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2008年8月 5日 (火)

馬頭御前と藤原百川

有宇中将=藤原宇合が成立するとすれば、有宇中将の子供の「中納言・馬頭御前」は誰をモデルにしているか?
「長屋王の変」の後、藤原不比等の4人の子供が実権を担う「藤原四子政権」の時代となるが、遣新羅使がもたらした疫瘡=天然痘により、四子が次々に亡くなってしまう(08年6月23日の項)。
四子の子供たちは、態勢立て直しを図るが、宇合の子どもとして名前が挙がるのは、次の6人である。
・広嗣
・良継(宿奈麻呂)
・清成
・田麻呂
・百川(雄田麻呂)
・蔵下麻呂

三好正文『猿丸大夫は実在した!!―百人一首と猿丸大夫の歴史学!!』創風社出版(0010)は、「中納言・馬頭御前」の条件を以下のように整理する。
①中納言の職に就任しているか、該当する官位「従三位」の位を得ていること。
②母親が奥州の豪族の娘であること(「ものがたりでは「朝日姫君)
③「馬頭御前」という名前からして、軍事的な指導者の実績を持つと共に、「中納言」の官職に就いていることから、文官としての実績にも秀でていること。武官→文官という順序ならば、最も望ましい。
④奥州の女房との間に「猿丸大夫」をもうけるのだから、奥州あるいは東国に赴任した履歴を持つこと。

2これらの条件に宇合の息子たちを当てはめると、表のようになる。
この表からすると、「中納言・馬頭御前」に該当する条件をすべてクリヤしているのは、藤原百川ということになる。
なお、百川の本名「雄田麻呂」は、陸奥国小田郡との関係を連想させる。
陸奥国小田郡は、大伴家持の「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌一首並に短歌」(18-4094~4097)で知られる、廬舎那仏造顕にとって重要な金が産出した場所である。

有宇中将=藤原宇合、中納言・馬頭御前=藤原百川とすると、「朝日長者」、「朝日姫君」、「朝日長者屋敷の女房」さらには「猿丸大夫」に該当する人物が、『続日本紀』のような史料に登場しているであろうか?
百川の母は、久米連奈保麻呂女・若女である。つまり「朝日長者」は、久米連奈保麻呂ということになる。
久米氏は、物部氏や大伴氏と並んで、「みつみつし 久米の子等……撃ちてし止まむ」の久米歌で知られるように、天皇家あるいは朝廷の軍事を担当した氏族として有名である。

『万葉集』に藤原宇合に因んだ歌がある。

藤原宇合大夫、遷任(メ)されて京に上る時、常陸娘子の贈る歌一首。
庭に立つ麻手刈り干し布さらす 東女を忘れたまふな (4-0521)

三好氏は、『常陸国風土記』の中に、次のようなヒントを見出す。
なお、『常陸国風土記』は、若き国守だった宇合が自ら編集・執筆したものとされる。
①久慈郡に、藤原鎌足の封戸が存在する。
鎌足の祖・中臣氏は、常陸国鹿島神社の神官であったとされ、常陸国と関係が深い。

②久米大夫の名前が登場する。
「助川の駅家あり。昔遇鹿と号く。……。国宰、久米の大夫の時に至り、河に鮭を取るが為に、改めて助川と名づく」。つまり、久慈郡に、在地豪族の久米氏が存在し、ある時期に常陸国の国守を務めたと考えられる。

③助川は、陸奥への入り口である。
「くじの堺の助河を以ちて道前と為し、……陸奥の国の石城の郡の苦麻の村を、道後と為しき」。つまり、常陸国と陸奥の境界が、助川から苦麻村までだったということで、久慈郡は、東国の対奥州の最前線であった。

④長幡部が特殊な布を献上した。
『常陸国風土記』に記されている「特殊な布」とは、三好氏によれば、下のような布である。
ⅰ)天から地上に下った珠売美万(スメミマ)命(ニニギノミコト)と関係する
ⅱ)「扉を閉ざした暗い部屋」で機をを織る
ⅲ)完成した布はそのまま衣服となる
ⅳ)強い平氏が強靱な刀で切っても切断できない

この布とは?
三好氏は、この布は、大嘗祭の「真床襲衾(マドコオブスマ)」に違いない、と推測する。
そして、縦糸を麻で、横糸を絹で織れば、刀で切断できない強度になる。
麻と絹で織った布は、朝鮮半島渡来の絹と、日本土着の麻の組み合わせだから、天孫降臨の衣服にふさわしい、とする。

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