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2008年8月16日 (土)

鸕野皇后(持統)の禁断の恋?

天武天皇が死んだ後、鸕野皇后の称制が3年続いた。
それは、天武の喪が長引いたため、というのが一般的な理解である。
天武の死の直後、草壁皇子のライバル大津皇子を、電光石火の早業で斥けたが、まだ草壁を即位させるような情勢ではなかった、ということだ。
そのため、天武の殯宮を利用して、多くの皇族・群臣に天武の功績を讃えさせ、忠誠心をかき立てたというわけである。
あるいは、草壁が虚弱だったため、天皇の激務に耐えられなかったのではないか、という説もある。
また、砂川恵伸氏は、天武の没年における草壁の年齢を15歳と推定し、即位できなかった理由としている。

これらの説に対して、吉野裕子『持統天皇』人文書院(8712)は、持統による草壁排除説を唱える。
関裕二氏『謎の女帝・持統』ベスト新書(0202)から孫引きする。

大津殺戮の原因は、一子草壁の強敵を仆す意図にあるという免罪符に欺かれて、日本史はかつて鸕野皇后を疑わず、草壁の急逝は単なる急逝とのみ受け取られてきた。
……
皇位継承者として殆ど同じ資格を持つ二人の皇子の相前後しての急死は、何としても不自然である。二人の皇子の死の間には一脈相通ずるものがある。二つの死はその本質を同じくするもので、その背後にあるのは同一人による同一目的の殺人であろう。

つまり、吉野裕子氏は、持統の異常な権力への執念が、二人の皇子を殺めたのだとするわけである。
これに対し、柿花仄『帋灯(しとう)猿丸と道鏡』東京経済(0309)は、大津皇子の排除はともかく、草壁皇子の死について、まったく別の見方を提示している。
それは、驚くべきことに、鸕野皇后(持統)の禁断の恋に起因する、というものである。

中院通茂が『大日本哥道極秘伝書』に書き遺した文章によれば、草壁皇子を溺愛していた鸕野皇后が、草壁皇子を疎むようになったのは、持統3(689)年頃だった。
その原因は、持統が、若き天才歌人・柿本人麻呂と、情熱的な恋に陥ったためである。
持統3年、鸕野皇后の謎の「吉野行幸」が始まり、藤原不比等が判事に任官され、草壁皇子が薨去し、黒作懸佩刀の授受が行われ、翌持統4年1月1日に鸕野皇后は正式に即位する。

『大日本哥道極秘伝書』には、次のように記されているという。

傳に曰 人丸は持統天皇の璽朝に任奉申歌人におはします。
然るに人丸持統天皇と密通の沙汰有りしにより云々。

柿花氏は、それが「古今伝授」を継承した遺文の中にあり、それは次の『古今和歌集』仮名序の紀貫之の文章を端的に説明するものだとする。

……かのおほん時に、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむ、哥のひじりなりける。これはきみもひとも、身をあはせたりといふなるべし……

この〔きみもひとも、身をあはせたり〕の解釈について、多くの学者が悩んできた。
柿花氏によれば、以下のようである。
・北畠親房:君臣合躰の心也
・契沖:君臣合躰して歌の道にあひにあふなり
・窪田空穂:歌の上で、いわゆる君臣合体であった

「君臣合体の心」というのは、曖昧で意味が分かりづらい。
「きみ」が鸕野皇后、「ひと」が人麻呂であると具体化し、「身をあはせたり」をまさに肉体関係ということとすれば、明解は明解である。
しかし、そんなこと、俄かには信じられない、というのが一般的な感想ではなかろうか。

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