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2008年8月14日 (木)

宇都宮頼綱と牧氏の変

宇都宮頼綱が出家して蓮生入道を名乗ったのは、元久2(1205)年のことで、この時頼綱はまだ33歳だった。
下野を支配していた頼綱の祖父の朝綱は、伊豆で挙兵した源頼朝に加勢し、鎌倉幕府の重鎮となった。頼綱の父は早世し、祖父の地位が頼綱に引き継がれた。
頼綱の「頼」は頼朝から一字を頂いたものといわれる。

そして、北条時政と「牧の方」の間に生まれた娘と結婚し、順風満帆といった気運だったはずである。
それが出家せざるを得なくなったのは、「牧氏の変」が起きたためである。
元久2(1205)年、鎌倉幕府内では、頼朝も頼家も没していて、三代将軍に実朝が就いていた。
頼綱は、33歳にして、頼朝、頼家、実朝に仕えたわけである。

北条氏が単なる土着の豪族に過ぎなかったのか、貴族と繋がりを持っていたのかは別として、娘の政子が頼朝と結婚したことが、時政の権力の大きな後ろ盾であったことは間違いない。
頼朝亡き後は、将軍家の外戚としての立場を利用して権力の確立を図った。
時政が畠山重忠・重保父子を謀反の疑いで滅ぼし、その勢いで将軍実朝も排除して、女婿の平賀朝雅を将軍職につけようと図った。
しかし、直前に発覚して、政子は実朝を義時邸に移して事なきを得る。
「牧氏の変」と呼ばれるように、時政の後妻の「牧の方」が唆したものだとされる。

時政と「牧の方」は伊豆に流され、執権職は北条義時に移り、義時が平賀朝雅を討って、将軍暗殺未遂事件は一件落着した。
このとき、宇都宮頼綱に陰謀関与の疑いが懸けられた。
頼綱の妻は、時政と「牧の方」との間の息女だから、平賀朝雅と同じ立場で、時政に加担するであろうと推認されたわけである。

頼綱は執権の北条義時宛に書状を認め、鎌倉からは小山朝政が事情聴取のために派遣された。
宇都宮家と小山家は親しい姻戚関係にあったこともあり(08年7月30日の項)、「謀反の兆しなし」との報告で、頼綱は助かった。
頼綱が一族郎党60人とともに出家したのは、恭順の意を示すためだった。

出家した頼綱は京へ入り、頼綱の子の泰綱はお咎めを免れて、宇都宮家は存続しえた。
頼朝の息のかかった御家人たち、梶原景時・比企能員・畠山重忠・稲毛重成などが、粛清されて消えていったことに比べれば幸運だったということになるが、それも頼綱の的確・迅速な判断の結果である。

京に入って、頼綱は定家と親交を結び、それが「百人一首」を生むことになった(08年7月31日の項)。
頼綱は、自分の妻が北条時政の息女で、それが波乱を招いたことも影響しているのか、自分の娘の結婚相手は、公家から選んだ。定家の長男の為家である。
逆に見れば、定家は、息子を尼将軍政子と執権義時の姪と結婚させたということになる。

後堀河天皇の勅命によって定家が撰進した『新勅撰和歌集』には、実朝の歌が35首入っている。
実朝は、定家の弟子の中でも傑出した歌人だった。
蓮生法師こと宇都宮頼綱の歌も撰ばれていて、宇都宮家の歴史を思い浮かべられる趣向になっていることは既に述べた(08年7月31日の項)。
『新勅撰和歌集』の成立が文暦2(1235)年3月で、「百人一首」の完成が同年5月である。
時に、定家74歳だった。

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