「百人一首」と「百人秀歌」の関係
『猿丸大夫は実在した!!―百人一首と猿丸大夫の歴史学!!』創風社出版(0010)において、三好正文氏は、「百人
一首」の配列における定家の意図を、表のように整理する。
そして、三好氏は、「百人秀歌」は、西園寺公経の北山別荘の障子を飾った色紙を起源とするのではないか、という仮説を提示している。
西園寺公経は、幕府側の立場を鮮明にした。それに配慮して、後鳥羽上皇と順徳天皇の歌が除かれているのではないか。
そして、何よりも、「秀歌」の末尾101番は、西園寺公経の作品である。
「秀歌」は、二首一対の趣向とされているが、敢えてペアのない101番を設定したのは、それが贈る相手であるからではないか。
公経は、「並ぶ者のない天下人」という含意も込められているのだろう。
「一首」と「秀歌」では、98人が重複しているが、その中で、源俊頼の歌だけが異なっている。
「一首」
うかりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬ物を
「秀歌」
山さくらさきそめしよりひさかたの くもゐにみゆるたきの白糸
ところで、「一首」と「秀歌」に共通の公経の歌は次の歌である。
花さそふ嵐の庭の雪ならで ふり行くものは我が身なりけり
つまり、老境に入った公経が、我が身を散り行く桜に喩えているが、「秀歌」の俊頼の歌が、頼綱に贈られた「一首」の歌と異なることについて、「ふりゆく花」ではなく、「咲き初めた山桜」を撰んだこと、「滝の白糸」は、自分の山荘の「白銀製の滝」のことを指しているのだと解して、喜んだであろう、というのが三好氏の推論である。
こういう理解に立てば、類似した「一首」と「秀歌」の存在理由と、その差異が納得できる。
三好氏の推論によれば、「一首」と「秀歌」は、従来問われてきたような、いずれが先(原型)か、という問題ではなく、ほぼ同時期の撰であり、撰歌の違いは、贈る相手を意識して変えたものである、ということになる。
1221年の「承久の乱」は、時代を大きく転轍するものであったが、渦中の人物たちの人生にも大きな影響を与えた。
西園寺公経、宇都宮頼綱、藤原定家は、その動乱の時代を生き抜いたいわば「勝ち組」である。
文暦2(1235)年、定家74歳、頼綱63歳、公経64歳であった。
定家の小倉山荘(現在の二尊院のあたり)と頼綱の中院山荘(現在の厭離庵)は、300mほどの至近距離である。公経の西園寺(金閣寺)も5kmほどの距離である。
「百人一首」は、律令国家の成立から崩壊までを、天智天皇から順徳天皇までの名歌で総括したものということができる。
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