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2008年8月25日 (月)

文武天皇のイメージ

文武天皇とはいかなる存在か?
『続日本紀』の即位前紀は、以下のように記している。

天之真宗豊祖父天皇は天武天皇の孫で、日並知皇子尊(天武天皇の皇太子・草壁皇子)の第二子である<分注。日並知皇子尊は宝字二年(七五八)に勅があって、天皇の号を追贈し岡宮御宇天皇と称した>。母は天智天皇の第四女、元明天皇である。天皇は天性ゆったりとしておられ、めぐみ深く怒りを外にあらわされることもなかった。ひろく儒教や歴史の書物を読まれ、とくに射芸(弓を射ること)にすぐれておられた。持統天皇の十一年に皇太子にお立ちになった。

また、所功監修『歴代天皇 (知れば知るほど)』実業之日本社(0602)から、その概要を引用する。

藤原不比等の娘・宮子を皇后に、紀竈門娘と石川刀子娘を妃とした。宮子とのあいだに首皇子(のちの聖武天皇)をもうけている。
大宝元年(七○一)、忍壁(刑部)皇子・藤原不比等らに命じて「大宝令」を完成させ、これを施行し、中納言をおいて官人の考選年限を短くするなど、慶雲三年(七○六)にその改訂を行った。
また、大宝二年には三十三年ぶりに遣唐使して、唐との関係を修復し、薩南諸島へも使者を派遣して、領土の拡大をはかった。
しかし、これらを実質的に主導したのは、文武天皇というよりも、やはり持統太上天皇であり、持統崩御後は知太上官事・忍壁皇子であったと考えられている。
『懐風藻』に詩三篇、『万葉集』に天皇の作と思われる短歌一首が残されている。
父同様に早世し、檜隈安古岡上陵に葬られた。以後は、母・元明、姉・元正の女帝が続くことになる。

文武天皇の「軽皇子」の「軽」とはどういうことを意味しているか?
軽皇子には、文武天皇の他に、允恭天皇の子の木梨軽皇子と孝徳天皇とがいる。
澤田洋太郎『異端から学ぶ古代史』彩流社(9410)によれば、「カル」とは朝鮮語で刀のことであり、その名は渡来系の人物に付くという。
孝徳天皇の場合は、親新羅政策をとっていることもあり、新羅の王族説がある。
もし、小林惠子氏が説くように、文武王が新羅から亡命して軽皇子になったとしたら、「軽」というネーミングはピッタリということになる。

上記のように、文武天皇の治績は立派なものといえるが、「これらを実質的に主導したのは、持統太上天皇や忍壁皇子」という見方があるのは、やはり15歳で即位し25歳で没したという年齢を勘案するからであろう。
しかし、その年齢に疑念があることは既に触れた(08年8月19日の項20日の項)。
もし、「軽皇子=新羅・文武王」ならば、文武王は百戦錬磨であったから、「射芸にすぐれていた」ことは当然である。

李寧熙氏は、『万葉集』を韓国語で解読して、「文武天皇=新羅・文武王」説を是とする。
柿花仄氏が『帋灯・猿丸と道鏡』東京経済(0309)で紹介する『大日本哥道極秘伝書』の内容も、「文武天皇=新羅・文武王」とするとよく理解できる。
両者とも、吉野に亡命した文武王が隠棲していて、持統の頻回の吉野行幸を、この文武王に会いに行くためとしている。
しかし、李氏が、持統と文武王が男女関係にあったとするのに対し、『大日本哥道極秘伝書』では、持統が男女関係にあったのは柿本人麻呂で、その人麻呂が文武の子であったとする。
つまり、持統が吉野に行くのは、人麻呂の父に会いに行くということになるが、そこで権力の掌握と維持について、さまざまな相談事があったのではないか、ということである。

いずれにしろ、正史や通説とは大きく異なる解釈ではあるが、そもそも正史は勝者の都合に合わせているものだろうし、通説といっても、その根拠が不動だというわけでもない。
この辺りの問題は、いかなる仮説が諸事象を矛盾なく説明できるかという、いわゆる仮説設定思考法でアプローチするしかないのではなかろうか。

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