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2008年8月17日 (日)

鸕野皇后と草壁の間の隙間風

中院通茂の『大日本哥道極秘伝書』が記すように、持統皇后と柿本人麻呂の間に禁断の恋があったとして、それは宮廷内でどう受け止められていたであろうか?
もちろん、それはタブーに属することであっただろう。
しかし、最高権力者である鸕野皇后である。それを公けに問題視する人もいなかったと思われる。
「見ざる」「言わざる」「聞かざる」の三猿状態だったのではなかろうか。

しかし、一人だけ、鸕野皇后に臆することなく諫言できる人物がいた。
愛息の草壁皇子である。
草壁は、先代の天武から後継者に指名された皇位に就くことが確実な皇子であった。
草壁が鸕野皇后の恋を不愉快に感じたとしたら、人麻呂との関係を断つように進言した可能性は高い。

鸕野皇后は動顚したことだろう。
ライバル大津を粛清して、愛する草壁が皇位に就く障害を除去した。
その草壁が、自分を咎めるとは……。
草壁には虚弱なイメージがつきまとっているが、天武と鸕野の間の子供であれば、それなりに強い性格の持ち主であったと推測される。
成人してからも、いつまでも母の言うなり、というわけではなかっただろう。

草壁は、称制段階の鸕野皇后には、自分が即位するまでの間、朝政を仮に預けているという感覚もあったかも知れない。
しかし、鸕野皇后は、自分が最高権力者であると自認していた。
自らの価値観に異議を唱えられることは、想定外のことだったに違いない。
密着して生きてきた鸕野皇后と草壁の間に、隙間風が吹くことになった。
表沙汰になった鸕野皇后と人麻呂の関係について、敏腕を振るって鎮静化させたのが、藤原不比等であったのではないか、と柿花仄氏は以下のように推測している。

①密通事件の暴露。諸事情から見て、多分持統3(689)年の、元日から1月18日の間の某日に起こったと思われる。
②1月18日~21日にかけて、持統の第一回吉野行幸。
③2月26日。藤原不比等が新任判事に任命される。
④4月13日。草壁皇子薨去。
⑤草壁皇子薨去後、まもなく<黒作懸佩刀>の授受。これで軽皇子即位への布石が敷かれた。
⑥持統の、まるでピンポン玉のような、めまぐるしい吉野行幸の往復が始まった。
⑦翌持統4(690)年正月元旦、持統の即位。年は明けたが、密通発覚から1年も経っていない時期の、しかも不比等邸での、厳戒態勢下の即位であった。

こういう流れの中で、草壁の死を捉えると、とても自然死だったとは思えない。
溺愛していた草壁の死に、鸕野皇后が関与していたのか?
吉野裕子『持統天皇』人文書院(8712)も、鸕野による草壁排除説を唱えており、あり得ないこととは言えない。
もし、それが暗黙裡に宮中に知られたとしたら?
皇太子の草壁ですら鸕野皇后(持統)の意に反したら消されてしまう。
その政治的効果は絶大だっただろう。

もし、草壁の死後、誰か他の候補者(高市皇子など)が皇位に就けばどうなったか?
おそらくは、密通事件により、鸕野皇后の権威は失墜し、不比等の政治生命も絶たれた可能性が高い。
それを防ぐには、軽皇子へ皇統を繋ぐことが必須である。
そのために考案されたのが、<黒作懸佩刀>の授受だとすれば、理解しやすい。
そして、皇位に就いた持統に対して、反旗を翻す人間は皆無となった。

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