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2008年8月10日 (日)

飯尾宗祇の墓と裾野市・定輪寺

先の秋葉原通り魔事件の犯人は、静岡県裾野市在住の派遣労働者であった。
一部には、この犯人をヒーロー扱いしたがる心理もあるようであるが(08年6月22日の項)、私は、派遣労働者の労働条件にどんな問題があったとしても、この事件が免罪されるものではないと考える。
まあ、改めて言うまでもないことではあろうが。

その犯人が住んでいた場所と隣接して、桃園という魅惑的な名前の地域がある。
かつては定輪寺村と呼ばれていたこともあったようで、曹洞宗の古刹・定輪寺があって、そこに飯尾宗祇の墓Photoがあり、『三島千句』の発句「なべて世の風を治めよ神の春」の句碑が建てられている。

宗祇は諸国をめぐって連歌の普及に功を残したとされ、1502年に、弟子の宗長らを伴って、越後国府(直江津)から美濃に向かう旅の途中で発病し、箱根湯本で没した。享年82歳だったというから、かなり長寿ということになる。
宗祇の遺骸は、宗長らの担ぐ輿に乗せられて、裾野まで運ばれ、定輪寺に葬られたと伝えられている。

桃園地区の入り口にあたる場所に、宗祇の代表句の1つとされる次の句碑が建っている。

          世にふるはさらに時雨の宿りかな

この句は、宗祇を敬慕していた芭蕉が次の句を詠んだことで有名になった。

世にふるもさらに宗祇の宿りかな

芭蕉忌を時雨忌ともいうように、芭蕉には時雨の句が多い。
宗祇も芭蕉も漂泊の人だったから、旅先で時雨にあうこともしばしばだったのだろう。
『奥の細道』の序文中の「古人も多く旅に死せるあり」という文章の「古人」は、単にいにしえの人ということではなく、西行や宗祇のことを意識していたとされる。

2001年は、宗祇没後500年という節目の年だったから、裾野市では2000年から2001年にかけて、「宗祇五○○年祭」が行われた。
関連資料は、『宗祇五○○年祭記念資料集』裾野市宗祇法師遺跡保存会/宗祇五○○年祭実行委員会(2001)として取りまとめられている。
因みに、裾野市の人たちは、宗祇法師などと形式張らずに、「宗祇さん」というように親しみを込めて呼んでいる。

宗祇は、連歌という文芸の形式の確立者として位置づけられている。
「連歌」は、日本の詩の歴史の中で、古代和歌から派生し、近世の俳諧の基となった。
五七五と七七を繋げていく形式である。
五七五と七七を、多くの場合複数の人が交互に詠んだ。
つまり、他人の句を受けて自分の句を作るわけであり、複数人の共同制作として作品が成立する。
一種のコミュニケーション・ゲームとしてみることもでき、「座の文芸」と呼ばれる所以である。
上記の資料集では、連歌のことを、「平和を紡ぐ糸」と表現している。

文芸史上の宗祇の位置づけに関しては、さまざまな見方があるが、吉本隆明氏は、『抒情の論理』未来社(5906)所収の『宗祇論』において、次のように書いている。

永享十一年(一四三九)、足利義政は、幕府の威信を回復しようとして、関東管領を滅ぼし、さらに播磨の守護職、赤松満祐の所領を没収しようとしてかえって満祐に暗殺された。管領、細川持之は、山名持豊に命じて満祐を討たせた。このいわゆる「嘉吉の乱」は、宗祇二十一歳のときであり、これにより幕府の威勢は諸国の豪族を制止得ず、「応仁の乱」にいたったのは、宗祇五十歳前後の頃であった。
いわば、幕府政権の衰亡と、豪族の割拠と、町座を中心とする町人階級の興隆する萌しとは、宗祇が眼のあたりに眺めた現実社会の変遷であった。このような時代背景の中で、宗祇は、徹頭徹尾、時代的詩人であった。武家階級と庶民とのあいだにおける連歌の流行を、よく意識的に集大成して、短歌形式の自然発生的な破壊を目的意識的な破壊にまで導き、また、一方では貴族連歌の式目的な因習を破壊するのに、仏法の心観を導入してみせた。

どういうことか?
宗祇は、五七五七七という短歌形式の句切りを破壊することによって、長句(五七五)と短句(七七)をそれぞれ独立的な詩形として自立させ、しかも両句が合して複雑な付け合いの効果を出すところに、連歌の本質を定めた。
それが、のちに発句が俳句として独立した文芸として発展する要因でもあった、ということになる。

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コメント

初めまして
当地には 宗祇戻しtの石碑が有り
宗祇法師の事を 調べていますが
資料を 収集しています。
そちらで 500年の資料発行しているとの事
有るようでしたなら 譲って頂けないでしょうか?
宜しく お願いします。
〒961-0971
白河市 昭和町11
白岩 栄英(ヨシヒデ)

投稿: 白岩 栄英 | 2014年8月14日 (木) 17時34分

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