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2008年8月

2008年8月31日 (日)

2人の軽皇子?

柿花氏の紹介する『大日本哥道極秘伝書』には、次のように記されている(08年8月15日の項

(一)傳に曰喚子鳥とは孝謙天皇を申奉る也。其大意は孝謙天皇は女帝にて座ス也。其頃宮中に猿丸太夫と申者まします也。
(二)猿丸太夫も元明天皇の御にて座ス事明らか也。

また、次のようにも書かれているという(08年8月18日の項)。

傳に曰、人丸は文武天皇の御子と云々。哉趣は文武寵愛の軽き女房胎みたるを、軽女房故出雲の国の押領司の右の女房下し給ふなり。(後略)

(中略)人丸文武天皇の王子にて座す。人丸傳の所に記すがごとし。深秘不浅事なり……。

元明天皇の「御」とは、「元明天皇の子」ということか?
元明天皇には、軽皇子・氷高皇女・吉備皇女の3人の子供がいたとされ、それ以外に隠し子がいたとは考えにくい。
とすれば、猿丸大夫は誰の子なのか?

柿花仄氏は、猿丸大夫は軽皇子の子供ではないか、と推測する。
つまり、当時の宮中には、老人の文武(軽皇子の身替り)と若い本物の軽皇子がいた、ということである。
老人の文武が持統・不比等と連携して宮中におり、若い軽皇子は、元明の御所で生活していたのではないか。

草壁妃の元明(阿閉皇女)は、軽皇子がいる限り、草壁の死や文武の即位のからくりを暴露することはしないだろうから、持統や不比等は、軽皇子を生かしておく方が得策である。
その軽皇子が、猿丸大夫の父親だとすれば、猿丸大夫のことを元明天皇の御といっても不思議ではない。
つまり、次のような図式である。

「軽皇子A:文武王・高齢」←→「軽皇子B:草壁の子・若年」
       │                 │
  「人麻呂(=人丸)」          「猿丸」

驚くべき理解であるが、「祖父」の国風諡号を持つ文武が、新羅文武王だとすれば、諡号の不思議さは解消する。
小松崎文夫氏は、『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)において、軽皇子が草壁皇子の死に関与していた可能性に言及している。
この場合の軽皇子が、「射芸」にすぐれていたことも、新羅文武王であれば不思議ではない。
持統の頻回の吉野行幸の謎も、吉野に隠棲している文武王と、何らかの目的で会うためであったとすれば、それも納得できる。

果たして、文武王と草壁の子が、同じ軽皇子を名乗る別人として存在したのか?
柿花仄氏は、。『帋灯柿本人磨呂 』東京経済(0008)において、「軽」は、木梨軽皇子・軽大娘皇女に代表されるように、双子を意味する言葉だとしている。
実際に、文武紀には、老人福祉と並んで、双子・三つ子・四つ子等の多胎児に気を配った記事が数多い。

「文武-人麻呂」「軽皇子-猿丸」の親子関係は別としても、高齢の文武天皇と若年の軽皇子とがいたとすれば、正史が曖昧にせざるを得なかった草壁皇子の薨去の事情や、文武天皇の年齢なども理解できる。
また、文武の正統性を強調しすぎると思われるほど強調していることも理解できる。
とすれば、大宝改元は、文字通り新たな王朝の創始だったことになるが、文武王と草壁皇子の子供の軽皇子を同一人として扱うことにより、天武-持統-文武という血統の論理が保持されていることにもなる。
しかし、現時点では、想像力を働かせればそういう可能性もあり得る、という「可能性の論理」に留まっているのではないかと思う。

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2008年8月30日 (土)

皇子たちの鎮魂歌

49番の表記は以下の通りである。

日雙斯皇子命乃馬副而御狩立師斯時者来向  (1-49)

この「雙」という字は、「相並ぶ・匹敵する二羽の鳥」という意味らしい。
「馬副而」は、「馬並(ナ)めて」と訓じている。
草壁皇子と馬を並べているのは誰か?

小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)は、「日雙斯皇子命」という表記が、「草壁皇子と軽皇子という『相並ぶ・匹敵するこの二人』」を示しているのではないか、とする。
つまり、49番歌は、「相並ぶ二人の皇子が、馬を並べて狩に出かけて行った、その同じ時刻になるよ」というような意味となる。

ところで、文武天皇の国風諡号は、「天之真宗豊祖父天皇」である。
祖父という表現が、25歳で亡くなった天皇に相応しくないことについては既に触れた(08年8月20日の項)。
「真宗」の「真」は「本物」、「宗」は「筋の通った最高の」というような意味であり、「皇統の本物の嫡流である天皇」というような意味となる。

小松崎氏は、「草壁皇子は、安騎野の狩で死んだ」とし、48・49番の歌は、人麻呂の告発の意匠ではないか、とする。
つまり、軽皇子による草壁皇子殺害の可能性も含めて、ということである。

文武天皇の即位前紀には、次のようにある。

ひろく儒教や歴史の書物を読まれ、とくに射芸(弓を射ること)にすぐれておられた。

このことが「文武」という漢風諡号の由来とされているが、「射芸」にすぐれていたとすれば、「馬を並べて行った狩」の機会に、並んで行く相手を殺害することは、容易でもあろう。

持統3(689)年の春初めの安騎野における狩猟の途中、草壁皇子は不慮の死を遂げた。
薨去の事実が明らかにされたのは、夏四月乙未(13日)になってからである。
現場は、標野・禁園であって、一般の目も情報も遮断されていた。

柿本人麻呂には、日並皇子命に対する挽歌がある。

  日並皇子命の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作る歌一首並に短歌
天地の 初の時 ひさかたの 天の河原に 八百萬 千萬神の 神集ひ 集ひ座して 神分り 分りし時に 天照らす 日女の尊(一に云ふ、さしのぼる日女の命) 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の國を 天地の 寄り合ひの極 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて(一に云ふ、天雲の八重雲別きて) 神下し 座せまつりし 高照らす 日の皇子は 飛鳥の 浄の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇の 敷きます國と 天の原 石門を開き 神あがり あがり座しぬ(一に云ふ、神登りいましにしかば) わご王 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴からむと 望月の 満しけむと 天の下(一に云ふ、食す國) 四方の人の 大船の 思ひ憑みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁もなき 眞弓の岡に 宮柱 太敷き座し 御殿を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬる そこゆゑに 皇子の宮人 行方知らずも(一に云ふ、さす竹の皇子の宮人ゆくへ知らにす)  (2-167)

  反歌二首
ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも  (2-168)
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも  (2-169)
  或る本の歌一首
島の宮勾の池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず  (2-170)

この挽歌の前には、大津皇子を悼む大来皇女の絶唱ともいうべき有名な歌が置かれている。

  大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大来皇女の哀しび傷む御作歌二首
うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟世とわが見む  (2-165)
磯のうへに生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言はなくに  (2-166)

小松崎氏は、日並皇子命への挽歌は、だれの挽歌かと思うほどに没個性的であるが、それ故に「天武の皇子たちみんなの挽歌」という普遍性を持っている。
その普遍性は「皇子たちの鎮魂歌」としての性格であり、大津皇子の悲歌の次に、日並皇子の挽歌が位置していることによって、その鎮魂歌が輪唱のように響く、としている。

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2008年8月29日 (金)

安騎野の朝

大宇陀町中央公民館に、中山正實制作の『安騎野の朝』という壁画が飾られているという(未見)。
中山画伯は、相当綿密な考証を行った上で描いたらしい。制作は昭和15(1940)年である。
その考証の結果の大要は、以下の通りである(http://www.bell.jp/pancho/travel/ossaka/kagirohi-no-oka.htm)。

①安騎野の宿営地点は、大宇陀町阿紀神社付近である。
②人麻呂が朝明けの実感を得た地点は、阿紀神社前面の小丘、現在「かぎろひの丘」とされているところである。
③背景は秋山城址の南麓あたりで見える情景で、左肩方面に高見山が見える。
④日時は、持統6年の陰暦11月17日午前6時前後。
⑤馬の大きさや骨格は、関保之助博士の指導援助による。

この考証による陰暦11月17日にあたる日に、毎年、万葉公園で「かぎろひを観る会」というイベントが開催されている。1972年に始まった。
早朝に参加者が焚き火を囲み、「かぎろひ」が現れるのを待つ。
陰暦11月17日は、現在の暦では12月20日前後になる。午前6時といえば、相当に冷え込みが厳しいだろうと思われる。
笹酒などが振舞われるというから、是非一度参加してみたいと思う

ところで、そんな時期に本当に狩をしたのだろうか、という疑問が湧く。
薬猟ならば、推古紀の記事からも、あるいは蒲生野の「あかねさす」の額田王の歌からも、初夏の頃に行われるものだろう。
45番の長歌によれば、雪も降っている様子である。雪が降り積もった野で狩を行うことなどあるのだろうか?

この狩については、季節の問題を別にしても、疑問の点がいくつかある。
誰が主宰したのかといえば、持統だったのだろうが、主格は軽皇子だったであろう。
軽皇子が持統11年に15歳で即位したとすれば、持統6年にはまだ10歳の少年である。

草壁皇子は3年前に28歳で亡くなっており、軽皇子も文武天皇として即位して10年後の25歳で亡くなっている。
とすれば、草壁-軽の親子は病弱な体質だったように思われる。
その病弱な10歳の少年が、冬の荒野で野宿するような狩をするのだろうか?
しかも、草壁皇子亡き後は、持統天皇が何とか皇位を継がせたいと思っている掌中の玉である。
何かウラがありそうな気がする。

この歌は、45番の長歌に対して、46~49番の反歌がワンセットになっている、と考えられる。
小松崎文夫氏は、『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)では、反歌4首が、「起承転結」の構成にあるという那珂通高氏の説に拠りつつ、48番歌の「転」について、以下のように考察している。

私は、これは明らかに「日=軽皇子・月=草壁皇子」を象徴する人麻呂の意匠であり、暗喩であるとはっきり言い切れると思う。

原表記を見てみよう。

東野炎立所見而反見為者月西渡  (1-48)

48番の「月西渡」は、現在「月傾きぬ」と訓じられている。
叙景歌とすれば、「東」-「西」という対比で、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の句と同様の趣とも思える。
しかし、この「月西渡」=「月傾きぬ」の訓は、議論のあるところであり、いささかムリな訓なのではなかろうか。
小松崎氏は、この歌(だけ)が叙景歌であるはずがなく、「月」すなわち「草壁皇子」の「西渡」すなわち
「死(薨去)を意味している、としている。
訓は別として、意味としては合理的な解釈だと思う。
つまり、安騎野は、草壁皇子の「思い出の地」や「記念の地」というよりも「臨終の地」と考えるべきではないのか、ということである。

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2008年8月28日 (木)

かぎろひの丘

『万葉集』に、柿本人麻呂が、軽皇子のことを詠んだ歌がある。

  軽皇子、安騎(アキ)の野に宿る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌
やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太しかす 京を置きて こもりくの 泊瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹(サヘキ)押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に はたすすき 小竹(シノ)を押しなべ 草枕 旅宿りせず 古思ひて  (1-45)

安騎の野に 宿る旅人 うちなびき いも寝らめやも 古思ふに  (1-46)

ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とそ来し  (1-47)

東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ  (1-48)

日並の 皇子の尊に 馬並めて み狩り立たしし 時は来向かふ  (1-49)

軽皇子という表現は、草壁が即位しないまま持統3(689)年に亡くなっていることを考えれば、立太子以前には用いられないと考えられる。
この歌が作られた時期は不明であるが、軽皇子が立太子した持統11年より以前であると思われる。小松崎文夫氏は、『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)において、巻の構成から持統6(692)年頃だろうと推測し、巻1の編者とは別に、「皇子」とよばれるべき立場になってから“増補”“加筆(修正)”されたと考えるべきだ、としている。

45・46番の「古」は、「亡き父の草壁皇子のいらした昔のことを思って……」と解するのが通説である。
しかし、草壁皇子の死については、『日本書紀』は、「皇太子草壁皇子薨りましぬ」と書くだけである。
「吉野の盟約」以来、天武の後継として位置づけられてきた草壁の立場を思えば、この素っ気なさは不可解である。
『日本書紀』を編纂した体制にとって、草壁皇子の経緯には詳らかにしたくない事情があったのだろうか?

上記の歌の中で48番の歌はよく知られている。
奈良県宇陀郡大宇陀町にある「万葉公園」はこの「かぎろひの丘」にあり、佐々木信綱氏が揮毫したこの歌の碑が建っている。
つまり、『万葉集』を代表する秀歌だということだ。

この辺りは、飛鳥時代には菟田の安騎野の呼ばれ、朝廷のお狩場になっていた。
初夏を迎えると、皇族や廷臣が鹿の若角をとる薬猟を楽しんだという。
宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈下〉』講談社学術文庫(8808)の推古紀に、以下の記載が見える。

十九年夏五月五日、大和の菟田野に薬猟をした。夜明け前に藤原池のほとりに集合し、曙に出発した。粟田細目臣を前の部領、額田部比羅夫連を後の部領とした。この日諸臣の服の色はみな冠位の色と同じにした。冠にはそれぞれ飾りをつけた。大徳・小徳はいずれも金を使い、大仁・小仁は豹の尾を用いた。大礼より以下は鳥の尾を用いた。

推古19年は611年だから、持統6年とすれば、約80年ほど前のことになる。
2安騎野は、奈良盆地と吉野地方・伊勢方面を結ぶ交通の要衝に位置している(図は、『壬申の乱/新説戦乱の日本史28』小学館(0808)。
天武元(672)年、挙兵した大海人皇子が最初に立ち寄ったのが菟田である。
大海人に従った持統(鸕野皇后)や草壁にとっては、安騎野(菟田)は、思い出深い土地であったに違いないだろう。
持統6(692)年は、それからちょうど20年後のことである。
草壁の遺児である軽皇子に同行した柿本人麻呂がその時の様子を詠み込んだということになる。

ところで「かぎろひ」とは何だろうか?
現在の私たちが「かぎろひ」という音を聞けば、「陽炎」との関連性を思い浮かべるだろう。
しかし、推古紀にもあるように、おそらくは曙の範疇に入る時刻である。「陽炎」ということではないだろう。
ちなみに原文は以下のように表記されている。

東野炎立所見而反見為者月西渡

この「炎:かぎろひ」については、訓としても議論があるが、その実体についてもさまざまな所説がある。
大宇陀町観光協会では、以下のような説を採用している。

厳冬のよく晴れた早朝、太陽が水平線上に現れる約1時間前に太陽光線のスペクトルにより現れる最初の陽光
http://www.bell.jp/pancho/travel/ossaka/kagirohi-no-oka.htm

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2008年8月27日 (水)

文武朝は新王朝か?

