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2008年8月 7日 (木)

猿丸大夫の正体

藤原百川は、宝亀10(779)年、従三位式部卿兼中衛大将で没する。
この年の春のことである。
2月2日に、久米連真上が、外従五位下の官位を得て、2月23日に下野介に任命される。
3月16日に、久米連形名女が、無位から従五位下の官位を得る。

『続日本紀』に登場する久米連は、わずかに4人に過ぎない。
宇合の妻で百川の母の久米連若女。若女の父(つまり、宇合の義父であり、百川の祖父)の久米連奈保麻呂。
そして、百川の死の直前に、久米連真上と形名女の2人が「あわただしく」登場する。

この事情を、三好正文『猿丸大夫は実在した!!―百人一首と猿丸大夫の歴史学』は、次のように推測する。
死期を悟った百川は、奥州(東国)の祖父・久米連奈保麻呂の屋敷で契った女房とその女房がもうけた男子を都に呼び寄せ、貴族に列するよう取りはからった。
天皇は、若女・百川の尽力で即位した光仁天皇だった。
奥州から母子が上京し、病床の百川と対面する。
「奥州の女房」の名が、久米連形名女で、男子の名が、久米連真上である。真上は、宇合以来、勢力を築いてきた下野介に就任した。

つまり、三好氏の推論は、「朝日長者屋敷の女房」=久米連形名女であり、「猿丸大夫」=久米連真上である。
猿丸大夫は、本名で、正史である『続日本紀』に登場していた!

『日光山並当社縁起』の猿丸大夫は、奥州で育ち、下野国の日光山の神主となる。
久米連真上も、下野介に就任する。
「真上」=「真神」と考えれば、「真神」は「狼の古語」であって、蝦夷の地で育ち、「日本一の弓の名人」となった猿丸大夫に相応しい。

真上は、下野介を2年務めた後、大和介に就任する。
宇合と久米連若女の孫・百川の子の真上は、都人の大いなる注目を集めたに違いない。
都で歌人として彗星のようにデビューした真上は、1年後に姿を消す。
真上が大和介の『続日本紀』にあったのは、781~782年のことである。
「百人一首」がほぼ年代順に配置されていることを考えると、猿丸大夫の作歌年代は、山部赤人と大伴家持の間ということになる。

山部赤人の作歌年代は、724~736年であり、大伴家持の生涯は718~785年で、732年ころから作歌を始めたとされる(08年7月11日の項)。
とすると、猿丸大夫の作歌期間は、724~785年の間ということになり、大和介在任はこの期間に含まれている。
しかも、猿丸大夫の歌風は、奥州育ちの武人らしく骨太で素朴であり、『万葉集』のいわゆる「ますらおぶり」を思わせるものだったと言えるだろう。

異形の歌人・久米連真上に、その風貌からして、都人は「猿丸大夫」の愛称を冠した。
突然に出現し、忽然と姿を消した「猿丸大夫」は、やがて伝説の人となる。「謎の歌人・猿丸大夫」である。
『万葉集』最後の作品は、天平宝字3(759)年正月の大伴家持の作品である(08年6月6日の項)。
つまり、781~782年が作歌期間と考えられる久米連真上=猿丸大夫は、『万葉集』に間に合わなかった。

三好氏は、久米連真上が、下野介・大和介共に任期半ばで離任していることに注目する。
その頃、陸奥の国では蝦夷の反乱が再発していた。
宝亀11(780)年3月23日、伊治公呰麻呂が反乱を起こし、按察使・紀朝臣臣広純を殺害し、多賀城を焼き討ちした。
この事件の経緯と謎については、07年9月29日の項(多賀城炎上)、9月30日の項(紀広純)、10月1日の項(歴史の転回点)、10月2日の項(事件の謎)、10月3日の項(呰麻呂反乱の真相)で触れた。

下野介・久米連真上は、この事件に精力的に対応したものと想定される。
介の上司の守は、下野に赴任していないので、真上が下野国の統治責任者だった。
そして、天応元(781)年4月3日、皇太子山部王が即位する。桓武天皇である。
4月8日に、桓武天皇による人事が発表され、久米連真上は大和介に任ぜられる。

延暦元(782)年6月17日には、大伴家持が、陸奥按察使・鎮守将軍兼任が発令され、6月20日には、尾張連豊人が大和介に任ぜられる。
久米連真上は、1年2か月で大和介を離任するが、真上も家持に同道するか、下野に帰国して家持をサポートしたものと推測される。

奥州の対蝦夷戦は、はかばかしい戦果を挙げ得ない。
桓武天皇は、「健児の制」を実施した。
WIKIPEDIA(05年8月31日最終更新)では、「健児の制」について、次のように解説している。

桓武天皇は、延暦11年6月(792年)、陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除く諸国の軍団・兵士を廃止し、代わって健児の制を布いた。この時の健児は天平宝字6年と同様、郡司の子弟と百姓のうち弓馬に秀でた者を選抜することとしており、従前からの健児制を全国に拡大したものといえる。これにより、百姓らの兵役の負担はほぼ解消されることとなった。
なお、軍団・兵士が廃止されなかった地域、すなわち、佐渡・西海道では海外諸国の潜在的な脅威が存在していたし、陸奥・出羽では対蝦夷戦争が継続していた。これらの地域では従前の軍制を維持する必要があったため、軍制の軽量化といえる健児制は導入されなかったのである。

そして、桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命する。
田村麻呂は、征討に際し、日光山に立ち寄り戦勝祈願をしている。
当然、日光山神主の久米連真上に支援を依頼し、その結果田村麻呂は蝦夷制圧に成功し、アテルイを伴って都に凱旋する。

伊治公呰麻呂の反乱事件に触れたのは、この事件の不審点(謎)について解説した、浅野恭平『謎の反乱』地産出版(7606)の面白さを紹介したいということが理由だった。
それが、猿丸大夫の「謎」にリンクしているとは、というのが正直な感想であり、ここにも「偶然か? それとも……」という不思議な縁を感じてしまう。

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