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2008年8月 9日 (土)

「古今伝授のまち三島」と飯尾宗祇

三島の市内には、JR三島駅前の交差点付近を始めとして、何箇所かに「古今伝授のまち三島」という標識が立っている。
三島市が標榜している「古今伝授」とは何か?
「古今伝授」は、『古今(和歌)集』の解釈についての秘伝を、師から弟子へ後世に伝えたものといわれる。
文明3(1471)年、三島で、東常縁(トウノツネヨリ)から、飯尾宗祇に伝授されたのが、形式化された初めだとされており、それで三島市は、「古今伝授のまち」をウリにしているわけである。
古今伝授を受けるには、一切他言しないことが条件だとされ、弟子は師に対して、誓状を提出しなければならなかったという。

『古今集』は、最初の勅撰和歌集として、醍醐天皇の命により編纂され、延喜5(905年に成立した。
平安朝文学の典型として、歌をつくるための手本とされてきたが、成立後100年以上も経つと、歌の本文や解釈について、さまざまな疑義が生じてきた。
それに対し、各人各派の注釈が行われるようになった。

東常縁は、藤原定家より御子左(ミコヒダリ)家(俊成・定家の父子により確立された師範の家筋:醍醐天皇皇子左大臣源兼明の邸宅を伝領したことに由来)の歌学を教授されると共に、正徹や尭孝などの歌人に学んだ。
切り紙による伝授方式を取り入れて宗祇に伝授したとされ、その切り紙方式によって、「古今伝授」が確立したという。

「古今伝授」の内容は、『古今集』の歌の解釈と、「三木三鳥」などの秘説を授けることだという。
三木とは、「おがたまの木」「めどに削り花」「「河菜草」、三鳥とは、「よぶこどり」「ももちどり」「いなおほせどり」のことだという。
しかし、そんなことが秘伝になるだろうか?

「古今伝授」については、次のような逸話が知られている。
宗祇から三条西実隆に伝えられた「古今伝授」は、さらに三条西家の中で、公条から実枝に受け継がれるが、実枝が世を去ったとき、嫡子の実条がまだ幼少だったため、弟子の細川幽斎が一時預かるということになった。
その幽斎が、石田三成の軍勢に囲まれて討死を覚悟したとき、それを知った後陽成天皇が、勅使を派遣して和議を講じさせた。
幽斎の討死により「古今伝授」が断絶してしまうことを恐れたためだという。
つまり、「古今伝授」の内容は、そのような重みを持っていたということである。
とても、三木・三鳥が何を指しているか、というようなことだけとは思えない。

飯尾宗祇は、室町後期の連歌師で、連歌を全国に広めた。
今日の俳句は、この連歌の発句が独立したもので、芭蕉も宗祇を敬慕していた。
宗祇は漂泊の歌人ともいわれるように、全国を旅し、『白河紀行』などの著作がある。
東常縁から宗祇への「古今伝授」は、文明3(1471)年、正月28日から4月8日までと、同年6月12日から7月25日まで、2回にわたって行われたという。
このうちの少なくとも初回は、三島で行われたものとされる。

三島滞在中の3月27日、東常縁の息子の竹一丸の病気平癒を祈願して、『三島千句』を三嶋大社に奉納した。
この頃、関東の古河公方が韮山の堀越公方に攻撃を仕掛けていて、東常縁は、三島に陣を張っていた。
『三島千句』の発句は次の句である。

なべて世の風を治めよ神の春

単なる病気平癒の祈願というだけでなく、戦乱の世に対して平和の到来を願った意味もあったように思われる。

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