ところで、草壁皇子を指す「日並知(ヒナミシ)皇子」という表現は、どういう背景を持っているのだろうか?
正史においては、『日本書紀』には日並知皇子の表記はなく、『続日本紀』の冒頭で突然に登場している。
小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)によれば、日並知皇子の称号について、神野志隆光氏が以下のような用例型があることを示している。

A.日双(雙)斯皇子命……(万葉49)
B.日並皇子尊……(万葉110題詞、167題詞)、日並皇子(天平勝宝八歳六月廿一日東大寺献物帳(国家珍宝帳)
C.日並知皇子尊……(続紀文武即位前紀、元明即位前紀、元正即位前紀、天平元年二月甲戌条)、日並知皇子命(続紀慶雲四年四月庚辰条、天平宝字二年八月戊申条)、日並知皇太子(続紀慶雲四年七月壬子条)
D.日並所知皇子命……(万葉目録110、本朝月令所引右官吏記)、日並所知皇子(七大寺年表所引竜蓋寺伝記)
E.日並御宇東宮(栗原寺鑢盤銘)

『万葉集』の最初の用例であるA.についての神野志氏の説を、上掲書から引用する。

「日にあいならぶ」の意の「ヒナミ」に、過去の助動詞「シ」がついたものであって、これは、草壁皇子の皇子である軽皇子(文武)が、人びとに正統な皇位継承者として意識されはじめたころ、人麻呂が独自に歌に詠みこんだものと推定される。したがってAは正式な称号とはみなしがたい。これに対して、B「日並」とC[日並知」は、すでに称号もしくは諡号となっている。ことに注目しなければならないのは、続紀の統一的な表記とみられるC「日並知」であって、この表記の多くは、皇位継承に関する記事において、後継者の正統性を喚起する文脈のなかにあらわれる(後略)。

『続日本紀』において、文武帝の正統性を示す場合に、草壁皇子を示す言葉として「日並知」が定着していったということである。
どうして文武帝の正統性がそこまで強調されなければならないのか?
言い換えれば、強調しなければならないような事情があったということなのか?
つまり皇位継承について、何らかの問題があったのではないか、とも推測される。

とすれば、「衆議粉紜」だったという軽皇子の立太子の経緯が気になってくる。
なぜ、持統は高市皇子の死後、皇太子の問題を論議させたのか?
高市皇子の存命中は、皇太子問題を持ち出すことができなかったということだろうか?
高市皇子の長子の長屋王邸跡から出土した木簡に、長屋親王と書かれたものがあることから、高市は即位していたと考えるべきではないのか、とする説がある(08年2月7日の項8日の項)。

もし、高市皇子が即位していて、その後継をめぐって、「衆議粉紜」だったとしたら?
『新唐書』に次の記事がある(http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun11-sintosho.htm)。

安元年、其王文武立、改元曰太寶。
長安元年(701年)、その王の文武が立ち、改元して太宝という。

『日本書紀』によれば、文武天皇の即位は持統11(697)年である。
また、大宝元年は701年だから、改元年については、『新唐書』と『続日本紀』とが一致しているが、文武の即位年は『新唐書』と『日本書紀』にズレがある。

ところで、『新唐書』が「大宝と改元した」としているのは、どういう情報に基づいているのだろうか?
改元はその前にも元号があり、改めて新たな元号に替えたということであろう。
しかし、『日本書紀』と『続日本紀』には、大宝に改元したその前の元号について、何も記していない。

三月二十一日 対馬嶋が金を貢じた。そこで新しく元号をたてて、大宝元年とした。

「新しく元号をたて」ということは改元したということだろうか?
「九州年号」もしくは「古代逸年号」というものが存在することについては、以前に触れたことがある(08年1月7日の項)。
『新唐書』が「改元」と表記しているのは、「大宝」の前に元号があったという認識に基づいていると考えるべきだろう。
それは「九州年号」であったと考えるべきだろうか?

「九州年号」は大化6(700)年をもって消滅する。
そして701年以降は、大宝以降の元号群が連続する。
元号が王朝と一体的なものだとすれば、701年に王朝交代があったということだろうか?
つまり、文武は新王朝の創始者だったのか? 
とすれば、「万世一系」の論理でこれらの事実を覆い隠すために、文武の正統性を強調しなければならなかったということだろうか?

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2008年8月26日 (火)

皇子たちの万葉歌

『続日本紀』の文武即位前紀の記事をもう一度見てみよう(宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206))。

天之真宗豊祖父天皇は天武天皇の孫で、日並知皇子尊の第二子である(分注。日並知皇子尊は宝字二年(七五八)に勅があって、天皇の号を追贈し、岡宮御宇天皇と称した)。母は天智天皇の第四女、元明天皇である。

ここで日並知皇子は、いうまでもなく草壁皇子のことを指している。
『万葉集』には、日並知皇子尊作の歌がある。

  日並知皇子尊、石川女郎に贈り給ふ御歌一首(女郎、宇を大名児といふ)
大名児を彼方(ヲチカタ)野辺に刈る草の束の間もわれ忘れめや  (2-110)

この歌は、有名な大津皇子と石川郎女の相聞歌の次に置かれている(07年8月27日の項)。

  大津皇子、石川郎女に贈る歌一首
あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに  (2-107)

  石川郎女、和へ奉る歌一首
吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくに成らましものを  (2-108)

  大津皇子、密かに石川女郎に婚(ア)ふ時、津守連通その事を占へ露すに、皇子の作りましし御歌一首(未だ詳らかならず) 
大船の津守の占に告らむとはまさしに知りてわが二人宿(ネ)し  (2-109)

また、この歌の次の歌は、弓削皇子が額田王に贈った歌(08年8月22日の項)である。
この配列に何か意味があるのだろうか?

大津皇子との対比で言えば、大津皇子の颯爽ぶりに対して、日並知皇子(草壁)はいささか分が悪い。
石川郎女をめぐっての史実はかならずしも明らかではないが、掲載歌においては大津皇子と石川郎女はワンセットの相聞歌になっていて、石川郎女の心は大津皇子に傾いている。
それに対し、草壁皇子はひたすらな片思いといった印象を受ける。

草壁皇子と弓削皇子との関係はどうだろうか?
草壁皇子が天武の後継者として位置づけられた「吉野の盟約」には、弓削皇子はまだ6歳くらいと推定され、参加する年齢ではなかった。
弓削皇子は、高市皇子が亡くなって、持統が群臣を集めて皇太子の問題を論議させた際に、「衆議粉紜」でなかなか決まらなかった時に、持統の方針に反対しようとしたことが知られている(08年8月18日の項)。

そのこともあって、弓削皇子は、朝廷内で不利な立場にあったのだろうか?
『万葉集』の次の歌は、弓削皇子の無常感を感じさせるような歌である。

  弓削皇子、吉野に遊しし時の御歌一首
瀧の上の三船の山に居る雲の常にあらむとわが思はなくに  (3-242)

これに対して、春日王が次のように応えている。

  春日王の和へ奉る歌一首
王は千歳に座む白雲も三船の山に絶ゆるひあらめや  (3-243)

弓削皇子が、「自分の先行きはどうも怪しいようだ。いつまで生きていられることだろうか」というような心情を詠めば、春日王が、「そんなことは決してないよ」と慰めているという図式である。

弓削皇子が皇太子の問題で葛野王に叱責されたのは、持統10(696)年である。
上記の歌の制作年代は明らかでないが、弓削皇子は文武3(699)年に亡くなっている。推測年齢26歳だから、自然死ではないと思われる。
文武3年には、次のような死亡記事が見られる。

1月28日 浄広参の坂合部女王が卒した。
6月23日 浄広参の日向王が卒した。
6月27日 浄大肆の春日王が卒した。
7月21日 浄広弐の弓削皇子が薨じた。
9月25日 新田部皇女が薨じた。天智天皇の皇女である。
12月3日 浄広弐の大江皇女が薨じた。天智天皇の皇女である。

春日王と弓削皇子が親しい間柄であったことは、上記の歌からも推認できる。
また、大江皇女は、弓削皇子の母である。
新田部皇女は、大江皇女の妹である。
つまり、弓削皇子の親しい人たちが、次々に亡くなっているわけである。
これらの弓削皇子周辺における近接している死は偶然のことだろうか?

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2008年8月25日 (月)

文武天皇のイメージ

文武天皇とはいかなる存在か?
『続日本紀』の即位前紀は、以下のように記している。

天之真宗豊祖父天皇は天武天皇の孫で、日並知皇子尊(天武天皇の皇太子・草壁皇子)の第二子である<分注。日並知皇子尊は宝字二年(七五八)に勅があって、天皇の号を追贈し岡宮御宇天皇と称した>。母は天智天皇の第四女、元明天皇である。天皇は天性ゆったりとしておられ、めぐみ深く怒りを外にあらわされることもなかった。ひろく儒教や歴史の書物を読まれ、とくに射芸(弓を射ること)にすぐれておられた。持統天皇の十一年に皇太子にお立ちになった。

また、所功監修『歴代天皇 (知れば知るほど)』実業之日本社(0602)から、その概要を引用する。

藤原不比等の娘・宮子を皇后に、紀竈門娘と石川刀子娘を妃とした。宮子とのあいだに首皇子(のちの聖武天皇)をもうけている。
大宝元年(七○一)、忍壁(刑部)皇子・藤原不比等らに命じて「大宝令」を完成させ、これを施行し、中納言をおいて官人の考選年限を短くするなど、慶雲三年(七○六)にその改訂を行った。
また、大宝二年には三十三年ぶりに遣唐使して、唐との関係を修復し、薩南諸島へも使者を派遣して、領土の拡大をはかった。
しかし、これらを実質的に主導したのは、文武天皇というよりも、やはり持統太上天皇であり、持統崩御後は知太上官事・忍壁皇子であったと考えられている。
『懐風藻』に詩三篇、『万葉集』に天皇の作と思われる短歌一首が残されている。
父同様に早世し、檜隈安古岡上陵に葬られた。以後は、母・元明、姉・元正の女帝が続くことになる。

文武天皇の「軽皇子」の「軽」とはどういうことを意味しているか?
軽皇子には、文武天皇の他に、允恭天皇の子の木梨軽皇子と孝徳天皇とがいる。
澤田洋太郎『異端から学ぶ古代史』彩流社(9410)によれば、「カル」とは朝鮮語で刀のことであり、その名は渡来系の人物に付くという。
孝徳天皇の場合は、親新羅政策をとっていることもあり、新羅の王族説がある。
もし、小林惠子氏が説くように、文武王が新羅から亡命して軽皇子になったとしたら、「軽」というネーミングはピッタリということになる。

上記のように、文武天皇の治績は立派なものといえるが、「これらを実質的に主導したのは、持統太上天皇や忍壁皇子」という見方があるのは、やはり15歳で即位し25歳で没したという年齢を勘案するからであろう。
しかし、その年齢に疑念があることは既に触れた(08年8月19日の項20日の項)。
もし、「軽皇子=新羅・文武王」ならば、文武王は百戦錬磨であったから、「射芸にすぐれていた」ことは当然である。

李寧熙氏は、『万葉集』を韓国語で解読して、「文武天皇=新羅・文武王」説を是とする。
柿花仄氏が『帋灯・猿丸と道鏡』東京経済(0309)で紹介する『大日本哥道極秘伝書』の内容も、「文武天皇=新羅・文武王」とするとよく理解できる。
両者とも、吉野に亡命した文武王が隠棲していて、持統の頻回の吉野行幸を、この文武王に会いに行くためとしている。
しかし、李氏が、持統と文武王が男女関係にあったとするのに対し、『大日本哥道極秘伝書』では、持統が男女関係にあったのは柿本人麻呂で、その人麻呂が文武の子であったとする。
つまり、持統が吉野に行くのは、人麻呂の父に会いに行くということになるが、そこで権力の掌握と維持について、さまざまな相談事があったのではないか、ということである。

いずれにしろ、正史や通説とは大きく異なる解釈ではあるが、そもそも正史は勝者の都合に合わせているものだろうし、通説といっても、その根拠が不動だというわけでもない。
この辺りの問題は、いかなる仮説が諸事象を矛盾なく説明できるかという、いわゆる仮説設定思考法でアプローチするしかないのではなかろうか。

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2008年8月24日 (日)

文武天皇の歌

『万葉集』には、文武天皇に係わる歌が収載されている。
前書きと左注は次の通りである。
「大行天皇、吉野の宮に幸しし時の歌」
「右の一首、或は云はく、天皇の御製歌」
大行天皇は文武天皇のことで、吉野に行幸された時に歌われたもの、というのが前書きで、一説によると天皇ご自身が作られたと左注がついている、ということだ。

見吉野乃山下風之寒久尓為当也今夜毛我独宿牟 (1-74)
<訓>
み吉野の山のあらしの寒けくに はたや今夜も我がひとり寝む
<大意>
み吉野の山颪(オロシ)の風が寒いのに もしや今夜もわたしはひとりで寝ることだろうか (『全集』)
み吉野の山の嵐が寒い今夜も、もしかすると私は独り寝をすることであろうか (『大系』)

『全集』は小学館刊『日本古典文学全集』、『大系』は岩波書店刊『日本古典文学大系』

日本語で読んだ場合、特に難解な訓でも大意でもないだろう。
『続日本紀』には、次の吉野行幸記事がある。
大宝元(701)年
二月二十日 吉野離宮に行幸された。
大宝2(702)年
七月十一日 天皇は吉野離宮へ行幸された。
「寒けくに」ということからすると、大宝元年の行幸の際であろうか?
持統11(697)年に15歳で即位したとすれば、大宝元(701)年には、文武天皇は19歳である。
しかし、大宝元年正月1日に華やかな朝賀の儀式を終えたばかりである。
「我がひとり寝む」というのは、何を言おうとしているのか?

