文武天皇の年齢
『愚管抄』は、天台座主の慈円が記した史書である。
慈円は、後鳥羽上皇の近くにあって、藤原定家らと和歌を嗜んでいた。つまり「古今伝授」について、深く知る立場にあった。
その慈円が、文武天皇の没年齢を、2つ併記するとは?
しかも、25歳と78歳では、若年と高齢でまったく異なる。
25歳というのは、草壁皇子崩御時に7歳であるとしたときの年齢である。
もし78歳で没したとして逆算すると、軽皇子の誕生年は舒明2(630)年となり、68歳で即位したことになる。
天武-草壁-文武という血の流れが、『日本書紀』『続日本紀』の主張する皇統である。
しかし、その天武(大海人皇子)の出自には謎が多いことについても、既に触れてきた。
九州王朝の皇子とする砂川恵伸氏の精細な説(08年1月15日の項、16日の項、17日の項、18日の項、19日の項、20日の項)。
天智と天武の非兄弟説(08年1月26日の項)。
砂川氏に先行して、九州王朝皇子説を唱えた大芝英雄氏の説(08年2月15日の項)。
新羅の金多遂であるとする林青梧氏の説(08年5月15日の項)。
柿花氏は、このように天武天皇に謎が多いのは、軽皇子即位に端を発するものだ、とする。
そして、文武天皇の諡号を問題にする。
『続日本紀』には次のようにある。
巻第一:天之眞宗豊祖父天皇
巻第三:倭根子豊祖父天皇
この諡号の「祖父」の文字は、若くして逝った天皇には相応しくない。
若くして長老の風格があったため、とする説もあるというが、いささか無理がある。
文武天皇の治世はどのようなものであったか?
WIKIPEDIA(08年7月24日最終更新)を見てみよう。
父草壁が689年に亡くなり、696年には伯父にあたる高市皇子も薨じたため、697年2月立太子。同年8月、祖母・持統天皇に譲位され即位した。当時15歳という若さであったため、持統が上皇として後見役についた。701年(大宝元年)に大宝律令が完成し、翌年公布している。 また混乱していた冠位制を改め、新たに官位を設けた。 今まで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。
15歳で即位し、25歳で没した天皇の治績として考えたらどう評価すべきだろうか?
大宝年間は、律令の完成と元号制度のスタートという意味で、間違いなく古代史上の1つの画期である。
『続日本紀』の大宝元(701)年正月一日の条は、「文物の儀、是に備れり」と、誇らしげに記している。
春正月一日、天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀式の様子は、大極殿の正門に烏形の幢(先端に烏の像の飾りをつけた旗)を立て、左には日像(日の形を象どる)・青竜(東を守る竜をえがく)・朱雀(南を守る朱雀をえがく)を飾った幡、右側に月像・玄武(北を守る鬼神の獣頭をえがく)・白虎(西を守る虎をえがく)の幡を立て、蕃夷(ここでは新羅・南嶋など)の国の使者が左右に分れて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。
この文章からイメージされる情景は、高松塚古墳の壁画とよく一致している(08年1月1日の項)。
文武天皇は、本当に15歳で即位したのか?
文武即位はどのような意味を持っていたのか?
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