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2008年8月22日 (金)

持統天皇の吉野行幸と弓削皇子の歌

持統天皇が頻回の吉野行幸を行ったことは良く知られている。
持統3年の正月18日から始まり、持統11年4月まで、30回以上に及ぶ。
吉野行幸の始まった直後ともいうべき4月13日に草壁皇子が急死。
そして、持統10年秋7月10日「後皇子尊薨せましぬ」という不思議な表現で高市皇子の死が記され、紛糾しつつも持統11年2月に軽皇子が立太子すると、以降は11年4月に行幸しただけで、吉野行幸の記事は見えなくなる。

この頻回の吉野行幸はどう理解したらいいのだろうか?
関裕二氏は、『謎の女帝・持統』ベスト新書(0202)で、直木孝次郎『持統天皇』吉川弘文館(8507)と吉野裕子『持統天皇』人文書院(8712)を総合して、以下のようにまとめる。

持統の吉野行幸は、持統の天武を思う気持ちがさせたことでもあるが、それにしては度が過ぎた回数の行幸となっている。よって、この行幸には、呪術的な要素がふんだんに盛り込まれていた……。

その上で、関氏自身の見解として、「吉野宮は重要な軍事拠点だった」と述べている。

李寧熙『天武と持統』文藝春秋(9010)は、持統の吉野通いの謎は、高市皇子-文武天皇-持統天皇の3人を結ぶ延長線上に謎解きのヒントがあるとする。
李氏は、『もう一つの万葉集』文春文庫(9107)で、『万葉集』は韓国語で読まないとその真の意味が理解できない、として話題になった、日本生まれの韓国人女性である。
韓国語を知らない人間からすると論評のしようもないのだが、藤村由加『額田王の暗号』新潮社(9008)で、万葉歌を日本語と韓国語の二重性において理解するという方法を知ったときには、「目からウロコが落ちる」思いをした。
しかし、李氏の解釈は、いささか強引にコジツケ過ぎるような気がする。
『天武と持統』では、持統の吉野通いを批判した万葉歌として、弓削皇子と額田王の歌を挙げている。

弓削皇子の歌
(吉野の宮に幸(イエマ)しし時、弓削皇子、額田王に贈与(オク)る歌一首)
古尓恋流鳥鴨弓絃葉乃三井能上従鳴渡遊久 (2-111)
<訓>
古に恋ふる鳥かもゆづるはの 御井の上より鳴き渡り行く
<大意>
古を慕う鳥だろうか ゆずり葉の 御井の上から 鳴いて飛んでゆく
<李氏の韓国語訓>
「串」入れに 廻り行く、
行列続く、
「水」(または「三代」)つなぐ
上様に
ろばは 遊びながら付いて行く。
<李氏による韓国語訓の大意>
また逢いに行くんだな。長々と行列をなしてさ。飛鳥から吉野川までお(または、「三代」を)つなぐ上様のシンガリに、ろばは遊び半分のろのろ付いて行ってるさ。

ここでは割愛せざるを得ないが、李氏は、逐語的に解説していて、その方面(韓国語)に堪能な人ならば妥当性を検証できるだろう。
高市皇子の死後、持統が軽皇子(文武天皇)を立太子させようとした方針に対して、弓削皇子が反対したとされる(07年9月11日の項)。

上記の解釈を元に、李氏は次のような推論を提示する。
①持統天皇は、恋人に逢いに吉野通いをしていたようであること。
②吉野には、馬にのって通ったようであること。
③恋のお相手は、どうやら即位前の文武天皇のようであること。と、すると、文武天皇は持統天皇の孫ではないと思われること。

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