李寧熙氏による解読は以下の通りである(『甦える万葉集』文藝春秋(9303)。

A:表詠みの大意
水の吉野の
山の下風 寒さをつのらす
よもすがら今宵も
我ひとり寝む
B:裏詠みの大意
裾をひろげ その下を漱ぎ給え
刺し込もうではないか
しかし、「こみ価格」で頂くとしよう
私は、天下を独り占めしたいのだ

李氏は、この歌は、性愛歌のように見せかけたクーデター宣言の歌だとし、以下のような結論を導き出す。
①文武天皇は新羅系の人物であったと思われること。徹底した新羅ことばの使いぶりや、純吏読風な書き方からして、日本に来ていくばくも過ぎていない新羅系の渡来人ではないかと思われること。文武自身の作でないとしても、文武の平素のことば遣いを真似て表現したものと思われること。
②文武天皇は即位前の相当期間、吉野に住んでいたと思われること。
③文武と持統は性的交渉を続けていたと思われること。従って文武は持統の孫でもなく、年齢も従来説とは大幅に異なると思われること。
④高市皇子(高市天皇?)の逝去(暗殺?)をめぐる政権盗りにかかわるある種の謀議が、文武・持統を中心に行われたと思われること。

そして、小林惠子氏の説を以下のように要約して紹介している。

軽皇子つまり文武天皇は、草壁皇子の長子ではなく天武天皇の長子である。
天武天皇の前身は高句麗の宰相淵蓋蘇分将軍である。
蓋蘇分は若くして新羅金庾信将軍の妹を娶り、身籠らせる。庾信は金官伽耶王族出身である。
唐との長年の激戦に敗れ日本に亡命した蓋蘇文は、壬申の乱で政権取りに成功、天武天皇となる。
庾信は妹を新羅の王族金春秋と結婚させる。春秋は後の太宗武烈王(新羅第二十九代)。
武烈王の長男として育った蓋蘇文の子は、文武王(新羅第三十代)となる。
三国統一後唐の攻撃を受け、新羅の東海岸から日本に亡命した文武王は、高市皇子(高市は天皇であった)の死後、持統の協力を得て天皇に即位する。文武天皇である。

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2008年8月23日 (土)

額田王が弓削皇子に応えた歌

弓削皇子に対して、額田王の応えた歌は以下の通りである。

(額田王、和へ奉る歌一首 大和の都より奉り入る)
古尓恋良武鳥者霍公鳥蓋哉鳴之吾念流其騰 (2-112)
<訓>
古に恋ふらむ鳥はほととぎす けだしや鳴きし我が恋ふるごと
<大意>
古を慕うという鳥はほととぎすです おそらく鳴いたでしょう わたしが慕っているように
<李氏の韓国語訓>
A:表詠み
「串」入れに
ダゲ(宮滝)詣りする
反逆よ
今こそ泣くや
アガ(子供)との恋で
B:裏詠み
「串」入れに
ダゲ(武)詣りする
逆入れよ
今こそ泣くや
我が恋のごとく
(注:下線は、二重詠み部分)

それぞれの李氏による大意は以下の通りである。
A:恋をしに宮滝に行くんですって。まったく反逆ものですよ。今こそ彼女もつらくて泣くことでしょう。まるで子供を恋しているようなもんですからね。
B:恋の行為をした「武」に逢いに行くんですって。逆入れするのでしょう。今こそ彼女の肉体も泣くのでしょうね。私の恋の時のように。

李氏の逐語的解説は割愛するが、李氏が導き出した内容は以下のようなことである。
①持統天皇は恋人に逢うため、吉野の宮滝に通っていること。
②その恋は「反逆行為」とされるべきものであること。
③恋の相手は「子供のよう」であること。
④恋人は、「武」の字、または「たけ」音の名を持つ人であること。

李氏は、軽皇子の「軽」は、韓国語では「ガル」で双子のことで、「軽」と呼ばれた人は、双子か「双子的」な二重のイメージを持った人で、たとえば韓国と日本の両方で「王」であった人を指した名前だという。
文武天皇も双子だったのではないか、という説もある。
確かに、『続日本紀』には、双子などの多胎児家族に対する支援措置の記事が多い。

また、古代日本における地名などの「軽」は、韓国古代国家の1つ「加羅(伽耶・韓と同)」から来日した人たちとの関連を示したものだともいう。
果たして、軽皇子は「軽」はどのような背景を持っているのか?
律令体制は、「大宝律令」によって完成したといわれる。WIKIPEDIA(08年7月28日最終更新)を見てみよう。

世紀後半以降、百済の滅亡など緊迫する東アジアの国際情勢の中で、倭国は中央集権化を進めることで、政権を安定させ、国家としての独立を保とうとした。そのため、近江令、飛鳥浄御原令を制定するなど、当時の政権は、唐・朝鮮半島の統治制度を参照しながら、王土王民思想に基づく国家づくりを進めていった。その集大成が大宝律令の完成であった。これにより、日本の律令制が成立したとされている。大宝律令による統治・支配は、当時の政権が支配していた領域(東北地方を除く本州、四国、九州の大部分)にほぼ一律的に及ぶこととなった。

同WIKIPEDAでは、「神野志隆光は『「日本」とは何か』(講談社現代新書、2005)で、大宝令公式令詔書式において初めて日本国号が制定されたとしている。」とある。
「大宝律令の施行者・文武天皇は、日本の歴史にとって、エポック・メーキングな人だった。
しかし、その実相は、深い霧に包まれている。

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2008年8月22日 (金)

持統天皇の吉野行幸と弓削皇子の歌

持統天皇が頻回の吉野行幸を行ったことは良く知られている。
持統3年の正月18日から始まり、持統11年4月まで、30回以上に及ぶ。
吉野行幸の始まった直後ともいうべき4月13日に草壁皇子が急死。
そして、持統10年秋7月10日「後皇子尊薨せましぬ」という不思議な表現で高市皇子の死が記され、紛糾しつつも持統11年2月に軽皇子が立太子すると、以降は11年4月に行幸しただけで、吉野行幸の記事は見えなくなる。

この頻回の吉野行幸はどう理解したらいいのだろうか?
関裕二氏は、『謎の女帝・持統』ベスト新書(0202)で、直木孝次郎『持統天皇』吉川弘文館(8507)と吉野裕子『持統天皇』人文書院(8712)を総合して、以下のようにまとめる。

持統の吉野行幸は、持統の天武を思う気持ちがさせたことでもあるが、それにしては度が過ぎた回数の行幸となっている。よって、この行幸には、呪術的な要素がふんだんに盛り込まれていた……。

その上で、関氏自身の見解として、「吉野宮は重要な軍事拠点だった」と述べている。

李寧熙『天武と持統』文藝春秋(9010)は、持統の吉野通いの謎は、高市皇子-文武天皇-持統天皇の3人を結ぶ延長線上に謎解きのヒントがあるとする。
李氏は、『もう一つの万葉集』文春文庫(9107)で、『万葉集』は韓国語で読まないとその真の意味が理解できない、として話題になった、日本生まれの韓国人女性である。
韓国語を知らない人間からすると論評のしようもないのだが、藤村由加『額田王の暗号』新潮社(9008)で、万葉歌を日本語と韓国語の二重性において理解するという方法を知ったときには、「目からウロコが落ちる」思いをした。
しかし、李氏の解釈は、いささか強引にコジツケ過ぎるような気がする。
『天武と持統』では、持統の吉野通いを批判した万葉歌として、弓削皇子と額田王の歌を挙げている。

弓削皇子の歌
(吉野の宮に幸(イエマ)しし時、弓削皇子、額田王に贈与(オク)る歌一首)
古尓恋流鳥鴨弓絃葉乃三井能上従鳴渡遊久 (2-111)
<訓>
古に恋ふる鳥かもゆづるはの 御井の上より鳴き渡り行く
<大意>
古を慕う鳥だろうか ゆずり葉の 御井の上から 鳴いて飛んでゆく
<李氏の韓国語訓>
「串」入れに 廻り行く、
行列続く、
「水」(または「三代」)つなぐ
上様に
ろばは 遊びながら付いて行く。
<李氏による韓国語訓の大意>
また逢いに行くんだな。長々と行列をなしてさ。飛鳥から吉野川までお(または、「三代」を)つなぐ上様のシンガリに、ろばは遊び半分のろのろ付いて行ってるさ。

ここでは割愛せざるを得ないが、李氏は、逐語的に解説していて、その方面(韓国語)に堪能な人ならば妥当性を検証できるだろう。
高市皇子の死後、持統が軽皇子(文武天皇)を立太子させようとした方針に対して、弓削皇子が反対したとされる(07年9月11日の項)。

上記の解釈を元に、李氏は次のような推論を提示する。
①持統天皇は、恋人に逢いに吉野通いをしていたようであること。
②吉野には、馬にのって通ったようであること。
③恋のお相手は、どうやら即位前の文武天皇のようであること。と、すると、文武天皇は持統天皇の孫ではないと思われること。

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2008年8月21日 (木)

文武王=文武天皇説

文武天皇と同時代に、新羅に文武王という名前の王が存在した。
この名前の一致は、果たして偶然のことなのだろうか?

小林惠子氏の諸説は、いつも意表を衝く態のものであるが、文武天皇に関しても同様で、実は文武天皇と新羅の文武王は同一人物であるとする。
小林惠子『興亡古代史』文藝春秋(9810)を見てみよう。

百済が滅ぼされた翌六六一年六月、新羅では武烈王(金春秋)が死んで、反唐派の法敏(文武王)が即位する。
中略
『書紀』には同六八一(天武一○)年、二月に草壁が立太子したとある。そして六月五日条に新羅の客若弼を筑紫で接待したとある。「新羅本紀」では同年七月一日に文武王は死んだことになっているから、若弼は文武王の生死に関する情勢の報告に来たとみえるが、八月に帰国している。
文武王の死んだ同年同月同日、つまり天武一○年七月一日条に「朱雀が見えたとある。朱雀は五行思想でいう火徳の鳥で、新羅は火徳の国だが、文武王も火徳の人だったことは六八一年の文武王の墓碑銘から知られている。
この場合、「朱雀が見えた」とあるのは、次に説明するが、文武王が倭国に亡命したという暗示なのである。
中略
唐国の攻勢に耐えかねた文武王は、神文王を即位させ、みずからは死んだことにして倭国に亡命したと私は考えている。
中略
火葬でもなく、遺体も陵も存在しないとするならば、当時の情勢からみて、文武王は新羅を去って亡命したとするのが妥当である。

小林惠子説を援用しつつ、柿花仄氏は、中院通茂の『大日本哥道極秘伝書』に記された「傳に曰く、人丸は文武天皇の御子と云々。」の人麻呂と文武の年齢の矛盾について、次のような解釈をする。
①文武は新羅文武王だった(小林惠子説)
②文武は既に老人だった(諡号の祖父、治績、立太子の際の紛糾、老人への労わり施策等)
③文武は軽皇子の替玉だった

このうちの②の老人への労わり施策について、柿花氏は、『続日本紀』から次のような事項を抽出する(以下の文章は、宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206)による)。
・慶雲元年5月10日:高齢者(八十歳以上)と老人の病者に、それぞれ物を恵み与えた。
・慶雲元年7月19日:天皇は、詔を下して「京内の八十歳以上の高齢者全員に、物を恵み与えよ」と言われた。
・慶雲2年8月11日:老人・病人・やもめの男女・孤児・孤独の老人など、自活することのできない者には、程度に応じて物を恵み与えよ。
・慶雲2年10月26日:詔を下して、使者を五道に遣わし、高齢者・老人・病人・やもめの男女・孤児・独居老人に物を恵み与え、この年の調の半分を免除した。

柿花氏は、このような老人に対する労わりの施策は、年若い天皇には似合わない、とする。確かに高齢の天皇に相応しいものだろう。
文武天皇は、慶雲3年11月に病に陥り、母に譲位する気になったが、母(後の元明天皇)が謙譲の心で固辞し、慶雲4年6月、文武天皇は崩御した、と『続日本紀』の元明即位前紀にある。
没年齢を25歳とすると、24歳で病に陥ったことになるので、病弱だったというイメージになる。それで、祖母・持統の後見が必要で、太上天皇制が導入された、という理解に結びつく。
しかし、78歳没説に従えば、病に陥ったのは自然現象ともいえる。

②について、柿花氏は次のようにいう。
軽皇子と文武王との関係については次のようなケースが考えられる。
a.実際に草壁の子「軽皇子」は存在した。
b.ある段階で「文武王」と入れ替わった。
c.存在すらなく、まったく新しい戸籍が作られた。
「a」と「b」は両立し得るから、3つ並列に並べるべきではないと思われるが、柿花氏は、「b」案を採るとする。
つまり、「軽皇子」は実際にいて、即位を機に実権を文武王に移し、持統と文武王との二人三脚が始まった。

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2008年8月20日 (水)

