軽皇子の立太子をめぐって
草壁皇子が薨去したとき、軽皇子は7歳だった。
持統は、自らの立場を守るためには、軽皇子への譲位が必須だった。
定説的には、愛息の草壁の血統で皇統を繋ぐため、と理解されているが、『大日本哥道極秘伝書』では、柿本人麻呂との密通事件から身を守るために、他の皇子が皇位に就くことは絶対に避けなければならないことだった。
しかし、軽皇子の立太子が、何の障害もなく進められたというわけではなかった。
そもそも『日本書紀』には、軽皇子の立太子記事が載っていない。
『続日本紀』に、持統11年立太子という記事がある。その時の様子について、『懐風藻』の次の記述が論議の対象となっている。
高市皇子が亡くなると、持統は群臣を集めて皇太子の問題を論議させた。しかし、「衆議粉紜」でなかなか決まらなかったらしい。
その時に、天智の皇子大友の忘れ形見の葛野王が、次のように主張したと『懐風藻』に書かれている(高橋紘、所功『皇位継承 』文春新書(9810)、07年9月11日の項)。
我が国家の法たるや、神代より以来、子孫相承けて天位(皇位)を襲(ツ)げり。もし兄弟相及ぼさば則ち乱これより興らん。……然して人事を以ちて推さば、聖嗣自然に定まれり。この外に誰か敢えて間然せんや。
日本では古来から直系相続が行われており、兄弟相続は争いのもとになる、というような意味である。
実際には古来から兄弟間での天皇位の相続は一般的であり、それについて弓削皇子が葛野王に問いかけようとした矢先、葛野王は弓削皇子を一喝したという。
結果として、弓削皇子も持統天皇の意向を呑み、軽皇子を皇太子とすることが決定した。
ということは、高市皇子存命中は、軽皇子の立太子をテーマにすることさえできなかった、ということである。
持統11年とすれば、持統が正式に皇位に就いてから7年後のことである。
軽皇子の立太子が如何に難しかったかを示しているともいえる。
その間に、持統は驚くべき頻度で吉野行幸を繰り返している。
この吉野行幸については、さまざまな解釈があるが、柿花仄『帋灯猿丸と道鏡』東京経済(0309)では、「吉野に隠棲する「人麻呂の父」の許に相談に駆け込んだ」としている。
その人物、つまり柿本人麻呂の父、とは誰か?
柿花氏の紹介する『大日本哥道極秘伝書』には、次のように記されている。
傳に曰、人丸は文武天皇の御子と云々。哉趣は文武寵愛の軽き女房胎みたるを、軽女房故出雲の国の押領司の右の女房下し給ふなり。(後略)
(中略)人丸文武天皇の王子にて座す。人丸傳の所に記すがごとし。深秘不浅事なり……。
これは不可思議というか不可解なことである。
軽皇子は、草壁崩御時7歳であり、柿本人麻呂の生没年は詳らかではないが、持統の恋の相手とすれば、少なくとも成人はしているはずであり、持統との関係からして、30歳を超える年齢だったと思われる。
その父が文武だとすれば、50歳くらいの年齢を想定しなければならないことになる。
そもそも、草壁と文武の父子関係を疑問視する見方もある(08年2月6日の項)。
持統の名前の由来ともなったという天武-草壁-文武という皇統(持統=皇統の保持)の真実は、どういうことだったのか?
もし、正史が系譜の偽装をしているとしたら、まさに、永躰典男『日本の偽装の原点は古代史にあり』ブイツーソリューション(0705)(07年9月6日の項)ということになる。
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