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2008年8月19日 (火)

文武天皇をめぐる謎

澤田洋太郎『異端から学ぶ古代史』彩流社(9410)によりつつ、「聖武天皇をめぐる謎」について記した(08年7月8日の項)。
上掲書によって、聖武天皇の父・文武天皇をめぐる謎について、検討してみよう。
文武天皇は、草壁皇子の遺児である。
2_2系譜上の位置は、図に示す通りである(寺沢龍『飛鳥古京・藤原京・平城京の謎』草思社(0305))。
そして、草壁皇子の薨去後、持統天皇が自らの血統を継ぐ皇統の維持を図るため、自ら皇位に就いて文武にバトンタッチしたこと、藤原不比等が藤原氏の血統を皇統に注入するため、娘の宮子を夫人としたこと等において、日本古代史の皇統におけるキーパーソンであるが、『日本書紀』と『続日本紀』の記述には以下のような謎がある。

1.没年齢
草壁皇子は689年に、文武天皇は707年に亡くなっているが、『日本書紀』『続日本紀』ともに没年齢を記していないし、この2人の功績を讃えたり、死を悼む言葉が記されていない。

2.皇后不在
『日本書紀』には軽皇子立太子に直接触れた記事がなく、持統11年春2月28日の条に、「直広壱当麻真人国見を東宮大傳とした。直広参路真人跡見を春宮大夫とした」とあるだけである。
『続日本紀』の冒頭の文武天皇の即位記事には、以下のような記述がある(宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206))。

母は天智天皇の第四女、元明天皇である。天皇は天性ゆったりとしておられ、めぐみ深く怒りを外にあらわされることもなかった。ひろく儒教や歴史の書物を読まれ、とくに射芸(弓を射ること)にすぐれておられた。持統天皇の十一年に皇太子にお立ちになった。

文武即位は、文武元(697)年8月1日であり、崩御は慶雲4(707)年6月15日であるから、在位期間はほぼ10年である。
この間に、皇后を立てなかったのはなぜか?
天皇家にとって、血統はもっとも重要なテーマであるにもかかわらず、そして文武即位は持統の宿願であったにもかかわらず、皇后を立てなかったのは大きな謎である。

3.妃をめぐる謎
『続日本紀』の文武元(697)年に以下の文章がある。

八月二十日 藤原朝臣宮子娘(不比等の娘、聖武天皇の母)を、文武天皇の夫人とし、紀朝臣竈門の娘・石川朝臣刀子娘を妃(嬪の誤りか)とした。

和銅6(713)年には、次のようにある。

十一月五日 石川(石川朝臣刀字娘)・紀(紀朝臣竈門娘)の二嬪の呼称を下して、嬪と称することが出来ないことにした(宮子夫人への考慮か)。

この呼称変更の意味は何か? この2人には子供はいなかったのか?

4.名前の謎
文武天皇は、なぜ「軽皇子」と呼ばれたのか?
また諡号の「天真宗豊祖父天皇」の「祖父」とはどういう意味か? 文武天皇は、若くして死んだのではないか?

5.年齢の謎
文武天皇の没年齢について、『懐風藻』、『扶桑略紀』、『水鏡』、『一代要記』、『皇代記』などは、25歳没としているが、『愚管抄』に、次のような文章がある。

諱は軽、十五にして在位、(死去の)御年は二十五あるいは七十八

宮内庁に現存する『帝王系図』には、「白鳳十二年に誕生し、慶雲四年に六十五歳で亡くなった」とする記述があるという。
白鳳という年号についても謎が多く(08年1月12日の項2月20日の項)、白鳳十二年をどの時点とするか疑問であるが、文武天皇の没年齢に高齢説があることは確かである。

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