文武天皇の年齢

『愚管抄』は、天台座主の慈円が記した史書である。
慈円は、後鳥羽上皇の近くにあって、藤原定家らと和歌を嗜んでいた。つまり「古今伝授」について、深く知る立場にあった。
その慈円が、文武天皇の没年齢を、2つ併記するとは?
しかも、25歳と78歳では、若年と高齢でまったく異なる。

25歳というのは、草壁皇子崩御時に7歳であるとしたときの年齢である。
もし78歳で没したとして逆算すると、軽皇子の誕生年は舒明2(630)年となり、68歳で即位したことになる。
天武-草壁-文武という血の流れが、『日本書紀』『続日本紀』の主張する皇統である。
しかし、その天武(大海人皇子)の出自には謎が多いことについても、既に触れてきた。

九州王朝の皇子とする砂川恵伸氏の精細な説(08年1月15日の項16日の項17日の項18日の項19日の項20日の項)。
天智と天武の非兄弟説(08年1月26日の項)。
砂川氏に先行して、九州王朝皇子説を唱えた大芝英雄氏の説(08年2月15日の項)。
新羅の金多遂であるとする林青梧氏の説(08年5月15日の項)。

柿花氏は、このように天武天皇に謎が多いのは、軽皇子即位に端を発するものだ、とする。
そして、文武天皇の諡号を問題にする。
『続日本紀』には次のようにある。
巻第一:天之眞宗豊祖父天皇
巻第三:倭根子豊祖父天皇

この諡号の「祖父」の文字は、若くして逝った天皇には相応しくない。
若くして長老の風格があったため、とする説もあるというが、いささか無理がある。
文武天皇の治世はどのようなものであったか?
WIKIPEDIA(08年7月24日最終更新)を見てみよう。

父草壁が689年に亡くなり、696年には伯父にあたる高市皇子も薨じたため、697年2月立太子。同年8月、祖母・持統天皇に譲位され即位した。当時15歳という若さであったため、持統が上皇として後見役についた。701年(大宝元年)に大宝律令が完成し、翌年公布している。 また混乱していた冠位制を改め、新たに官位を設けた。 今まで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。

15歳で即位し、25歳で没した天皇の治績として考えたらどう評価すべきだろうか?
大宝年間は、律令の完成と元号制度のスタートという意味で、間違いなく古代史上の1つの画期である。
『続日本紀』の大宝元(701)年正月一日の条は、「文物の儀、是に備れり」と、誇らしげに記している。

春正月一日、天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀式の様子は、大極殿の正門に烏形の幢(先端に烏の像の飾りをつけた旗)を立て、左には日像(日の形を象どる)・青竜(東を守る竜をえがく)・朱雀(南を守る朱雀をえがく)を飾った幡、右側に月像・玄武(北を守る鬼神の獣頭をえがく)・白虎(西を守る虎をえがく)の幡を立て、蕃夷(ここでは新羅・南嶋など)の国の使者が左右に分れて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。

この文章からイメージされる情景は、高松塚古墳の壁画とよく一致している(08年1月1日の項)。
文武天皇は、本当に15歳で即位したのか?
文武即位はどのような意味を持っていたのか?

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2008年8月19日 (火)

文武天皇をめぐる謎

澤田洋太郎『異端から学ぶ古代史』彩流社(9410)によりつつ、「聖武天皇をめぐる謎」について記した(08年7月8日の項)。
上掲書によって、聖武天皇の父・文武天皇をめぐる謎について、検討してみよう。
文武天皇は、草壁皇子の遺児である。
2_2系譜上の位置は、図に示す通りである(寺沢龍『飛鳥古京・藤原京・平城京の謎』草思社(0305))。
そして、草壁皇子の薨去後、持統天皇が自らの血統を継ぐ皇統の維持を図るため、自ら皇位に就いて文武にバトンタッチしたこと、藤原不比等が藤原氏の血統を皇統に注入するため、娘の宮子を夫人としたこと等において、日本古代史の皇統におけるキーパーソンであるが、『日本書紀』と『続日本紀』の記述には以下のような謎がある。

1.没年齢
草壁皇子は689年に、文武天皇は707年に亡くなっているが、『日本書紀』『続日本紀』ともに没年齢を記していないし、この2人の功績を讃えたり、死を悼む言葉が記されていない。

2.皇后不在
『日本書紀』には軽皇子立太子に直接触れた記事がなく、持統11年春2月28日の条に、「直広壱当麻真人国見を東宮大傳とした。直広参路真人跡見を春宮大夫とした」とあるだけである。
『続日本紀』の冒頭の文武天皇の即位記事には、以下のような記述がある(宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206))。

母は天智天皇の第四女、元明天皇である。天皇は天性ゆったりとしておられ、めぐみ深く怒りを外にあらわされることもなかった。ひろく儒教や歴史の書物を読まれ、とくに射芸(弓を射ること)にすぐれておられた。持統天皇の十一年に皇太子にお立ちになった。

文武即位は、文武元(697)年8月1日であり、崩御は慶雲4(707)年6月15日であるから、在位期間はほぼ10年である。
この間に、皇后を立てなかったのはなぜか?
天皇家にとって、血統はもっとも重要なテーマであるにもかかわらず、そして文武即位は持統の宿願であったにもかかわらず、皇后を立てなかったのは大きな謎である。

3.妃をめぐる謎
『続日本紀』の文武元(697)年に以下の文章がある。

八月二十日 藤原朝臣宮子娘(不比等の娘、聖武天皇の母)を、文武天皇の夫人とし、紀朝臣竈門の娘・石川朝臣刀子娘を妃(嬪の誤りか)とした。

和銅6(713)年には、次のようにある。

十一月五日 石川(石川朝臣刀字娘)・紀(紀朝臣竈門娘)の二嬪の呼称を下して、嬪と称することが出来ないことにした(宮子夫人への考慮か)。

この呼称変更の意味は何か? この2人には子供はいなかったのか?

4.名前の謎
文武天皇は、なぜ「軽皇子」と呼ばれたのか?
また諡号の「天真宗豊祖父天皇」の「祖父」とはどういう意味か? 文武天皇は、若くして死んだのではないか?

5.年齢の謎
文武天皇の没年齢について、『懐風藻』、『扶桑略紀』、『水鏡』、『一代要記』、『皇代記』などは、25歳没としているが、『愚管抄』に、次のような文章がある。

諱は軽、十五にして在位、(死去の)御年は二十五あるいは七十八

宮内庁に現存する『帝王系図』には、「白鳳十二年に誕生し、慶雲四年に六十五歳で亡くなった」とする記述があるという。
白鳳という年号についても謎が多く(08年1月12日の項2月20日の項)、白鳳十二年をどの時点とするか疑問であるが、文武天皇の没年齢に高齢説があることは確かである。

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2008年8月18日 (月)

軽皇子の立太子をめぐって

草壁皇子が薨去したとき、軽皇子は7歳だった。
持統は、自らの立場を守るためには、軽皇子への譲位が必須だった。
定説的には、愛息の草壁の血統で皇統を繋ぐため、と理解されているが、『大日本哥道極秘伝書』では、柿本人麻呂との密通事件から身を守るために、他の皇子が皇位に就くことは絶対に避けなければならないことだった。

しかし、軽皇子の立太子が、何の障害もなく進められたというわけではなかった。
そもそも『日本書紀』には、軽皇子の立太子記事が載っていない。
『続日本紀』に、持統11年立太子という記事がある。その時の様子について、『懐風藻』の次の記述が論議の対象となっている。

高市皇子が亡くなると、持統は群臣を集めて皇太子の問題を論議させた。しかし、「衆議粉紜」でなかなか決まらなかったらしい。
その時に、天智の皇子大友の忘れ形見の葛野王が、次のように主張したと『懐風藻』に書かれている(高橋紘、所功『皇位継承 』文春新書(9810)、07年9月11日の項)。

我が国家の法たるや、神代より以来、子孫相承けて天位(皇位)を襲(ツ)げり。もし兄弟相及ぼさば則ち乱これより興らん。……然して人事を以ちて推さば、聖嗣自然に定まれり。この外に誰か敢えて間然せんや。

日本では古来から直系相続が行われており、兄弟相続は争いのもとになる、というような意味である。
実際には古来から兄弟間での天皇位の相続は一般的であり、それについて弓削皇子が葛野王に問いかけようとした矢先、葛野王は弓削皇子を一喝したという。
結果として、弓削皇子も持統天皇の意向を呑み、軽皇子を皇太子とすることが決定した。

ということは、高市皇子存命中は、軽皇子の立太子をテーマにすることさえできなかった、ということである。
持統11年とすれば、持統が正式に皇位に就いてから7年後のことである。
軽皇子の立太子が如何に難しかったかを示しているともいえる。

その間に、持統は驚くべき頻度で吉野行幸を繰り返している。
この吉野行幸については、さまざまな解釈があるが、柿花仄『帋灯猿丸と道鏡』東京経済(0309)では、「吉野に隠棲する「人麻呂の父」の許に相談に駆け込んだ」としている。
その人物、つまり柿本人麻呂の父、とは誰か?

柿花氏の紹介する『大日本哥道極秘伝書』には、次のように記されている。

傳に曰、人丸は文武天皇の御子と云々。哉趣は文武寵愛の軽き女房胎みたるを、軽女房故出雲の国の押領司の右の女房下し給ふなり。(後略)

(中略)人丸文武天皇の王子にて座す。人丸傳の所に記すがごとし。深秘不浅事なり……。

これは不可思議というか不可解なことである。
軽皇子は、草壁崩御時7歳であり、柿本人麻呂の生没年は詳らかではないが、持統の恋の相手とすれば、少なくとも成人はしているはずであり、持統との関係からして、30歳を超える年齢だったと思われる。
その父が文武だとすれば、50歳くらいの年齢を想定しなければならないことになる。

そもそも、草壁と文武の父子関係を疑問視する見方もある(08年2月6日の項)。
持統の名前の由来ともなったという天武-草壁-文武という皇統(持統=皇統の保持)の真実は、どういうことだったのか?
もし、正史が系譜の偽装をしているとしたら、まさに、永躰典男『日本の偽装の原点は古代史にあり』ブイツーソリューション(0705)(07年9月6日の項)ということになる。

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2008年8月17日 (日)

鸕野皇后と草壁の間の隙間風

中院通茂の『大日本哥道極秘伝書』が記すように、持統皇后と柿本人麻呂の間に禁断の恋があったとして、それは宮廷内でどう受け止められていたであろうか?
もちろん、それはタブーに属することであっただろう。
しかし、最高権力者である鸕野皇后である。それを公けに問題視する人もいなかったと思われる。
「見ざる」「言わざる」「聞かざる」の三猿状態だったのではなかろうか。

しかし、一人だけ、鸕野皇后に臆することなく諫言できる人物がいた。
愛息の草壁皇子である。
草壁は、先代の天武から後継者に指名された皇位に就くことが確実な皇子であった。
草壁が鸕野皇后の恋を不愉快に感じたとしたら、人麻呂との関係を断つように進言した可能性は高い。

鸕野皇后は動顚したことだろう。
ライバル大津を粛清して、愛する草壁が皇位に就く障害を除去した。
その草壁が、自分を咎めるとは……。
草壁には虚弱なイメージがつきまとっているが、天武と鸕野の間の子供であれば、それなりに強い性格の持ち主であったと推測される。
成人してからも、いつまでも母の言うなり、というわけではなかっただろう。

草壁は、称制段階の鸕野皇后には、自分が即位するまでの間、朝政を仮に預けているという感覚もあったかも知れない。
しかし、鸕野皇后は、自分が最高権力者であると自認していた。
自らの価値観に異議を唱えられることは、想定外のことだったに違いない。
密着して生きてきた鸕野皇后と草壁の間に、隙間風が吹くことになった。
表沙汰になった鸕野皇后と人麻呂の関係について、敏腕を振るって鎮静化させたのが、藤原不比等であったのではないか、と柿花仄氏は以下のように推測している。

①密通事件の暴露。諸事情から見て、多分持統3(689)年の、元日から1月18日の間の某日に起こったと思われる。
②1月18日~21日にかけて、持統の第一回吉野行幸。
③2月26日。藤原不比等が新任判事に任命される。
④4月13日。草壁皇子薨去。
⑤草壁皇子薨去後、まもなく<黒作懸佩刀>の授受。これで軽皇子即位への布石が敷かれた。
⑥持統の、まるでピンポン玉のような、めまぐるしい吉野行幸の往復が始まった。
⑦翌持統4(690)年正月元旦、持統の即位。年は明けたが、密通発覚から1年も経っていない時期の、しかも不比等邸での、厳戒態勢下の即位であった。

こういう流れの中で、草壁の死を捉えると、とても自然死だったとは思えない。
溺愛していた草壁の死に、鸕野皇后が関与していたのか?
吉野裕子『持統天皇』人文書院(8712)も、鸕野による草壁排除説を唱えており、あり得ないこととは言えない。
もし、それが暗黙裡に宮中に知られたとしたら?
皇太子の草壁ですら鸕野皇后(持統)の意に反したら消されてしまう。
その政治的効果は絶大だっただろう。

もし、草壁の死後、誰か他の候補者(高市皇子など)が皇位に就けばどうなったか?
おそらくは、密通事件により、鸕野皇后の権威は失墜し、不比等の政治生命も絶たれた可能性が高い。
それを防ぐには、軽皇子へ皇統を繋ぐことが必須である。
そのために考案されたのが、<黒作懸佩刀>の授受だとすれば、理解しやすい。
そして、皇位に就いた持統に対して、反旗を翻す人間は皆無となった。

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2008年8月16日 (土)

鸕野皇后(持統)の禁断の恋?

