解読している(『
甦える万葉集』文藝春秋(9303))。

<原文>
真草刈荒野者雖有葉過去君之形見跡曾来師

<真の訓み下し>
真草刈(鉄を研ぐ)

荒野者(アラ人は)
雖有葉(すぐさとり言うであろう)
過去(懐刀)
君之(ひび入り)
形見(取りに入れば)
跡曾来師(失敗する)

<大意>
軽皇子よ。
鉄物づくりの、アレカラ(下加羅即ち金官伽耶)人である君は、
すぐ事をさとって言うであろう。
ふところ刀に ひびが入ったので 取り入れに問題が生じたと。

李氏は、「軽皇子は持統天皇の孫ではなく、草壁皇子の長子でもなかったと断言して憚らない」と言い、小林惠子氏の「文武王→文武天皇」説を支持している。
そして以下のように解説している。

金官伽耶は、現在の慶尚南道南端の豊かな平野一帯に位置していた古代王国で、韓国最長の大河・洛東江の下流にあたる。
この河口から対馬や出雲地方へ流れる海流がスタートしており、金官伽耶の首都だった金海は、韓国と日本を結ぶ絶好の港だった。
1世紀頃に建国したとされる伽耶諸国の中で、金官伽耶と上流の大伽耶が二大勢力を競っていた。

金官伽耶の建国王は、金首露王であり、新羅の名将・金庾信は、金首露王の12代孫にあたり、文武王はその甥にあたる(08年8月24日の項に記載の小林惠子説)。
金官伽耶は、532年に新羅に併合される。
文武王が、金庾信の甥であるということは、文武王には金官伽耶の血が流れているのであり、文武王が文武天皇になったとすれば、文武天皇にも金官伽耶の血が流れていたことになる。

洛東江上流の大伽耶は「ウガヤ:上伽耶」と呼ばれ、下流の金官伽耶は「アラガヤ、アレガヤ:下伽耶」と呼ばれていた。「ウ」は「上」の、「アラ、アレ」は「下」の意である。
李氏は、『日本書紀』の神代下に登場する「ウガヤフキアエズノミコト」の「ウガヤ」は、「鳥のウの羽をカヤとして産屋を葺く意」と解されているが、「大伽耶」から日本に進出してきた渡来神と理解すべきだという。
また、多量の銅剣の出土で知られる「出雲・荒神谷」の「荒」は「アラカヤ」の「アラ」を示すものだろう、とする。
『魏志倭人伝』に登場する「狗邪韓国」の「狗邪」は「グヤ、グサ、グジャ」と読む。
軽皇子の「軽」も「ガラ、ガヤ」をあらわす日本風表記である、とする。

人麻呂は、このような背景において、「アレガヤ」の者である軽皇子を歌に詠むのに、「草」の字を用いた。
伽耶の基盤は、強大な鉄文化であったが、ガルは「刀」も意味する語であり、鉄とともに存在した「加羅」「伽耶」にぴったりの国名である。
軽皇子は、「伽耶の皇子」「刀の皇子」「製鉄国の皇子」を意味することになる。

上記の47番歌に対する李氏の大意の「ふところ刀に ひびが入ったので 取り入れに問題が生じたと」の部分は分かりづらいが、「刈:ガル」「去:ガル」「之:ガル」と19字のうちの3字も「ガル」つまり「刀」を表す文字を使って怒りをぶちまけている、と解説している。
そして、人麻呂は、持統と文武の関係に対して、「文武を切れ」と怒っているのだ、としている。

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2008年9月 1日 (月)

正史と『万葉集』

持統天皇(および藤原不比等)の体制に批判的だったと思われる弓削皇子は、梅原猛氏が、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮文庫(9007)において、高松塚被葬者に比定したことで知られる。
しかし、梅原氏もいうように、正史に殆ど登場しない人物である。

『日本書紀』には、天武2(673)年の即位記事に、諸皇子にまじって名前が出ている。

二月の丁巳の朔癸未に、天皇有司に命せて壇場を設けて、飛鳥浄御原宮に即帝位す。正妃を立てて皇后とす。后、草壁皇子尊を生れます。先に皇后の姉大田皇女を納して妃とす。大来皇女と大津皇子とを生れませり。次の妃大江皇女、長皇子と弓削皇子とを生れませり。(後略)

次に持統7(693)年正月の記事である。

七年の春正月の辛卯の朔壬辰(二日)に、浄広壱を以て、皇子高市に授けたまふ。浄広弐を、皇子長と皇子弓削とに授けたまふ。

そして、死亡記事である。

癸酉浄広弐弓削皇子薨ず。浄広肆大石王、直広参路真人大人等を遣して、喪事を監護せしむ。皇子は天武天皇の第六の皇子なり。

つまり、正史に登場する弓削皇子は、「出生(母親)」と「一度だけの叙位」と「死去」だけである。
これに対し、既に見たように(08年8月22日の項26日の項)、『万葉集』においては、存在感を示している。
弓削皇子の作歌が合計8首あり、額田王の歌(8月23日の項)や春日王の歌(26日の項)など以外にも、彼に贈った歌や挽歌などがある。

梅原氏は、上掲書の中で、「弓削皇子は、大津皇子や草壁皇子や、高市皇子とならんで、あるいは、それ以上に、はっきりとした姿を現している」としている。
そして、正史と『万葉集』のこのコントラストにこそ、古代史の謎を解く最大の鍵があるとする。

つまり、『日本書紀』は、藤原氏を中心とする権力側の歴史である。自己に都合の悪い一切の事実が故意に抹殺されている。
一方、『万葉集』は、藤原氏を中心とする律令体制の中で没落していった大伴氏などによって作られたものであり、権力側と逆な視点で書かれているのではないか。
権力側によって抹殺された事実を、忠実に書き留めようとする遺志が働いているのではないか、と梅原氏はみる。

そのことは、一方においてのみ現れ、一方において現れない人物こそ、もっとも問題となる人物、ということになる。
『日本書紀』側の藤原不比等、『万葉集』側の柿本人麿の対比によって、この時代の像が明確になる。
その意味で、弓削皇子は、『万葉集』においては、大津皇子と並んで天武の皇子の中でも個性的な姿を見せる一方で、『日本書紀』や『続日本紀』にほとんど登場しないという大きな差異を持っており、古代史の鍵を握る人物の1人として位置づけられる。

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