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2008年8月 6日 (水)

藤原式家と桓武天皇

久米連若女は、宇合に迎えられ、都で生活するようになり、雄田麻呂(後の百川)が生まれる。
父の宇合が、天然痘に罹患して、43歳で急逝したのは、天平9年8月5日のことであった(08年6月23日の項)。このとき、雄田麻呂はまだ5歳だった。
そして、天平11年3月28日条には、以下のような記事がある。

石上朝臣乙麻呂は、女官の久米連若女を犯したという罪に関わって、土佐国に配流され、若女も下総国に流された。

当時の律令は、夫に先立たれた妻は、2年間新たな男性と性的な関係を持ったり、再婚するのは許されない、と規定していた。
確かに、2年に満ちていないから、若女の流罪は当然ということになる。
しかし、この事件の背景には、さらに深い事情があったのではないか、と三好正文氏は推測する(『猿丸大夫は実在した!!―百人一首と猿丸大夫の歴史学』)。

常陸国の久米連若女にとって、配流先の下総は、故郷に近い場所であった。
天平12年6月15日、大赦が勅される。
久米連若女も、「流罪地から召して京に入らせた」。しかし、石上乙麻呂は「赦の中に入れない」とされた。
この直後の8月29日には、藤原広嗣が「表をたてまつって、時の政治の得失を指摘し」、9月3日には、広嗣は「ついに兵を動かして反乱した」(08年6月26日の項)。

こうした時代背景を基に、三好氏は、この不倫事件は、石上乙麻呂排除の「謀略事件」だったのではないか、と推測する。
乙麻呂は、広嗣支援に動いていた可能性が高い。宇合の二男・良継(宿奈麻呂)や四男・田麻呂は、広嗣に連座している。
橘諸兄政権の側は、藤原氏の分断と石上氏の軍事力を封じ、併せて若女の父・久米連奈保麻呂の協力を取り付けるために、事件を仕組んだのではないか?

2_2雄田麻呂は、大宰帥への就任を機会に、中国風の「百川」を名乗るようになる。
この「百川」についても、三好氏は面白い推論をしている。
つまり、「百」は「白」を越えているという意味である(言い換えれば、「白」は「百」の手前:白寿など)。
奥州の入り口は「白河」であり、それを越えた奥州の出身だから「百川」。

百川は、光仁・桓武と続く天智系への皇統の転換の立役者として位置づけられている。
天智系天皇の実現には、後宮勢力が大きな力を発揮したといわれ、久米連若女は、後宮の要職にあった。
若女と百川の母子は、協力して桓武天皇の実現を図ったのであろう。
長岡京遷都の責任者の藤原種継は、宇合の孫(清成の子)であり、皇后の乙牟漏も良継の娘で宇合の孫であるし、夫人の旅子も百川の娘で宇合の孫であった。
また、桓武天皇のブレーンの緒嗣も百川の子で宇合の孫である。
宇合を開祖とする式家の総力を挙げて支援したのが桓武天皇だった。

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