天武天皇が死んだ後、鸕野皇后の称制が3年続いた。
それは、天武の喪が長引いたため、というのが一般的な理解である。
天武の死の直後、草壁皇子のライバル大津皇子を、電光石火の早業で斥けたが、まだ草壁を即位させるような情勢ではなかった、ということだ。
そのため、天武の殯宮を利用して、多くの皇族・群臣に天武の功績を讃えさせ、忠誠心をかき立てたというわけである。
あるいは、草壁が虚弱だったため、天皇の激務に耐えられなかったのではないか、という説もある。
また、砂川恵伸氏は、天武の没年における草壁の年齢を15歳と推定し、即位できなかった理由としている。

これらの説に対して、吉野裕子『持統天皇』人文書院(8712)は、持統による草壁排除説を唱える。
関裕二氏『謎の女帝・持統』ベスト新書(0202)から孫引きする。

大津殺戮の原因は、一子草壁の強敵を仆す意図にあるという免罪符に欺かれて、日本史はかつて鸕野皇后を疑わず、草壁の急逝は単なる急逝とのみ受け取られてきた。
……
皇位継承者として殆ど同じ資格を持つ二人の皇子の相前後しての急死は、何としても不自然である。二人の皇子の死の間には一脈相通ずるものがある。二つの死はその本質を同じくするもので、その背後にあるのは同一人による同一目的の殺人であろう。

つまり、吉野裕子氏は、持統の異常な権力への執念が、二人の皇子を殺めたのだとするわけである。
これに対し、柿花仄『帋灯(しとう)猿丸と道鏡』東京経済(0309)は、大津皇子の排除はともかく、草壁皇子の死について、まったく別の見方を提示している。
それは、驚くべきことに、鸕野皇后(持統)の禁断の恋に起因する、というものである。

中院通茂が『大日本哥道極秘伝書』に書き遺した文章によれば、草壁皇子を溺愛していた鸕野皇后が、草壁皇子を疎むようになったのは、持統3(689)年頃だった。
その原因は、持統が、若き天才歌人・柿本人麻呂と、情熱的な恋に陥ったためである。
持統3年、鸕野皇后の謎の「吉野行幸」が始まり、藤原不比等が判事に任官され、草壁皇子が薨去し、黒作懸佩刀の授受が行われ、翌持統4年1月1日に鸕野皇后は正式に即位する。

『大日本哥道極秘伝書』には、次のように記されているという。

傳に曰 人丸は持統天皇の璽朝に任奉申歌人におはします。
然るに人丸持統天皇と密通の沙汰有りしにより云々。

柿花氏は、それが「古今伝授」を継承した遺文の中にあり、それは次の『古今和歌集』仮名序の紀貫之の文章を端的に説明するものだとする。

……かのおほん時に、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむ、哥のひじりなりける。これはきみもひとも、身をあはせたりといふなるべし……

この〔きみもひとも、身をあはせたり〕の解釈について、多くの学者が悩んできた。
柿花氏によれば、以下のようである。
・北畠親房:君臣合躰の心也
・契沖:君臣合躰して歌の道にあひにあふなり
・窪田空穂:歌の上で、いわゆる君臣合体であった

「君臣合体の心」というのは、曖昧で意味が分かりづらい。
「きみ」が鸕野皇后、「ひと」が人麻呂であると具体化し、「身をあはせたり」をまさに肉体関係ということとすれば、明解は明解である。
しかし、そんなこと、俄かには信じられない、というのが一般的な感想ではなかろうか。

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2008年8月15日 (金)

「古今伝授」と猿丸大夫

柿花仄『帋灯(しとう)猿丸と道鏡』東京経済(0309)によれば、『大日本哥道極秘伝書』には、次のようにあるという。

(一)傳に曰喚子鳥とは孝謙天皇を申奉る也。其大意は孝謙天皇は女帝にて座ス也。其頃宮中に猿丸太夫と申者まします也。
(二)猿丸太夫も元明天皇の御にて座ス事明らか也。

柿花氏は、(一)については、「『喚子鳥』とは、女帝である『孝謙天皇』の別の呼び名(あざな)であること。孝謙天皇の御代の宮中に『猿丸太夫』が生きていたということ」であって、意味は明らかであるが、(二)の「御」の字をどう理解すればいいのか分からない、という。
柿花氏は、上田萬年編『大辞典』啓成社(大正6年版)を参照しつつ、「御=オホン」の読みを抽出し、「太夫」については、以下の解説を引用している。

……大夫 一人、タイフでは、八省の大輔(タイフ)と同じよみであるから、区別して、これは濁音にダイブとよむ。后宮一切の事務を統べ掌る役である。
大夫とは、令義解によれば……

柿花氏は、この解説から、大夫の任務の意味を捉え、以下のように解する。

猿丸は史上初の女性皇太子「阿部内親王(後の孝謙天皇)」の春宮(トウグウ)大夫か、或は、引き続いて「孝謙天皇」の后宮大夫を任ぜられていたのではないか。
もっとも孝謙は女帝で、しかも独身の天皇であったので、后宮大夫と称するのもおかしいのだが、適当な言葉が見つからないので、此処はご勘弁を願うが、〔孝謙付き大夫であったのでは……〕の示唆を、私は受けたのである。

2阿部内親王の立太子は、天平10(738)年のことであった(08年7月1日の項)。
女性の立太子は初めてのことだから、周辺にはさまざまな見方があったであろう。
とすれば、阿倍内親王の春宮大夫は、きわめて重要な政治的な役職だったと考えられる。

猿丸大夫は、元明天皇の「御」であるという。
元明天皇は、天智天皇の第四皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の女の姪娘(メイノイラツメ)である。阿閉皇女といい、持統天皇の異母妹ということになる(系図は、寺沢龍『飛鳥古京・藤原京・平城京の謎 』草思社(0305))。
草壁皇子の妃となり、軽皇子、氷高内親王、吉備内親王を生んだ。
軽皇子は、後の文武天皇、氷高内親王は後の元正天皇である。
まさに「華麗なる一族」である。

持統と元明は、天智の娘として異母姉妹であるが、阿閉皇女が草壁皇子の妃となったことにより、姑と嫁の関係にもなった。
推古・皇極(斉明)・持統は、皇后を経ての即位であるのに比し、元明は皇太子妃という履歴だった。

草壁皇子は、『日本書紀』によれば、持統3(689)年4月13日に薨去する。
しかし、その記述は以下だけで、持統の期待の子にしては余りに素気ない。

乙未皇太子草壁尊薨

草壁の逝去年齢や逝去の事情については、さまざまに推測されている(08年2月5日の項)。

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2008年8月14日 (木)

宇都宮頼綱と牧氏の変

宇都宮頼綱が出家して蓮生入道を名乗ったのは、元久2(1205)年のことで、この時頼綱はまだ33歳だった。
下野を支配していた頼綱の祖父の朝綱は、伊豆で挙兵した源頼朝に加勢し、鎌倉幕府の重鎮となった。頼綱の父は早世し、祖父の地位が頼綱に引き継がれた。
頼綱の「頼」は頼朝から一字を頂いたものといわれる。

そして、北条時政と「牧の方」の間に生まれた娘と結婚し、順風満帆といった気運だったはずである。
それが出家せざるを得なくなったのは、「牧氏の変」が起きたためである。
元久2(1205)年、鎌倉幕府内では、頼朝も頼家も没していて、三代将軍に実朝が就いていた。
頼綱は、33歳にして、頼朝、頼家、実朝に仕えたわけである。

北条氏が単なる土着の豪族に過ぎなかったのか、貴族と繋がりを持っていたのかは別として、娘の政子が頼朝と結婚したことが、時政の権力の大きな後ろ盾であったことは間違いない。
頼朝亡き後は、将軍家の外戚としての立場を利用して権力の確立を図った。
時政が畠山重忠・重保父子を謀反の疑いで滅ぼし、その勢いで将軍実朝も排除して、女婿の平賀朝雅を将軍職につけようと図った。
しかし、直前に発覚して、政子は実朝を義時邸に移して事なきを得る。
「牧氏の変」と呼ばれるように、時政の後妻の「牧の方」が唆したものだとされる。

時政と「牧の方」は伊豆に流され、執権職は北条義時に移り、義時が平賀朝雅を討って、将軍暗殺未遂事件は一件落着した。
このとき、宇都宮頼綱に陰謀関与の疑いが懸けられた。
頼綱の妻は、時政と「牧の方」との間の息女だから、平賀朝雅と同じ立場で、時政に加担するであろうと推認されたわけである。

頼綱は執権の北条義時宛に書状を認め、鎌倉からは小山朝政が事情聴取のために派遣された。
宇都宮家と小山家は親しい姻戚関係にあったこともあり(08年7月30日の項)、「謀反の兆しなし」との報告で、頼綱は助かった。
頼綱が一族郎党60人とともに出家したのは、恭順の意を示すためだった。

出家した頼綱は京へ入り、頼綱の子の泰綱はお咎めを免れて、宇都宮家は存続しえた。
頼朝の息のかかった御家人たち、梶原景時・比企能員・畠山重忠・稲毛重成などが、粛清されて消えていったことに比べれば幸運だったということになるが、それも頼綱の的確・迅速な判断の結果である。

京に入って、頼綱は定家と親交を結び、それが「百人一首」を生むことになった(08年7月31日の項)。
頼綱は、自分の妻が北条時政の息女で、それが波乱を招いたことも影響しているのか、自分の娘の結婚相手は、公家から選んだ。定家の長男の為家である。
逆に見れば、定家は、息子を尼将軍政子と執権義時の姪と結婚させたということになる。

後堀河天皇の勅命によって定家が撰進した『新勅撰和歌集』には、実朝の歌が35首入っている。
実朝は、定家の弟子の中でも傑出した歌人だった。
蓮生法師こと宇都宮頼綱の歌も撰ばれていて、宇都宮家の歴史を思い浮かべられる趣向になっていることは既に述べた(08年7月31日の項)。
『新勅撰和歌集』の成立が文暦2(1235)年3月で、「百人一首」の完成が同年5月である。
時に、定家74歳だった。

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2008年8月13日 (水)

牧の方

「百人一首」が、宇都宮頼綱と藤原定家との交流の産物であることは既に書いた(08年7月30日の項7月31日の項)。
3宇都宮頼綱の妻は、北条時政と「牧の方」の娘である。
「牧の方」は生没年不詳であるが、鎌倉時代初期の女傑だった。
「牧の方」は、WIKIPEDIA(08年6月23日最終更新)によれば、以下のような人物である。

牧の方(まきのかた、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府の初代執権・北条時政の後妻。政範の生母。牧宗親の娘とも、妹とも言われている。
夫・時政とはかなり年齢が離れていたが、その仲は睦まじかったと言われている。元久
2年(1205年)6月、時政による畠山重忠・畠山重保殺害事件が起こったが、これは娘婿に当たる平賀朝雅が重保のことを牧の方に讒言し、それを聞いた牧の方が時政に讒訴したためであると言われている。さらに同年7月、彼女は時政と共謀して源実朝を殺害し、さらに娘婿の朝雅を新将軍として擁することで幕政の実権を掌握しようと計画した。しかし、この計画を知った北条政子・北条義時姉弟による反撃を受けて、7月20日に時政と共に出家し、その後、義時の手によって伊豆国に幽閉された(牧氏事件)。
没年は詳しく分かっていないが、嘉禄
3(1227)年に夫・時政の13回忌を行なっているため、少なくともこの前後までは生きていたと思われる。

「牧の方」の「牧」は、大岡牧に由来するとされる。
大岡牧は、駿河国にあり、現在の静岡県沼津市の市街地から、大岡・岡宮辺を中心に、裾野市桃園・大畑付近に至る黄瀬川右岸の愛鷹山東南麓一帯に広がっていた。
現在も愛鷹牛という全国肉用牛枝肉共励会で最優秀賞を受賞したブランド牛肉があるが、大岡牧の名残であろうか。

この「牧の方」の出自については、従来東国の在地領主の娘というのが定説だったが、沼津出身の杉橋隆夫立命館大学教授によって、池禅尼の姪という説が立てられ、定説化している。
池禅尼は、平清盛の義母であり、頼盛の生母であり、その姪であるとすると、「牧の方」の実家は、下級ながらも上皇の側近くに仕える貴族ということになる。

杉橋教授によれば、「牧の方」の政治的基盤は京都にあり、北条時政との関係も平治の乱(平治元(1159)年~)以前に遡る可能性がある。
平治の乱の敗戦によって、源頼朝が伊豆国に配流されたのも、池禅尼-牧の方-北条時政という人脈で理解することが必要だとする。
頼朝は、池禅尼の姪の婿の時政の監視下にあった、というわけである。

しかし、時政と「牧の方」の間には、1189年生まれという政範という息子がいる。
この生年は、平治の乱が生起した1159年の30年後だから、時政と「牧の方」の婚姻を平治の乱以前とすると、「牧の方」の出産年齢が40歳以上という高齢になって、非現実的ではないか、という意見もある。

WIKIPEDIAで、「牧の方」が牧宗親の妹とも娘ともいう、としているのは、『吾妻鏡』では宗親を兄、『愚管抄』では宗親を父としているからである。
鎌倉時代初期に成立した作者不詳の『閑谷集』という歌集がある。
この作者について、浅見和彦氏が、牧四郎国親の息男とする説を立てている。
http://library.tsurumi-u.ac.jp/library/tenji/20050527_106th/tenjiwakatogunki.html
牧四郎国親は、牧三郎宗親の弟だと考えられるから、『閑谷集』の作者は、宗親の甥ということになり、「牧の方」にとっては、従弟ということになる。

『閑谷集』の作者は、文治元(1185)年から駿河国大畑に庵を結んだとされる。
大畑は大岡牧の中の地名であり、現在も裾野市大畑という地名がある。
黄瀬川にある「五竜の滝」という瀑布の近くである。

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2008年8月12日 (火)

藤原公任

定家が「百人一首」に撰んだ猿丸大夫は、藤原公任の「三十六人撰」にも撰ばれている。
公任は、康和3(966)年に生まれた。藤原道長と同年の誕生である。
2人は共に藤原忠平の曾孫で、お互いに補い合って共存した。
公任は文化面で、道長は政治の運営において、大きな力を発揮した。
この2人の下で、華やかな宮廷文化が開花した、ということができる。

