持統10年の衆議粉紜…梅原猛説(ⅵ)
弓削皇子は、高市皇子が死んだ後、持統天皇が、次の皇太子を決めるために召集した御前会議での発言で知られる(08年8月18日の項)。
持統の意中は、草壁皇子の遺児、つまり自分の孫の軽皇子であった。
しかし、参会者は「衆議粉紜」でなかなか決まらなかった、といのが『懐風藻』の記事である。
その時の皇嗣候補者はどのようであったか?
天武の皇子のクラス分け(08年9月24日の項)の中で、Aクラスの草壁皇子は既に亡くなっている。
草壁皇子の子の軽皇子はまだ14歳だったから、梅原氏は、A’とする。
Bクラスの大津は既に処刑されたが、舎人、長、弓削とCクラスの新田部、穂積は健在である。
Dクラスは高市皇子が亡くなり、忍壁、磯城が残っている。
皇嗣候補者として考えた場合、Dクラスは卑母の生まれということで、候補から外されていたと考えられる。
Cクラスの穂積皇子は、但馬皇女とのスキャンダルで失脚したと考えられ、新田部皇子はまだ若い。
とすると、Bクラスの舎人、長、弓削とA’の軽が有力候補ということになる。
梅原氏は、舎人は、舎人娘子との相聞歌などから、スキャンダルでハンディキャップがあり、軽の対抗馬としては、長、弓削に絞られていたのではないか、と推測する。
軽か長かで、議論が紛糾したのではないか。
大友皇子の遺児の葛野王が、「神代より以来、子孫相承て、天位を襲げり。若し兄弟相及ぼさば則ち乱此より興らむ」と軽皇子を強く推す発言をした。
葛野王は、あらかじめ持統から時機を見て発言するように言われていた可能性もある。
『懐風藻』では、「弓削皇子座に在り、言ふこと有らまく欲りす。王子叱び、乃ち止みぬ」とある。
長、弓削は天智天皇の皇女の大江皇女を母とする同母兄弟である。
弓削皇子が、「言ふこと有らまく欲りす」とあるのは、兄の長皇子を推そうとしたのではないかと思われる。
しかし、葛野王の一喝により、発言を取り止めてしまう。
結果的に、持統の意の通りに軽皇子が皇嗣として選ばれ、後に文武天皇として即位することになる。
持統はおそらく藤原不比等と連繋して、自分の子孫にのみ皇位を継承するように計ったものと思われる。
記紀神話は、アマテラスの孫が降臨するというストーリーであり、持統の孫の軽が即位するのに合わせたのではないか。
梅原氏は、天皇という称号も、軽皇子の即位を容易にするためのものではなかったか、とする。
つまり、大王(オオキミ)の概念には、堂々たる成人の男性ということが前提とされていたのではないか。
大王に替わる天皇の称号は、大王に付帯していた堂々たる壮年男子のイメージを払拭しようとするものではなかったか。
にもかかわらず、やはり衆議粉紜したのは、軽皇子がまだ14歳だったということが影響してたのであろう。
持統は、天武崩御の直後、愛息・草壁皇子が即位するのに障害になりそうな大津皇子を、電光石火ともいうべき早業で排除した。
持統の意に逆らった弓削皇子が、非運の道を辿るのは避けがたいことではなかったか。
弓削皇子が吉野で詠んだ次の歌には、無常感が漂っていることについては既に触れた通りである(08年8月26日の項)。
弓削皇子、吉野に遊しし時の御歌一首
瀧の上の三船の山に居る雲の常にあらむとわが思はなくに (3-242)
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