« 安騎野の朝 | トップページ | 2人の軽皇子? »

2008年8月30日 (土)

皇子たちの鎮魂歌

49番の表記は以下の通りである。

日雙斯皇子命乃馬副而御狩立師斯時者来向  (1-49)

この「雙」という字は、「相並ぶ・匹敵する二羽の鳥」という意味らしい。
「馬副而」は、「馬並(ナ)めて」と訓じている。
草壁皇子と馬を並べているのは誰か?

小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)は、「日雙斯皇子命」という表記が、「草壁皇子と軽皇子という『相並ぶ・匹敵するこの二人』」を示しているのではないか、とする。
つまり、49番歌は、「相並ぶ二人の皇子が、馬を並べて狩に出かけて行った、その同じ時刻になるよ」というような意味となる。

ところで、文武天皇の国風諡号は、「天之真宗豊祖父天皇」である。
祖父という表現が、25歳で亡くなった天皇に相応しくないことについては既に触れた(08年8月20日の項)。
「真宗」の「真」は「本物」、「宗」は「筋の通った最高の」というような意味であり、「皇統の本物の嫡流である天皇」というような意味となる。

小松崎氏は、「草壁皇子は、安騎野の狩で死んだ」とし、48・49番の歌は、人麻呂の告発の意匠ではないか、とする。
つまり、軽皇子による草壁皇子殺害の可能性も含めて、ということである。

文武天皇の即位前紀には、次のようにある。

ひろく儒教や歴史の書物を読まれ、とくに射芸(弓を射ること)にすぐれておられた。

このことが「文武」という漢風諡号の由来とされているが、「射芸」にすぐれていたとすれば、「馬を並べて行った狩」の機会に、並んで行く相手を殺害することは、容易でもあろう。

持統3(689)年の春初めの安騎野における狩猟の途中、草壁皇子は不慮の死を遂げた。
薨去の事実が明らかにされたのは、夏四月乙未(13日)になってからである。
現場は、標野・禁園であって、一般の目も情報も遮断されていた。

柿本人麻呂には、日並皇子命に対する挽歌がある。

  日並皇子命の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作る歌一首並に短歌
天地の 初の時 ひさかたの 天の河原に 八百萬 千萬神の 神集ひ 集ひ座して 神分り 分りし時に 天照らす 日女の尊(一に云ふ、さしのぼる日女の命) 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の國を 天地の 寄り合ひの極 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて(一に云ふ、天雲の八重雲別きて) 神下し 座せまつりし 高照らす 日の皇子は 飛鳥の 浄の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇の 敷きます國と 天の原 石門を開き 神あがり あがり座しぬ(一に云ふ、神登りいましにしかば) わご王 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴からむと 望月の 満しけむと 天の下(一に云ふ、食す國) 四方の人の 大船の 思ひ憑みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁もなき 眞弓の岡に 宮柱 太敷き座し 御殿を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬる そこゆゑに 皇子の宮人 行方知らずも(一に云ふ、さす竹の皇子の宮人ゆくへ知らにす)  (2-167)

  反歌二首
ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも  (2-168)
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも  (2-169)
  或る本の歌一首
島の宮勾の池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず  (2-170)

この挽歌の前には、大津皇子を悼む大来皇女の絶唱ともいうべき有名な歌が置かれている。

  大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大来皇女の哀しび傷む御作歌二首
うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟世とわが見む  (2-165)
磯のうへに生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言はなくに  (2-166)

小松崎氏は、日並皇子命への挽歌は、だれの挽歌かと思うほどに没個性的であるが、それ故に「天武の皇子たちみんなの挽歌」という普遍性を持っている。
その普遍性は「皇子たちの鎮魂歌」としての性格であり、大津皇子の悲歌の次に、日並皇子の挽歌が位置していることによって、その鎮魂歌が輪唱のように響く、としている。

|

« 安騎野の朝 | トップページ | 2人の軽皇子? »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

日本古代史」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 皇子たちの鎮魂歌:

« 安騎野の朝 | トップページ | 2人の軽皇子? »