『大鏡』に次のようなエピソードが記されている。
道長が大堰川に漢詩の舟、管絃の舟、和歌の舟を出し、それぞれの分野の名人を乗せた際、乗る舟を尋ねられた公任は和歌の舟を選び、「小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦きぬ人ぞなき」と詠んで賞賛された。
ところが公任は、漢詩の舟を選んでおけば、もっと名声が上がったはずだと悔やみ、道長に舟を選べと言われたときに、すべての分野で認められているとうぬぼれてしまったと述懐した。
三船の才ともいう。

つまり、公任は、漢詩にも和歌にも豊富な知識を有しており、それが『和漢朗詠集』の編纂ということになる。
朗詠するのに相応しい漢詩588句と和歌216首を撰んだものである。
1012年頃の成立とされるから、『古今和歌集』の成立からおよそ1世紀後のことである。

公任は、「百人一首」にも撰ばれている。

55 滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ

この歌は、必ずしも公任の代表歌とはされていない。
しかし、「百人一首」に入れるということは、それなりの意味を持っているはずである。
定家は、なぜ、この歌を選んだのか?
柿花仄『帋灯(しとう)猿丸と道鏡』東京経済(0309)は、この事情を次のように推測している。

「瀧」の字を調べると、「袁水の名」とある。「袁(エン)」の音を持つ字は、袁、遠、猿……
「音」の字は、声・響・楽・伝言等の意味……
つまり、「滝の音」は、「猿の便り」「猿の伝言」と解することができる。

猿の声絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ

いささかこじつけが過ぎるような気がするが、そう解釈できないこともない、ということだうか。
定家は、「三十六人撰」で猿丸大夫の存在をめた公任を前提としつつ、この公任の歌を「百人一首」に撰歌することによって、猿丸大夫の存在証明としようとしたのではないか?
柿花氏は、そう推論する。

そして、もう一人、猿丸大夫に言及しているのが、『古今和歌集』仮名序の紀貫之である。

大友黒主之歌古猿丸大夫之次也

「次」の字は、歌のレベルが猿丸大夫の次だという解釈と、猿丸大夫の歌風を次いでいるという解釈が可能である。
大友黒主は、紀貫之が、「近き世にその名きこえたる人」として挙げた6人のうちの1人である。
6人とは、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主で、いわゆる「六歌仙」である。
この中で、黒主だけが「百人一首」に撰ばれていない。
「百人一首」に、猿丸大夫が撰ばれて、大友黒主が撰ばれていないということは、定家は、黒主の歌のレベルは猿丸の次だと位置づけたのだろうか。

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2008年8月11日 (月)

「古今伝授」の一端

「古今伝授」では、何が秘説として伝授されたのか?
柿花仄という人が、中院通茂が伝える二条家歌道の秘伝書という『大日本哥道極秘伝書』を紹介している。『帋灯柿本人磨呂 』東京経済(0008)と、『帋灯猿丸と道鏡』東京経済(0309)の2書である。
そこには、一般に言われているように、三木・三鳥というようなことではなく、驚くべき内容のことが紹介されている。

柿花氏によれば、『大日本哥道極秘伝書』と題された手書きの本がある。中院通茂が後世に残したもので、50枚の上質の奉書紙を二つ折り折にして和綴じ仕立てにしたものである。
奥書に、中院中納言通茂の伝来切紙から取添えた二条家歌道の深秘である旨が記されているという。
上記書には、『極秘伝書』のカラー写真が添えられている。

この『極秘伝書』の性格について、私が云々するような立場にないし、能力もない。
あるいは真っ赤な贋作なのかも知れない。
しかし、そこに記されているとされることは、古代史ファンにとって、大いに関心をそそられるものであることは間違いない。

中院通茂とはいかなる人物か?
中院家は、代々歌学をおさめ、「古今伝授」に深く係わったとされる。
通茂は、宝永7(1710)年3月21日に、80歳で薨じた。
略系譜を示せば以下の通りである。
-中院通勝-通村-通純-通茂(ミチモチ)-通躬-通藤-

三条西実枝から古今伝授を相伝された細川幽斎が、丹後田辺城で西軍に包囲され、討死を覚悟したとき、後陽成天皇が勅命をもって開城させ、幽斎の命を救ったという。
幽斎の学才と「古今伝授」の内容が失われることを惜しんだための異例の勅令だとされる。
通茂の曽祖父の中院通勝は、天皇の傍らで、この救出劇に関与した人物だという。
「古今伝授」にひときわ強い関心を持った後陽成天皇、後水尾天皇の下で、中院家は歌学の権威として信任されていた。

承応2(1653)年の2月29日に、通茂の祖父の通村が亡くなると、後を追うように父・通純が、4月8日に他界した。
通茂が一人残されるが、通茂はまだ「古今伝授」を相伝されていなかった。
寛文4(1664)年に、通茂は、後西上皇と共に、後水尾法皇から「古今伝授」を相伝された。

『大日本哥道極秘伝書』が上梓されたのは享保元年で、このとき、中院家の当主は通躬である。
口伝は、秘密を守ることができるが、人が死んでしまえば断絶する。文書化すれば、秘伝がオープンになって秘伝ではなくなってしまうリスクが生ずる。
通躬が、このリスクを冒して文書化したのは、死による断絶を恐れたからであろう。
享保元年は、通躬にとって50歳という節目の年だったが、父・通茂の7回忌と嫡男・通藤の3回忌が営まれた年でもあった。

特に、中院家の自分の跡を継ぐべき通藤の死は、通躬に相伝の不安を増幅させたものと思われる。
文書化しておくといっても、広く世間に問うためではなく、二条家歌学を一門の中で伝えるためであったはずである。
しかし、文書化したことによって外部に流出し、それが開示されることになる。
柿花仄氏がどのような経緯でこの『極秘伝書』を入手したかは詳らかではないが、通躬が文書化してくれたことにより、「古今伝授」の内容とされていることの一端が、私たちの目に触れ得ることになった。

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2008年8月10日 (日)

飯尾宗祇の墓と裾野市・定輪寺

先の秋葉原通り魔事件の犯人は、静岡県裾野市在住の派遣労働者であった。
一部には、この犯人をヒーロー扱いしたがる心理もあるようであるが(08年6月22日の項)、私は、派遣労働者の労働条件にどんな問題があったとしても、この事件が免罪されるものではないと考える。
まあ、改めて言うまでもないことではあろうが。

その犯人が住んでいた場所と隣接して、桃園という魅惑的な名前の地域がある。
かつては定輪寺村と呼ばれていたこともあったようで、曹洞宗の古刹・定輪寺があって、そこに飯尾宗祇の墓Photoがあり、『三島千句』の発句「なべて世の風を治めよ神の春」の句碑が建てられている。

宗祇は諸国をめぐって連歌の普及に功を残したとされ、1502年に、弟子の宗長らを伴って、越後国府(直江津)から美濃に向かう旅の途中で発病し、箱根湯本で没した。享年82歳だったというから、かなり長寿ということになる。
宗祇の遺骸は、宗長らの担ぐ輿に乗せられて、裾野まで運ばれ、定輪寺に葬られたと伝えられている。

桃園地区の入り口にあたる場所に、宗祇の代表句の1つとされる次の句碑が建っている。

          世にふるはさらに時雨の宿りかな

この句は、宗祇を敬慕していた芭蕉が次の句を詠んだことで有名になった。

世にふるもさらに宗祇の宿りかな

芭蕉忌を時雨忌ともいうように、芭蕉には時雨の句が多い。
宗祇も芭蕉も漂泊の人だったから、旅先で時雨にあうこともしばしばだったのだろう。
『奥の細道』の序文中の「古人も多く旅に死せるあり」という文章の「古人」は、単にいにしえの人ということではなく、西行や宗祇のことを意識していたとされる。

2001年は、宗祇没後500年という節目の年だったから、裾野市では2000年から2001年にかけて、「宗祇五○○年祭」が行われた。
関連資料は、『宗祇五○○年祭記念資料集』裾野市宗祇法師遺跡保存会/宗祇五○○年祭実行委員会(2001)として取りまとめられている。
因みに、裾野市の人たちは、宗祇法師などと形式張らずに、「宗祇さん」というように親しみを込めて呼んでいる。

宗祇は、連歌という文芸の形式の確立者として位置づけられている。
「連歌」は、日本の詩の歴史の中で、古代和歌から派生し、近世の俳諧の基となった。
五七五と七七を繋げていく形式である。
五七五と七七を、多くの場合複数の人が交互に詠んだ。
つまり、他人の句を受けて自分の句を作るわけであり、複数人の共同制作として作品が成立する。
一種のコミュニケーション・ゲームとしてみることもでき、「座の文芸」と呼ばれる所以である。
上記の資料集では、連歌のことを、「平和を紡ぐ糸」と表現している。

文芸史上の宗祇の位置づけに関しては、さまざまな見方があるが、吉本隆明氏は、『抒情の論理』未来社(5906)所収の『宗祇論』において、次のように書いている。

永享十一年(一四三九)、足利義政は、幕府の威信を回復しようとして、関東管領を滅ぼし、さらに播磨の守護職、赤松満祐の所領を没収しようとしてかえって満祐に暗殺された。管領、細川持之は、山名持豊に命じて満祐を討たせた。このいわゆる「嘉吉の乱」は、宗祇二十一歳のときであり、これにより幕府の威勢は諸国の豪族を制止得ず、「応仁の乱」にいたったのは、宗祇五十歳前後の頃であった。
いわば、幕府政権の衰亡と、豪族の割拠と、町座を中心とする町人階級の興隆する萌しとは、宗祇が眼のあたりに眺めた現実社会の変遷であった。このような時代背景の中で、宗祇は、徹頭徹尾、時代的詩人であった。武家階級と庶民とのあいだにおける連歌の流行を、よく意識的に集大成して、短歌形式の自然発生的な破壊を目的意識的な破壊にまで導き、また、一方では貴族連歌の式目的な因習を破壊するのに、仏法の心観を導入してみせた。

どういうことか?
宗祇は、五七五七七という短歌形式の句切りを破壊することによって、長句(五七五)と短句(七七)をそれぞれ独立的な詩形として自立させ、しかも両句が合して複雑な付け合いの効果を出すところに、連歌の本質を定めた。
それが、のちに発句が俳句として独立した文芸として発展する要因でもあった、ということになる。

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2008年8月 9日 (土)

「古今伝授のまち三島」と飯尾宗祇

三島の市内には、JR三島駅前の交差点付近を始めとして、何箇所かに「古今伝授のまち三島」という標識が立っている。
三島市が標榜している「古今伝授」とは何か?
「古今伝授」は、『古今(和歌)集』の解釈についての秘伝を、師から弟子へ後世に伝えたものといわれる。
文明3(1471)年、三島で、東常縁(トウノツネヨリ)から、飯尾宗祇に伝授されたのが、形式化された初めだとされており、それで三島市は、「古今伝授のまち」をウリにしているわけである。
古今伝授を受けるには、一切他言しないことが条件だとされ、弟子は師に対して、誓状を提出しなければならなかったという。

『古今集』は、最初の勅撰和歌集として、醍醐天皇の命により編纂され、延喜5(905年に成立した。
平安朝文学の典型として、歌をつくるための手本とされてきたが、成立後100年以上も経つと、歌の本文や解釈について、さまざまな疑義が生じてきた。
それに対し、各人各派の注釈が行われるようになった。

東常縁は、藤原定家より御子左(ミコヒダリ)家(俊成・定家の父子により確立された師範の家筋:醍醐天皇皇子左大臣源兼明の邸宅を伝領したことに由来)の歌学を教授されると共に、正徹や尭孝などの歌人に学んだ。
切り紙による伝授方式を取り入れて宗祇に伝授したとされ、その切り紙方式によって、「古今伝授」が確立したという。

「古今伝授」の内容は、『古今集』の歌の解釈と、「三木三鳥」などの秘説を授けることだという。
三木とは、「おがたまの木」「めどに削り花」「「河菜草」、三鳥とは、「よぶこどり」「ももちどり」「いなおほせどり」のことだという。
しかし、そんなことが秘伝になるだろうか?

