かぎろひの丘
『万葉集』に、柿本人麻呂が、軽皇子のことを詠んだ歌がある。
軽皇子、安騎(アキ)の野に宿る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌
やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太しかす 京を置きて こもりくの 泊瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹(サヘキ)押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に はたすすき 小竹(シノ)を押しなべ 草枕 旅宿りせず 古思ひて (1-45)安騎の野に 宿る旅人 うちなびき いも寝らめやも 古思ふに (1-46)
ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とそ来し (1-47)
東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ (1-48)
日並の 皇子の尊に 馬並めて み狩り立たしし 時は来向かふ (1-49)
軽皇子という表現は、草壁が即位しないまま持統3(689)年に亡くなっていることを考えれば、立太子以前には用いられないと考えられる。
この歌が作られた時期は不明であるが、軽皇子が立太子した持統11年より以前であると思われる。小松崎文夫氏は、『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)において、巻の構成から持統6(692)年頃だろうと推測し、巻1の編者とは別に、「皇子」とよばれるべき立場になってから“増補”“加筆(修正)”されたと考えるべきだ、としている。
45・46番の「古」は、「亡き父の草壁皇子のいらした昔のことを思って……」と解するのが通説である。
しかし、草壁皇子の死については、『日本書紀』は、「皇太子草壁皇子薨りましぬ」と書くだけである。
「吉野の盟約」以来、天武の後継として位置づけられてきた草壁の立場を思えば、この素っ気なさは不可解である。
『日本書紀』を編纂した体制にとって、草壁皇子の経緯には詳らかにしたくない事情があったのだろうか?
上記の歌の中で48番の歌はよく知られている。
奈良県宇陀郡大宇陀町にある「万葉公園」はこの「かぎろひの丘」にあり、佐々木信綱氏が揮毫したこの歌の碑が建っている。
つまり、『万葉集』を代表する秀歌だということだ。
この辺りは、飛鳥時代には菟田の安騎野の呼ばれ、朝廷のお狩場になっていた。
初夏を迎えると、皇族や廷臣が鹿の若角をとる薬猟を楽しんだという。
宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈下〉』講談社学術文庫(8808)の推古紀に、以下の記載が見える。
十九年夏五月五日、大和の菟田野に薬猟をした。夜明け前に藤原池のほとりに集合し、曙に出発した。粟田細目臣を前の部領、額田部比羅夫連を後の部領とした。この日諸臣の服の色はみな冠位の色と同じにした。冠にはそれぞれ飾りをつけた。大徳・小徳はいずれも金を使い、大仁・小仁は豹の尾を用いた。大礼より以下は鳥の尾を用いた。
推古19年は611年だから、持統6年とすれば、約80年ほど前のことになる。
安騎野は、奈良盆地と吉野地方・伊勢方面を結ぶ交通の要衝に位置している(図は、『壬申の乱/新説戦乱の日本史28』小学館(0808)。
天武元(672)年、挙兵した大海人皇子が最初に立ち寄ったのが菟田である。
大海人に従った持統(鸕野皇后)や草壁にとっては、安騎野(菟田)は、思い出深い土地であったに違いないだろう。
持統6(692)年は、それからちょうど20年後のことである。
草壁の遺児である軽皇子に同行した柿本人麻呂がその時の様子を詠み込んだということになる。
ところで「かぎろひ」とは何だろうか?
現在の私たちが「かぎろひ」という音を聞けば、「陽炎」との関連性を思い浮かべるだろう。
しかし、推古紀にもあるように、おそらくは曙の範疇に入る時刻である。「陽炎」ということではないだろう。
ちなみに原文は以下のように表記されている。
東野炎立所見而反見為者月西渡
この「炎:かぎろひ」については、訓としても議論があるが、その実体についてもさまざまな所説がある。
大宇陀町観光協会では、以下のような説を採用している。
厳冬のよく晴れた早朝、太陽が水平線上に現れる約1時間前に太陽光線のスペクトルにより現れる最初の陽光
(http://www.bell.jp/pancho/travel/ossaka/kagirohi-no-oka.htm)
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