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2008年8月26日 (火)

皇子たちの万葉歌

『続日本紀』の文武即位前紀の記事をもう一度見てみよう(宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206))。

天之真宗豊祖父天皇は天武天皇の孫で、日並知皇子尊の第二子である(分注。日並知皇子尊は宝字二年(七五八)に勅があって、天皇の号を追贈し、岡宮御宇天皇と称した)。母は天智天皇の第四女、元明天皇である。

ここで日並知皇子は、いうまでもなく草壁皇子のことを指している。
『万葉集』には、日並知皇子尊作の歌がある。

  日並知皇子尊、石川女郎に贈り給ふ御歌一首(女郎、宇を大名児といふ)
大名児を彼方(ヲチカタ)野辺に刈る草の束の間もわれ忘れめや  (2-110)

この歌は、有名な大津皇子と石川郎女の相聞歌の次に置かれている(07年8月27日の項)。

  大津皇子、石川郎女に贈る歌一首
あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに  (2-107)

  石川郎女、和へ奉る歌一首
吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくに成らましものを  (2-108)

  大津皇子、密かに石川女郎に婚(ア)ふ時、津守連通その事を占へ露すに、皇子の作りましし御歌一首(未だ詳らかならず) 
大船の津守の占に告らむとはまさしに知りてわが二人宿(ネ)し  (2-109)

また、この歌の次の歌は、弓削皇子が額田王に贈った歌(08年8月22日の項)である。
この配列に何か意味があるのだろうか?

大津皇子との対比で言えば、大津皇子の颯爽ぶりに対して、日並知皇子(草壁)はいささか分が悪い。
石川郎女をめぐっての史実はかならずしも明らかではないが、掲載歌においては大津皇子と石川郎女はワンセットの相聞歌になっていて、石川郎女の心は大津皇子に傾いている。
それに対し、草壁皇子はひたすらな片思いといった印象を受ける。

草壁皇子と弓削皇子との関係はどうだろうか?
草壁皇子が天武の後継者として位置づけられた「吉野の盟約」には、弓削皇子はまだ6歳くらいと推定され、参加する年齢ではなかった。
弓削皇子は、高市皇子が亡くなって、持統が群臣を集めて皇太子の問題を論議させた際に、「衆議粉紜」でなかなか決まらなかった時に、持統の方針に反対しようとしたことが知られている(08年8月18日の項)。

そのこともあって、弓削皇子は、朝廷内で不利な立場にあったのだろうか?
『万葉集』の次の歌は、弓削皇子の無常感を感じさせるような歌である。

  弓削皇子、吉野に遊しし時の御歌一首
瀧の上の三船の山に居る雲の常にあらむとわが思はなくに  (3-242)

これに対して、春日王が次のように応えている。

  春日王の和へ奉る歌一首
王は千歳に座む白雲も三船の山に絶ゆるひあらめや  (3-243)

弓削皇子が、「自分の先行きはどうも怪しいようだ。いつまで生きていられることだろうか」というような心情を詠めば、春日王が、「そんなことは決してないよ」と慰めているという図式である。

弓削皇子が皇太子の問題で葛野王に叱責されたのは、持統10(696)年である。
上記の歌の制作年代は明らかでないが、弓削皇子は文武3(699)年に亡くなっている。推測年齢26歳だから、自然死ではないと思われる。
文武3年には、次のような死亡記事が見られる。

1月28日 浄広参の坂合部女王が卒した。
6月23日 浄広参の日向王が卒した。
6月27日 浄大肆の春日王が卒した。
7月21日 浄広弐の弓削皇子が薨じた。
9月25日 新田部皇女が薨じた。天智天皇の皇女である。
12月3日 浄広弐の大江皇女が薨じた。天智天皇の皇女である。

春日王と弓削皇子が親しい間柄であったことは、上記の歌からも推認できる。
また、大江皇女は、弓削皇子の母である。
新田部皇女は、大江皇女の妹である。
つまり、弓削皇子の親しい人たちが、次々に亡くなっているわけである。
これらの弓削皇子周辺における近接している死は偶然のことだろうか?

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