「古今伝授」については、次のような逸話が知られている。
宗祇から三条西実隆に伝えられた「古今伝授」は、さらに三条西家の中で、公条から実枝に受け継がれるが、実枝が世を去ったとき、嫡子の実条がまだ幼少だったため、弟子の細川幽斎が一時預かるということになった。
その幽斎が、石田三成の軍勢に囲まれて討死を覚悟したとき、それを知った後陽成天皇が、勅使を派遣して和議を講じさせた。
幽斎の討死により「古今伝授」が断絶してしまうことを恐れたためだという。
つまり、「古今伝授」の内容は、そのような重みを持っていたということである。
とても、三木・三鳥が何を指しているか、というようなことだけとは思えない。

飯尾宗祇は、室町後期の連歌師で、連歌を全国に広めた。
今日の俳句は、この連歌の発句が独立したもので、芭蕉も宗祇を敬慕していた。
宗祇は漂泊の歌人ともいわれるように、全国を旅し、『白河紀行』などの著作がある。
東常縁から宗祇への「古今伝授」は、文明3(1471)年、正月28日から4月8日までと、同年6月12日から7月25日まで、2回にわたって行われたという。
このうちの少なくとも初回は、三島で行われたものとされる。

三島滞在中の3月27日、東常縁の息子の竹一丸の病気平癒を祈願して、『三島千句』を三嶋大社に奉納した。
この頃、関東の古河公方が韮山の堀越公方に攻撃を仕掛けていて、東常縁は、三島に陣を張っていた。
『三島千句』の発句は次の句である。

なべて世の風を治めよ神の春

単なる病気平癒の祈願というだけでなく、戦乱の世に対して平和の到来を願った意味もあったように思われる。

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2008年8月 8日 (金)

2年目を迎えて

「知れば知るほど、知らないことが増える」というパラドックスのような現象がある。
一般に、新しく何かを知るということは、未知の部分を減らす、というように考えられるだろう。
しかし、「知らない」ということを意識できるのは、知っていることの限界が意識されているからである。
世の中の事象を、際限のない大海に例えれば、知っていることというのは、その大海に浮かぶ小島に過ぎない。

われわれが「未知」であることを意識できるのは、その小島の海岸線ではないか。
「既知」の外側には広大な「未知」の海が広がっているのだが、それを意識の対象とすることは難しい。
全く知らないことについて、「何でもいいから分からないことは質問して」と言われても、「何を質問していいか分からない」というような体験は、多くの人が共通に持っていることだろう。

万有引力や微積分法を発見し、古典力学を完成したニュートンは、いうまでもなく人類史上の至宝ともいうべき知識人である。
そのニュートンですら(であればこそ)、次のような言葉を残している。

I was like a boy playing on the sea-shore, and diverting myself now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay undiscoverd before me.
発見されないままで拡がっている真理の大海、それを前にして、私は浜辺で、より美しい貝殻や、より滑らかな小石をあちこちさがして楽しんでいる子供のようなものだ。

blogs.yahoo.co.jp/tobetobetigers/52618191.html

ニュートンのこの言葉は、「より多く知っている人は、自分がいかに知らないかということを知っている」という真理を示した言葉であ2る。
自分が知らないことがある、という自覚(=問題意識)こそ、探究心を動かすエンジンということでもあろう。

ところで、新しく何かについて知るということは、この既知の小島の領域が拡大することである(図A→図B)。
つまり島の面積が広がるわけであるが、そうすると、当然海岸線も延伸することになる。
つまり、「未知」を意識するゾーンが拡大するというわけで、「知れば知るほど、知らないことが増える」というのは、こういうようなメカニズムではないかと考えられる。
つまり、好奇心は自己増殖するということだ。
その結果として、部屋に情報源(主として書籍)が氾濫し、家族からは白い目を向けられる。

このブログを始めてから、ちょうど満1年間が過ぎた。
当初は、書く材料が続くだろうかということが心配だった。
私の場合、新しく仕入れた認識を書きとどめておこう、というようなことが多い。
言ってみれば、まあどうしても世の中に広く訴求しようということがあるわけでもないので、書くことが無ければ書かなければいいのだけの話でもある。
それにしても有り難いことに、続けてきた結果、アクセス数が少しずつではあるが増えてきている。
もちろん、まだまだあまたあるブログの中で、ロングテールの端に位置していることに変わりはないが。

新しく仕入れた認識とは、要するに、「未知」だったことが「既知」に変わったということである。
そして、1年間経ってみて実感するのは、上記のパラドックスである。
つまり、私にとって「未知」を意識することが急速に増えている、という感覚である。

「知れば知るほど、知らないことが増える」ということが実感だとすれば、予感としては、「量の質への転化」が起こるのではないか、という期待感がある。
1つの情報があたかも自律的に運動するかのように、他の情報と不思議な繋がり方をする。
つまり、自分としてはまったく関連性があると思っていなかった2つの事象が、結果的に結びついてくることがある。
例えば、「多賀城炎上(07年9月29日の項)」と「猿丸大夫の正体(08年8月7日の項」)とは、もともと全く別のベクトルの関心事だった。
情報は情報と結びつくことによって、新しい情報を生み出すといわれる。

そして、上記の実感と予感を合わせたことかも知れないが、改めて、事象は多面的に見る必要がある、ということを感じている。
「呰麻呂反乱の真相(07年10月3日の項)」においては、藤原百川は権謀術策の人のように思える。
しかし、「猿丸大夫の正体(08年8月7日の項」においては、死の直前にかつて奥州の地で契った女房と生まれた子供を貴族に列するように取り計らう。
もちろんエゴでもあるのだろうが、まあ人情の現れと見るべきだろう。
百川の人物像も、もっと立体的に捉えなければならないということだ。
新しい「量の質への転化」を密かに楽しみにしている。

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2008年8月 7日 (木)

猿丸大夫の正体

藤原百川は、宝亀10(779)年、従三位式部卿兼中衛大将で没する。
この年の春のことである。
2月2日に、久米連真上が、外従五位下の官位を得て、2月23日に下野介に任命される。
3月16日に、久米連形名女が、無位から従五位下の官位を得る。

『続日本紀』に登場する久米連は、わずかに4人に過ぎない。
宇合の妻で百川の母の久米連若女。若女の父(つまり、宇合の義父であり、百川の祖父)の久米連奈保麻呂。
そして、百川の死の直前に、久米連真上と形名女の2人が「あわただしく」登場する。

この事情を、三好正文『猿丸大夫は実在した!!―百人一首と猿丸大夫の歴史学』は、次のように推測する。
死期を悟った百川は、奥州(東国)の祖父・久米連奈保麻呂の屋敷で契った女房とその女房がもうけた男子を都に呼び寄せ、貴族に列するよう取りはからった。
天皇は、若女・百川の尽力で即位した光仁天皇だった。
奥州から母子が上京し、病床の百川と対面する。
「奥州の女房」の名が、久米連形名女で、男子の名が、久米連真上である。真上は、宇合以来、勢力を築いてきた下野介に就任した。

つまり、三好氏の推論は、「朝日長者屋敷の女房」=久米連形名女であり、「猿丸大夫」=久米連真上である。
猿丸大夫は、本名で、正史である『続日本紀』に登場していた!

『日光山並当社縁起』の猿丸大夫は、奥州で育ち、下野国の日光山の神主となる。
久米連真上も、下野介に就任する。
「真上」=「真神」と考えれば、「真神」は「狼の古語」であって、蝦夷の地で育ち、「日本一の弓の名人」となった猿丸大夫に相応しい。

真上は、下野介を2年務めた後、大和介に就任する。
宇合と久米連若女の孫・百川の子の真上は、都人の大いなる注目を集めたに違いない。
都で歌人として彗星のようにデビューした真上は、1年後に姿を消す。
真上が大和介の『続日本紀』にあったのは、781~782年のことである。
「百人一首」がほぼ年代順に配置されていることを考えると、猿丸大夫の作歌年代は、山部赤人と大伴家持の間ということになる。

山部赤人の作歌年代は、724~736年であり、大伴家持の生涯は718~785年で、732年ころから作歌を始めたとされる(08年7月11日の項)。
とすると、猿丸大夫の作歌期間は、724~785年の間ということになり、大和介在任はこの期間に含まれている。
しかも、猿丸大夫の歌風は、奥州育ちの武人らしく骨太で素朴であり、『万葉集』のいわゆる「ますらおぶり」を思わせるものだったと言えるだろう。

異形の歌人・久米連真上に、その風貌からして、都人は「猿丸大夫」の愛称を冠した。
突然に出現し、忽然と姿を消した「猿丸大夫」は、やがて伝説の人となる。「謎の歌人・猿丸大夫」である。
『万葉集』最後の作品は、天平宝字3(759)年正月の大伴家持の作品である(08年6月6日の項)。
つまり、781~782年が作歌期間と考えられる久米連真上=猿丸大夫は、『万葉集』に間に合わなかった。

三好氏は、久米連真上が、下野介・大和介共に任期半ばで離任していることに注目する。
その頃、陸奥の国では蝦夷の反乱が再発していた。
宝亀11(780)年3月23日、伊治公呰麻呂が反乱を起こし、按察使・紀朝臣臣広純を殺害し、多賀城を焼き討ちした。
この事件の経緯と謎については、07年9月29日の項(多賀城炎上)、9月30日の項(紀広純)、10月1日の項(歴史の転回点)、10月2日の項(事件の謎)、10月3日の項(呰麻呂反乱の真相)で触れた。

下野介・久米連真上は、この事件に精力的に対応したものと想定される。
介の上司の守は、下野に赴任していないので、真上が下野国の統治責任者だった。
そして、天応元(781)年4月3日、皇太子山部王が即位する。桓武天皇である。
4月8日に、桓武天皇による人事が発表され、久米連真上は大和介に任ぜられる。

延暦元(782)年6月17日には、大伴家持が、陸奥按察使・鎮守将軍兼任が発令され、6月20日には、尾張連豊人が大和介に任ぜられる。
久米連真上は、1年2か月で大和介を離任するが、真上も家持に同道するか、下野に帰国して家持をサポートしたものと推測される。

奥州の対蝦夷戦は、はかばかしい戦果を挙げ得ない。
桓武天皇は、「健児の制」を実施した。
WIKIPEDIA(05年8月31日最終更新)では、「健児の制」について、次のように解説している。

桓武天皇は、延暦11年6月(792年)、陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除く諸国の軍団・兵士を廃止し、代わって健児の制を布いた。この時の健児は天平宝字6年と同様、郡司の子弟と百姓のうち弓馬に秀でた者を選抜することとしており、従前からの健児制を全国に拡大したものといえる。これにより、百姓らの兵役の負担はほぼ解消されることとなった。
なお、軍団・兵士が廃止されなかった地域、すなわち、佐渡・西海道では海外諸国の潜在的な脅威が存在していたし、陸奥・出羽では対蝦夷戦争が継続していた。これらの地域では従前の軍制を維持する必要があったため、軍制の軽量化といえる健児制は導入されなかったのである。

そして、桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命する。
田村麻呂は、征討に際し、日光山に立ち寄り戦勝祈願をしている。
当然、日光山神主の久米連真上に支援を依頼し、その結果田村麻呂は蝦夷制圧に成功し、アテルイを伴って都に凱旋する。

伊治公呰麻呂の反乱事件に触れたのは、この事件の不審点(謎)について解説した、浅野恭平『謎の反乱』地産出版(7606)の面白さを紹介したいということが理由だった。
それが、猿丸大夫の「謎」にリンクしているとは、というのが正直な感想であり、ここにも「偶然か? それとも……」という不思議な縁を感じてしまう。

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2008年8月 6日 (水)

藤原式家と桓武天皇

久米連若女は、宇合に迎えられ、都で生活するようになり、雄田麻呂(後の百川)が生まれる。
父の宇合が、天然痘に罹患して、43歳で急逝したのは、天平9年8月5日のことであった(08年6月23日の項)。このとき、雄田麻呂はまだ5歳だった。
そして、天平11年3月28日条には、以下のような記事がある。

石上朝臣乙麻呂は、女官の久米連若女を犯したという罪に関わって、土佐国に配流され、若女も下総国に流された。

当時の律令は、夫に先立たれた妻は、2年間新たな男性と性的な関係を持ったり、再婚するのは許されない、と規定していた。
確かに、2年に満ちていないから、若女の流罪は当然ということになる。
しかし、この事件の背景には、さらに深い事情があったのではないか、と三好正文氏は推測する(『猿丸大夫は実在した!!―百人一首と猿丸大夫の歴史学』)。

常陸国の久米連若女にとって、配流先の下総は、故郷に近い場所であった。
天平12年6月15日、大赦が勅される。
久米連若女も、「流罪地から召して京に入らせた」。しかし、石上乙麻呂は「赦の中に入れない」とされた。
この直後の8月29日には、藤原広嗣が「表をたてまつって、時の政治の得失を指摘し」、9月3日には、広嗣は「ついに兵を動かして反乱した」(08年6月26日の項)。

こうした時代背景を基に、三好氏は、この不倫事件は、石上乙麻呂排除の「謀略事件」だったのではないか、と推測する。
乙麻呂は、広嗣支援に動いていた可能性が高い。宇合の二男・良継(宿奈麻呂)や四男・田麻呂は、広嗣に連座している。
橘諸兄政権の側は、藤原氏の分断と石上氏の軍事力を封じ、併せて若女の父・久米連奈保麻呂の協力を取り付けるために、事件を仕組んだのではないか?

