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2008年8月 4日 (月)

有宇中将と藤原宇合

『日光山並当社縁起』に書かれている「ものがたり」は、架空の「ものがたり」なのであろうか?
『縁起』は、猿丸大夫の祖父・有宇中将について、「聖武天皇の御世、神亀五年に始まる」としている。
ところで、神亀5(728)年とは、どのような年だったか?
『続日本紀』の神亀5年8月1日、聖武天皇は、次のように勅す(宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206))。

朕はおもうところがあって、この頃鷹を飼うことに気が進まない。天下の人もまた鷹を飼わないようにすべきである。後に勅があるのを待って、それから飼うようにせよ。もし違反者があれば違勅の罪を科せよ。このことは天下に布告して皆に承知させよ。

唐突感を拭えない勅であるが、8月21日には次のような勅を出している。

皇太子の病が日を重ねても癒らない。三宝(仏法僧)の威力に頼らなければ、どうして病気をのがれることができようか。そこで慎んで観世音菩薩像百七十七体をつくり、あわせて観音経百七十七部を写し、仏像を礼拝し経典を転読して、一日行道(経をとなえながら仏像や仏殿のまわりをめぐる行)を行いたいと思う。この功徳によって皇太子の健康の恢復を期待したい。

鷹の飼育禁止の勅も、皇太子の病気恢復を祈願するためのものだったと推測される。
ところで、有宇中将が東国へ旅に出たのは、鷹狩に熱中して天皇の怒りを買ったことが原因だった(08年8月1日の項)。
とすれば、有宇中将の「ものがたり」は、史実を反映したものではないか?
神亀5(728)年の翌天平元(729)年には、「長屋王の変」が起きる(08年6月17日の項)。

藤原不比等が娘たちを入内させて(文武天皇夫人・宮子、聖武天皇皇后・光明子)権力を握る構想が着々と実現しつつあった。
その障壁となろうとしたのが、長屋王だった。
長屋王と藤原氏との対立は、皇太子が1歳で亡くなってしまったことにより、頂点に達する。
それは、聖武天皇の後嗣問題(08年6月14日の項)と関連していたのではないか、と推測される。
無理をして、生後1か月も経たぬうちに立太子させたのも、藤原氏に係わる皇統を維持するためであった。
その皇太子が薨じてしまったことにより、長屋王が即位する可能性もあり得る。
「長屋王の変」は、藤原氏側にとっては、命運を賭けた勝負だった。

「長屋王の変」で、藤原氏側(聖武天皇側)の武力行使の中心にいたのが、藤原四子の中の三男・宇合(式家)だった。
宇合(ウマカイ)は、もともと馬養(ウマカイ)と表記されていた。
猿丸大夫は実在した!!―百人一首と猿丸大夫の歴史学!!』創風社出版(0010)において、三好正文氏は、「縁起」の主人公・有宇中将が、「愛馬を乗りこなして奥州へ旅に出たこと、「宇合」と「有宇」に共通する「宇」から、有宇中将のモデルは、藤原宇合ではないか、という仮説を立てる。

『続日本紀』には、養老3((719)年7月13日の条に、「常陸守・正五位上の藤原朝臣宇合に安房・上総・下総の三国を管掌させ」とあり、神亀元(724)年4月7日の条に、「海道の蝦夷を征討するため」に、「式部卿・正四位上の藤原朝臣宇合を持節大将軍に任じ」とある。
宇合の東国・奥州での生活は、5年4か月であり、有宇中将が、6年間、奥州の朝日姫君のもとで暮らした、という「縁起」の記述と一致している。

そして、何よりも、宇合は、持節大将軍に任ぜられた時点では、正四位上(中将に相当)だったのが、征夷の功績により、神亀2(725)年1月22日には、従三位(大将に相当)に昇格している。
有宇中将もまた、6年間を東国・奥州で過ごした後、大将に出世している。
つまり、「有宇中将のモデルは、藤原宇合である」という三好氏の仮説は、立証されたわけである。

なお、「長屋王の変」に関連して、2月17日に、「外従五位下の上毛野朝臣宿奈麻呂ら七人は、長屋王と意を通じていたことがとがめられ、いずれも流罪に処せられた。その他の九十人はすべて放免された。」とある。
三好氏は、上野国を故地とする宿奈麻呂の記事は、下野の日光山の神と上野の赤城山の神が領土争いをしたという「縁起」の「ものがたり」を想起させるが、これは偶然だろうか、としている。

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