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2008年8月24日 (日)

文武天皇の歌

『万葉集』には、文武天皇に係わる歌が収載されている。
前書きと左注は次の通りである。
「大行天皇、吉野の宮に幸しし時の歌」
「右の一首、或は云はく、天皇の御製歌」
大行天皇は文武天皇のことで、吉野に行幸された時に歌われたもの、というのが前書きで、一説によると天皇ご自身が作られたと左注がついている、ということだ。

見吉野乃山下風之寒久尓為当也今夜毛我独宿牟 (1-74)
<訓>
み吉野の山のあらしの寒けくに はたや今夜も我がひとり寝む
<大意>
み吉野の山颪(オロシ)の風が寒いのに もしや今夜もわたしはひとりで寝ることだろうか (『全集』)
み吉野の山の嵐が寒い今夜も、もしかすると私は独り寝をすることであろうか (『大系』)

『全集』は小学館刊『日本古典文学全集』、『大系』は岩波書店刊『日本古典文学大系』

日本語で読んだ場合、特に難解な訓でも大意でもないだろう。
『続日本紀』には、次の吉野行幸記事がある。
大宝元(701)年
二月二十日 吉野離宮に行幸された。
大宝2(702)年
七月十一日 天皇は吉野離宮へ行幸された。
「寒けくに」ということからすると、大宝元年の行幸の際であろうか?
持統11(697)年に15歳で即位したとすれば、大宝元(701)年には、文武天皇は19歳である。
しかし、大宝元年正月1日に華やかな朝賀の儀式を終えたばかりである。
「我がひとり寝む」というのは、何を言おうとしているのか?

李寧熙氏による解読は以下の通りである(『甦える万葉集』文藝春秋(9303)。

A:表詠みの大意
水の吉野の
山の下風 寒さをつのらす
よもすがら今宵も
我ひとり寝む
B:裏詠みの大意
裾をひろげ その下を漱ぎ給え
刺し込もうではないか
しかし、「こみ価格」で頂くとしよう
私は、天下を独り占めしたいのだ

李氏は、この歌は、性愛歌のように見せかけたクーデター宣言の歌だとし、以下のような結論を導き出す。
①文武天皇は新羅系の人物であったと思われること。徹底した新羅ことばの使いぶりや、純吏読風な書き方からして、日本に来ていくばくも過ぎていない新羅系の渡来人ではないかと思われること。文武自身の作でないとしても、文武の平素のことば遣いを真似て表現したものと思われること。
②文武天皇は即位前の相当期間、吉野に住んでいたと思われること。
③文武と持統は性的交渉を続けていたと思われること。従って文武は持統の孫でもなく、年齢も従来説とは大幅に異なると思われること。
④高市皇子(高市天皇?)の逝去(暗殺?)をめぐる政権盗りにかかわるある種の謀議が、文武・持統を中心に行われたと思われること。

そして、小林惠子氏の説を以下のように要約して紹介している。

軽皇子つまり文武天皇は、草壁皇子の長子ではなく天武天皇の長子である。
天武天皇の前身は高句麗の宰相淵蓋蘇分将軍である。
蓋蘇分は若くして新羅金庾信将軍の妹を娶り、身籠らせる。庾信は金官伽耶王族出身である。
唐との長年の激戦に敗れ日本に亡命した蓋蘇文は、壬申の乱で政権取りに成功、天武天皇となる。
庾信は妹を新羅の王族金春秋と結婚させる。春秋は後の太宗武烈王(新羅第二十九代)。
武烈王の長男として育った蓋蘇文の子は、文武王(新羅第三十代)となる。
三国統一後唐の攻撃を受け、新羅の東海岸から日本に亡命した文武王は、高市皇子(高市は天皇であった)の死後、持統の協力を得て天皇に即位する。文武天皇である。

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