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2008年8月 1日 (金)

『日光山並当社縁起』

猿丸大夫は実在した!!―百人一首と猿丸大夫の歴史学!!』創風社出版(0010)の著者・三好正文氏は、奥付によれば、愛媛県南予で、野村高校・宇和島東高校・南宇和高校・宇和高校などの高校の教諭を勤めている(以下の系図と絵巻は、同書から引用)。Photo
宇和島市には、江戸時代の河川改修に関する古文書の調査で、伊達博物館に行ったことがある。
といっても、問題意識も余りなく、「なぜ宇和島に伊達?」という程度の知識しかなかった。
宇和島藩は、慶長19年(1614)年伊達政宗の庶長子の秀宗が入封し、廃藩置県まで伊達氏が治めたのだった。
伊達博物館に保存されている絵地図は、状態も良く見事なものだったので、参考までに掲出しておく。

宇和島水産高校の練習船「えひめ丸」がハワイ沖Photoで沈没する事故の起きる直前のことだった。
貧乏旅行だから、宇和島湾に面した安い民宿に宿泊したのだったが、素晴らしい料理だったことを思い出す。

それはともかくとして、下野宇都宮氏の由来を絵巻物にした縁起書『日光山並当社縁起』は、本家の下野宇都宮家から原本が失われてしまっている。
しかし、愛媛県大洲市五郎地区の宇都宮神社に、もう一冊の原本が保存されている。
三好氏によれば、幅33cmで全長30mに達する長大なもので、室町時代の成立時のままの姿で保存されており、大洲市の有形文化財に指定されている。
三好氏は、この『縁起』の核となる「有宇中将物語」の部分に、猿丸大夫の謎を解く鍵があるとする。

詳細は上掲書に譲るとして、「あらすじ」の概要を記す。
都の有能な貴族「有宇中将」は鷹狩に熱中して、天皇の怒りを買い、東国へ旅に出る。
奥州で中将は、「朝日長者」の屋敷に立ち寄って、「朝日姫君」と深い仲になって、6年間を過ごす。
都の母が亡くなった中将は都を目指すが、途中で倒れ辞世の手紙を馬と鷹に託す。
都では、弟の「有成少将」を派遣し、少将は日光山で兄の亡骸を発見する。鷹の運んだ手紙を見て旅に出た姫君も死んでしまい、少将は二人の亡骸を日光山に埋葬する。
閻魔大王の判断でこの世に帰った中将と姫君は男の子・馬頭御前をもうける。馬頭御前は、成人して都で中納言になる。
2_6馬頭御前は、奥州の祖父・朝日長者を訪ねた際に、ある女房と仲良くなって男子をもうける。
その子は、顔が醜かったので奥州の小野の地で育てられる。それが猿丸大夫である。
有宇中将は、都で大将に上り詰め、その妻・朝日姫君、子どもの馬頭御前と共に、死後日光山の神となる。中将が「男体権現」、姫君が「女体権現」、馬頭御前が「太郎権現」である。
ある時、日光山(下野)と赤城山(上野)との間で領地争いが起きるが、常陸国の鹿島大明神が、猿丸大夫が日本一の弓名人になっており、彼の力を借りることを進言する。
女体権現は、鹿に変身して、奥州から日光山まで猿丸を導き、猿丸に協力を依頼する。
協力を約した猿丸の目の前に巨大なムカデが出現するが、猿丸大夫は見事にムカデを射抜く。
男体権現は、猿丸大夫を日光山三神を奉る神主とすることを告げる。
2_7猿丸大夫は、清和源氏・桓武平氏・藤原氏という貴種に繋がる共に、弓の名人という武力を兼ね備えた存在として、下野に君臨する宇都宮氏の象徴的存在ということになる。
鎌倉以後、日光山は武家社会にとって特別の存在だった。江戸幕府を創設した家康は、日光山に葬られ、東照大権現となって、江戸幕府を守護する。
家康の死後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使・日光例幣使が通った道が、日光例幣使街道として整備された。
現代でも、世界文化遺産として多くの観光客を集めている。

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