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2008年8月13日 (水)

牧の方

「百人一首」が、宇都宮頼綱と藤原定家との交流の産物であることは既に書いた(08年7月30日の項7月31日の項)。
3宇都宮頼綱の妻は、北条時政と「牧の方」の娘である。
「牧の方」は生没年不詳であるが、鎌倉時代初期の女傑だった。
「牧の方」は、WIKIPEDIA(08年6月23日最終更新)によれば、以下のような人物である。

牧の方(まきのかた、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府の初代執権・北条時政の後妻。政範の生母。牧宗親の娘とも、妹とも言われている。
夫・時政とはかなり年齢が離れていたが、その仲は睦まじかったと言われている。元久
2年(1205年)6月、時政による畠山重忠・畠山重保殺害事件が起こったが、これは娘婿に当たる平賀朝雅が重保のことを牧の方に讒言し、それを聞いた牧の方が時政に讒訴したためであると言われている。さらに同年7月、彼女は時政と共謀して源実朝を殺害し、さらに娘婿の朝雅を新将軍として擁することで幕政の実権を掌握しようと計画した。しかし、この計画を知った北条政子・北条義時姉弟による反撃を受けて、7月20日に時政と共に出家し、その後、義時の手によって伊豆国に幽閉された(牧氏事件)。
没年は詳しく分かっていないが、嘉禄
3(1227)年に夫・時政の13回忌を行なっているため、少なくともこの前後までは生きていたと思われる。

「牧の方」の「牧」は、大岡牧に由来するとされる。
大岡牧は、駿河国にあり、現在の静岡県沼津市の市街地から、大岡・岡宮辺を中心に、裾野市桃園・大畑付近に至る黄瀬川右岸の愛鷹山東南麓一帯に広がっていた。
現在も愛鷹牛という全国肉用牛枝肉共励会で最優秀賞を受賞したブランド牛肉があるが、大岡牧の名残であろうか。

この「牧の方」の出自については、従来東国の在地領主の娘というのが定説だったが、沼津出身の杉橋隆夫立命館大学教授によって、池禅尼の姪という説が立てられ、定説化している。
池禅尼は、平清盛の義母であり、頼盛の生母であり、その姪であるとすると、「牧の方」の実家は、下級ながらも上皇の側近くに仕える貴族ということになる。

杉橋教授によれば、「牧の方」の政治的基盤は京都にあり、北条時政との関係も平治の乱(平治元(1159)年~)以前に遡る可能性がある。
平治の乱の敗戦によって、源頼朝が伊豆国に配流されたのも、池禅尼-牧の方-北条時政という人脈で理解することが必要だとする。
頼朝は、池禅尼の姪の婿の時政の監視下にあった、というわけである。

しかし、時政と「牧の方」の間には、1189年生まれという政範という息子がいる。
この生年は、平治の乱が生起した1159年の30年後だから、時政と「牧の方」の婚姻を平治の乱以前とすると、「牧の方」の出産年齢が40歳以上という高齢になって、非現実的ではないか、という意見もある。

WIKIPEDIAで、「牧の方」が牧宗親の妹とも娘ともいう、としているのは、『吾妻鏡』では宗親を兄、『愚管抄』では宗親を父としているからである。
鎌倉時代初期に成立した作者不詳の『閑谷集』という歌集がある。
この作者について、浅見和彦氏が、牧四郎国親の息男とする説を立てている。
http://library.tsurumi-u.ac.jp/library/tenji/20050527_106th/tenjiwakatogunki.html
牧四郎国親は、牧三郎宗親の弟だと考えられるから、『閑谷集』の作者は、宗親の甥ということになり、「牧の方」にとっては、従弟ということになる。

『閑谷集』の作者は、文治元(1185)年から駿河国大畑に庵を結んだとされる。
大畑は大岡牧の中の地名であり、現在も裾野市大畑という地名がある。
黄瀬川にある「五竜の滝」という瀑布の近くである。

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