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2008年8月29日 (金)

安騎野の朝

大宇陀町中央公民館に、中山正實制作の『安騎野の朝』という壁画が飾られているという(未見)。
中山画伯は、相当綿密な考証を行った上で描いたらしい。制作は昭和15(1940)年である。
その考証の結果の大要は、以下の通りである(http://www.bell.jp/pancho/travel/ossaka/kagirohi-no-oka.htm)。

①安騎野の宿営地点は、大宇陀町阿紀神社付近である。
②人麻呂が朝明けの実感を得た地点は、阿紀神社前面の小丘、現在「かぎろひの丘」とされているところである。
③背景は秋山城址の南麓あたりで見える情景で、左肩方面に高見山が見える。
④日時は、持統6年の陰暦11月17日午前6時前後。
⑤馬の大きさや骨格は、関保之助博士の指導援助による。

この考証による陰暦11月17日にあたる日に、毎年、万葉公園で「かぎろひを観る会」というイベントが開催されている。1972年に始まった。
早朝に参加者が焚き火を囲み、「かぎろひ」が現れるのを待つ。
陰暦11月17日は、現在の暦では12月20日前後になる。午前6時といえば、相当に冷え込みが厳しいだろうと思われる。
笹酒などが振舞われるというから、是非一度参加してみたいと思う

ところで、そんな時期に本当に狩をしたのだろうか、という疑問が湧く。
薬猟ならば、推古紀の記事からも、あるいは蒲生野の「あかねさす」の額田王の歌からも、初夏の頃に行われるものだろう。
45番の長歌によれば、雪も降っている様子である。雪が降り積もった野で狩を行うことなどあるのだろうか?

この狩については、季節の問題を別にしても、疑問の点がいくつかある。
誰が主宰したのかといえば、持統だったのだろうが、主格は軽皇子だったであろう。
軽皇子が持統11年に15歳で即位したとすれば、持統6年にはまだ10歳の少年である。

草壁皇子は3年前に28歳で亡くなっており、軽皇子も文武天皇として即位して10年後の25歳で亡くなっている。
とすれば、草壁-軽の親子は病弱な体質だったように思われる。
その病弱な10歳の少年が、冬の荒野で野宿するような狩をするのだろうか?
しかも、草壁皇子亡き後は、持統天皇が何とか皇位を継がせたいと思っている掌中の玉である。
何かウラがありそうな気がする。

この歌は、45番の長歌に対して、46~49番の反歌がワンセットになっている、と考えられる。
小松崎文夫氏は、『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)では、反歌4首が、「起承転結」の構成にあるという那珂通高氏の説に拠りつつ、48番歌の「転」について、以下のように考察している。

私は、これは明らかに「日=軽皇子・月=草壁皇子」を象徴する人麻呂の意匠であり、暗喩であるとはっきり言い切れると思う。

原表記を見てみよう。

東野炎立所見而反見為者月西渡  (1-48)

48番の「月西渡」は、現在「月傾きぬ」と訓じられている。
叙景歌とすれば、「東」-「西」という対比で、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の句と同様の趣とも思える。
しかし、この「月西渡」=「月傾きぬ」の訓は、議論のあるところであり、いささかムリな訓なのではなかろうか。
小松崎氏は、この歌(だけ)が叙景歌であるはずがなく、「月」すなわち「草壁皇子」の「西渡」すなわち
「死(薨去)を意味している、としている。
訓は別として、意味としては合理的な解釈だと思う。
つまり、安騎野は、草壁皇子の「思い出の地」や「記念の地」というよりも「臨終の地」と考えるべきではないのか、ということである。

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