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2008年8月11日 (月)

「古今伝授」の一端

「古今伝授」では、何が秘説として伝授されたのか?
柿花仄という人が、中院通茂が伝える二条家歌道の秘伝書という『大日本哥道極秘伝書』を紹介している。『帋灯柿本人磨呂 』東京経済(0008)と、『帋灯猿丸と道鏡』東京経済(0309)の2書である。
そこには、一般に言われているように、三木・三鳥というようなことではなく、驚くべき内容のことが紹介されている。

柿花氏によれば、『大日本哥道極秘伝書』と題された手書きの本がある。中院通茂が後世に残したもので、50枚の上質の奉書紙を二つ折り折にして和綴じ仕立てにしたものである。
奥書に、中院中納言通茂の伝来切紙から取添えた二条家歌道の深秘である旨が記されているという。
上記書には、『極秘伝書』のカラー写真が添えられている。

この『極秘伝書』の性格について、私が云々するような立場にないし、能力もない。
あるいは真っ赤な贋作なのかも知れない。
しかし、そこに記されているとされることは、古代史ファンにとって、大いに関心をそそられるものであることは間違いない。

中院通茂とはいかなる人物か?
中院家は、代々歌学をおさめ、「古今伝授」に深く係わったとされる。
通茂は、宝永7(1710)年3月21日に、80歳で薨じた。
略系譜を示せば以下の通りである。
-中院通勝-通村-通純-通茂(ミチモチ)-通躬-通藤-

三条西実枝から古今伝授を相伝された細川幽斎が、丹後田辺城で西軍に包囲され、討死を覚悟したとき、後陽成天皇が勅命をもって開城させ、幽斎の命を救ったという。
幽斎の学才と「古今伝授」の内容が失われることを惜しんだための異例の勅令だとされる。
通茂の曽祖父の中院通勝は、天皇の傍らで、この救出劇に関与した人物だという。
「古今伝授」にひときわ強い関心を持った後陽成天皇、後水尾天皇の下で、中院家は歌学の権威として信任されていた。

承応2(1653)年の2月29日に、通茂の祖父の通村が亡くなると、後を追うように父・通純が、4月8日に他界した。
通茂が一人残されるが、通茂はまだ「古今伝授」を相伝されていなかった。
寛文4(1664)年に、通茂は、後西上皇と共に、後水尾法皇から「古今伝授」を相伝された。

『大日本哥道極秘伝書』が上梓されたのは享保元年で、このとき、中院家の当主は通躬である。
口伝は、秘密を守ることができるが、人が死んでしまえば断絶する。文書化すれば、秘伝がオープンになって秘伝ではなくなってしまうリスクが生ずる。
通躬が、このリスクを冒して文書化したのは、死による断絶を恐れたからであろう。
享保元年は、通躬にとって50歳という節目の年だったが、父・通茂の7回忌と嫡男・通藤の3回忌が営まれた年でもあった。

特に、中院家の自分の跡を継ぐべき通藤の死は、通躬に相伝の不安を増幅させたものと思われる。
文書化しておくといっても、広く世間に問うためではなく、二条家歌学を一門の中で伝えるためであったはずである。
しかし、文書化したことによって外部に流出し、それが開示されることになる。
柿花仄氏がどのような経緯でこの『極秘伝書』を入手したかは詳らかではないが、通躬が文書化してくれたことにより、「古今伝授」の内容とされていることの一端が、私たちの目に触れ得ることになった。

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