2_2雄田麻呂は、大宰帥への就任を機会に、中国風の「百川」を名乗るようになる。
この「百川」についても、三好氏は面白い推論をしている。
つまり、「百」は「白」を越えているという意味である(言い換えれば、「白」は「百」の手前:白寿など)。
奥州の入り口は「白河」であり、それを越えた奥州の出身だから「百川」。

百川は、光仁・桓武と続く天智系への皇統の転換の立役者として位置づけられている。
天智系天皇の実現には、後宮勢力が大きな力を発揮したといわれ、久米連若女は、後宮の要職にあった。
若女と百川の母子は、協力して桓武天皇の実現を図ったのであろう。
長岡京遷都の責任者の藤原種継は、宇合の孫(清成の子)であり、皇后の乙牟漏も良継の娘で宇合の孫であるし、夫人の旅子も百川の娘で宇合の孫であった。
また、桓武天皇のブレーンの緒嗣も百川の子で宇合の孫である。
宇合を開祖とする式家の総力を挙げて支援したのが桓武天皇だった。

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2008年8月 5日 (火)

馬頭御前と藤原百川

有宇中将=藤原宇合が成立するとすれば、有宇中将の子供の「中納言・馬頭御前」は誰をモデルにしているか?
「長屋王の変」の後、藤原不比等の4人の子供が実権を担う「藤原四子政権」の時代となるが、遣新羅使がもたらした疫瘡=天然痘により、四子が次々に亡くなってしまう(08年6月23日の項)。
四子の子供たちは、態勢立て直しを図るが、宇合の子どもとして名前が挙がるのは、次の6人である。
・広嗣
・良継(宿奈麻呂)
・清成
・田麻呂
・百川(雄田麻呂)
・蔵下麻呂

三好正文『猿丸大夫は実在した!!―百人一首と猿丸大夫の歴史学!!』創風社出版(0010)は、「中納言・馬頭御前」の条件を以下のように整理する。
①中納言の職に就任しているか、該当する官位「従三位」の位を得ていること。
②母親が奥州の豪族の娘であること(「ものがたりでは「朝日姫君)
③「馬頭御前」という名前からして、軍事的な指導者の実績を持つと共に、「中納言」の官職に就いていることから、文官としての実績にも秀でていること。武官→文官という順序ならば、最も望ましい。
④奥州の女房との間に「猿丸大夫」をもうけるのだから、奥州あるいは東国に赴任した履歴を持つこと。

2これらの条件に宇合の息子たちを当てはめると、表のようになる。
この表からすると、「中納言・馬頭御前」に該当する条件をすべてクリヤしているのは、藤原百川ということになる。
なお、百川の本名「雄田麻呂」は、陸奥国小田郡との関係を連想させる。
陸奥国小田郡は、大伴家持の「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌一首並に短歌」(18-4094~4097)で知られる、廬舎那仏造顕にとって重要な金が産出した場所である。

有宇中将=藤原宇合、中納言・馬頭御前=藤原百川とすると、「朝日長者」、「朝日姫君」、「朝日長者屋敷の女房」さらには「猿丸大夫」に該当する人物が、『続日本紀』のような史料に登場しているであろうか?
百川の母は、久米連奈保麻呂女・若女である。つまり「朝日長者」は、久米連奈保麻呂ということになる。
久米氏は、物部氏や大伴氏と並んで、「みつみつし 久米の子等……撃ちてし止まむ」の久米歌で知られるように、天皇家あるいは朝廷の軍事を担当した氏族として有名である。

『万葉集』に藤原宇合に因んだ歌がある。

藤原宇合大夫、遷任(メ)されて京に上る時、常陸娘子の贈る歌一首。
庭に立つ麻手刈り干し布さらす 東女を忘れたまふな (4-0521)

三好氏は、『常陸国風土記』の中に、次のようなヒントを見出す。
なお、『常陸国風土記』は、若き国守だった宇合が自ら編集・執筆したものとされる。
①久慈郡に、藤原鎌足の封戸が存在する。
鎌足の祖・中臣氏は、常陸国鹿島神社の神官であったとされ、常陸国と関係が深い。

②久米大夫の名前が登場する。
「助川の駅家あり。昔遇鹿と号く。……。国宰、久米の大夫の時に至り、河に鮭を取るが為に、改めて助川と名づく」。つまり、久慈郡に、在地豪族の久米氏が存在し、ある時期に常陸国の国守を務めたと考えられる。

③助川は、陸奥への入り口である。
「くじの堺の助河を以ちて道前と為し、……陸奥の国の石城の郡の苦麻の村を、道後と為しき」。つまり、常陸国と陸奥の境界が、助川から苦麻村までだったということで、久慈郡は、東国の対奥州の最前線であった。

④長幡部が特殊な布を献上した。
『常陸国風土記』に記されている「特殊な布」とは、三好氏によれば、下のような布である。
ⅰ)天から地上に下った珠売美万(スメミマ)命(ニニギノミコト)と関係する
ⅱ)「扉を閉ざした暗い部屋」で機をを織る
ⅲ)完成した布はそのまま衣服となる
ⅳ)強い平氏が強靱な刀で切っても切断できない

この布とは?
三好氏は、この布は、大嘗祭の「真床襲衾(マドコオブスマ)」に違いない、と推測する。
そして、縦糸を麻で、横糸を絹で織れば、刀で切断できない強度になる。
麻と絹で織った布は、朝鮮半島渡来の絹と、日本土着の麻の組み合わせだから、天孫降臨の衣服にふさわしい、とする。

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2008年8月 4日 (月)

有宇中将と藤原宇合

『日光山並当社縁起』に書かれている「ものがたり」は、架空の「ものがたり」なのであろうか?
『縁起』は、猿丸大夫の祖父・有宇中将について、「聖武天皇の御世、神亀五年に始まる」としている。
ところで、神亀5(728)年とは、どのような年だったか?
『続日本紀』の神亀5年8月1日、聖武天皇は、次のように勅す(宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206))。

朕はおもうところがあって、この頃鷹を飼うことに気が進まない。天下の人もまた鷹を飼わないようにすべきである。後に勅があるのを待って、それから飼うようにせよ。もし違反者があれば違勅の罪を科せよ。このことは天下に布告して皆に承知させよ。

唐突感を拭えない勅であるが、8月21日には次のような勅を出している。

皇太子の病が日を重ねても癒らない。三宝(仏法僧)の威力に頼らなければ、どうして病気をのがれることができようか。そこで慎んで観世音菩薩像百七十七体をつくり、あわせて観音経百七十七部を写し、仏像を礼拝し経典を転読して、一日行道(経をとなえながら仏像や仏殿のまわりをめぐる行)を行いたいと思う。この功徳によって皇太子の健康の恢復を期待したい。

鷹の飼育禁止の勅も、皇太子の病気恢復を祈願するためのものだったと推測される。
ところで、有宇中将が東国へ旅に出たのは、鷹狩に熱中して天皇の怒りを買ったことが原因だった(08年8月1日の項)。
とすれば、有宇中将の「ものがたり」は、史実を反映したものではないか?
神亀5(728)年の翌天平元(729)年には、「長屋王の変」が起きる(08年6月17日の項)。

藤原不比等が娘たちを入内させて(文武天皇夫人・宮子、聖武天皇皇后・光明子)権力を握る構想が着々と実現しつつあった。
その障壁となろうとしたのが、長屋王だった。
長屋王と藤原氏との対立は、皇太子が1歳で亡くなってしまったことにより、頂点に達する。
それは、聖武天皇の後嗣問題(08年6月14日の項)と関連していたのではないか、と推測される。
無理をして、生後1か月も経たぬうちに立太子させたのも、藤原氏に係わる皇統を維持するためであった。
その皇太子が薨じてしまったことにより、長屋王が即位する可能性もあり得る。
「長屋王の変」は、藤原氏側にとっては、命運を賭けた勝負だった。

「長屋王の変」で、藤原氏側(聖武天皇側)の武力行使の中心にいたのが、藤原四子の中の三男・宇合(式家)だった。
宇合(ウマカイ)は、もともと馬養(ウマカイ)と表記されていた。
猿丸大夫は実在した!!―百人一首と猿丸大夫の歴史学!!』創風社出版(0010)において、三好正文氏は、「縁起」の主人公・有宇中将が、「愛馬を乗りこなして奥州へ旅に出たこと、「宇合」と「有宇」に共通する「宇」から、有宇中将のモデルは、藤原宇合ではないか、という仮説を立てる。

『続日本紀』には、養老3((719)年7月13日の条に、「常陸守・正五位上の藤原朝臣宇合に安房・上総・下総の三国を管掌させ」とあり、神亀元(724)年4月7日の条に、「海道の蝦夷を征討するため」に、「式部卿・正四位上の藤原朝臣宇合を持節大将軍に任じ」とある。
宇合の東国・奥州での生活は、5年4か月であり、有宇中将が、6年間、奥州の朝日姫君のもとで暮らした、という「縁起」の記述と一致している。

そして、何よりも、宇合は、持節大将軍に任ぜられた時点では、正四位上(中将に相当)だったのが、征夷の功績により、神亀2(725)年1月22日には、従三位(大将に相当)に昇格している。
有宇中将もまた、6年間を東国・奥州で過ごした後、大将に出世している。
つまり、「有宇中将のモデルは、藤原宇合である」という三好氏の仮説は、立証されたわけである。

なお、「長屋王の変」に関連して、2月17日に、「外従五位下の上毛野朝臣宿奈麻呂ら七人は、長屋王と意を通じていたことがとがめられ、いずれも流罪に処せられた。その他の九十人はすべて放免された。」とある。
三好氏は、上野国を故地とする宿奈麻呂の記事は、下野の日光山の神と上野の赤城山の神が領土争いをしたという「縁起」の「ものがたり」を想起させるが、これは偶然だろうか、としている。

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2008年8月 3日 (日)

「百人一首」と「百人秀歌」の関係

猿丸大夫は実在した!!―百人一首と猿丸大夫の歴史学!!』創風社出版(0010)において、三好正文氏は、「百人2_2 一首」の配列における定家の意図を、表のように整理する。
そして、三好氏は、「百人秀歌」は、西園寺公経の北山別荘の障子を飾った色紙を起源とするのではないか、という仮説を提示している。

西園寺公経は、幕府側の立場を鮮明にした。それに配慮して、後鳥羽上皇と順徳天皇の歌が除かれているのではないか。
そして、何よりも、「秀歌」の末尾101番は、西園寺公経の作品である。
「秀歌」は、二首一対の趣向とされているが、敢えてペアのない101番を設定したのは、それが贈る相手であるからではないか。
公経は、「並ぶ者のない天下人」という含意も込められているのだろう。

「一首」と「秀歌」では、98人が重複しているが、その中で、源俊頼の歌だけが異なっている。
「一首」
うかりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬ物を
「秀歌」
山さくらさきそめしよりひさかたの くもゐにみゆるたきの白糸

ところで、「一首」と「秀歌」に共通の公経の歌は次の歌である。
花さそふ嵐の庭の雪ならで ふり行くものは我が身なりけり

つまり、老境に入った公経が、我が身を散り行く桜に喩えているが、「秀歌」の俊頼の歌が、頼綱に贈られた「一首」の歌と異なることについて、「ふりゆく花」ではなく、「咲き初めた山桜」を撰んだこと、「滝の白糸」は、自分の山荘の「白銀製の滝」のことを指しているのだと解して、喜んだであろう、というのが三好氏の推論である。
こういう理解に立てば、類似した「一首」と「秀歌」の存在理由と、その差異が納得できる。

2_3三好氏の推論によれば、「一首」と「秀歌」は、従来問われてきたような、いずれが先(原型)か、という問題ではなく、ほぼ同時期の撰であり、撰歌の違いは、贈る相手を意識して変えたものである、ということになる。
1221年の「承久の乱」は、時代を大きく転轍するものであったが、渦中の人物たちの人生にも大きな影響を与えた。
西園寺公経、宇都宮頼綱、藤原定家は、その動乱の時代を生き抜いたいわば「勝ち組」である。

文暦2(1235)年、定家74歳、頼綱63歳、公経64歳であった。
定家の小倉山荘(現在の二尊院のあたり)と頼綱の中院山荘(現在の厭離庵)は、300mほどの至近距離である。公経の西園寺(金閣寺)も5kmほどの距離である。
「百人一首」は、律令国家の成立から崩壊までを、天智天皇から順徳天皇までの名歌で総括したものということができる。

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2008年8月 2日 (土)

「百人一首」を定家はどう撰んだか?

蓮生入道に撰歌を任された定家は、宇都宮氏の縁起を思い浮かべながら、撰歌を進めたであろう。
以下は、三好正文『猿丸大夫は実在した!!―百人一首と猿丸大夫の歴史学!!』創風社出版(0010)による定家の撰歌過程である。
①宇都宮氏ゆかりの「日光山の縁起」の主役・猿丸大夫の歌を採用する。
②「縁起」の「鹿に導かれて日光山に入る猿丸大夫」に因んで、鹿の歌を採用する。
③『古今集』では「よみ人知らず」だが、藤原公任が『三十六人撰』で「猿丸大夫作」としている「奥山に……」の歌を採用する。
④父・俊成の歌も鹿の歌を採用する。「世の中よ……」の歌は、猿丸大夫の歌とも印象が似ている。類似した2つの歌を選ぶことで、藤原家と宇都宮家の親密な関係が永続することを願う。
⑤宇都宮氏もかつては藤原氏であり、藤原氏の氏神は奈良の春日大社で、神の使いは鹿である。

藤原定家が、猿丸大夫と藤原俊成が同工異曲の歌が撰ばれていることについて、否定的な見解が多かった(08年7月25日の項)が、定家は意図して同工異曲の歌を撰んだというのが三好氏の見解である。
頼綱と定家の関係、宇都宮氏の神主家としての歴史、『日光山並当社縁起』の「ものがたり」等々を勘案すると、猿丸大夫の撰入や「奥山に……」と「世の中に……」の「鹿」を主題とする撰歌は、自然であるし、三好氏の説明からすれば必然とも思える。

ところで、「百人一首」の配列には、どのような意味があるのだろうか?
基本的には、歌人を時代順に並べたものとされる。
そして、冒頭と末尾については、次のような対応関係がある。

「1・天智天皇」と「2・持統天皇」は、親子で、律令国家形成に貢献。
「99・後鳥羽上皇」と「100・順徳天皇」も親子で、律令国家崩壊(武家政権の確立)に直面。

「3・柿本人磨」と「4・山部赤人」は、『万葉集』(古代歌謡成立期)の代表的歌人。
「97・藤原家隆」と「98・藤原定家」は、『新古今集』(当代)の代表的な歌人。

2さらに、三好氏は、次のような対応関係を指摘する。
「5・猿丸大夫」と「96・入道前太政大臣」の対応。
「96・入道前太政大臣」とは、藤原(西園寺)公経のことで、「百人一首」には、次の歌が撰ばれている。

花さそふあらしの庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり

1221年の「承久の乱」は、北条義時・泰時親子の鎌倉幕府に、後鳥羽上皇を中心とする京都の公家政権が戦いを挑んだものだった。
結果は、幕府側の圧勝で終り、後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳天皇は配流され、京都は六波羅探題の支配下に入って、武家政権が確立した。
公経は、源頼朝の妹婿・一条能保の娘を妻としていたことから、鎌倉方と天皇方の調整役を務めていたが、乱に際して、情報を鎌倉方に流し、鎌倉方圧勝を導いた。
その判断力によって、公経は太政大臣にまで上り詰めることになる。
公経の北山の別荘は西園寺と呼ばれ、やがて西園寺公経と呼ばれるようになる。西園寺は、後に足利義満によって、鹿苑寺金閣に改造される。
西園寺公経の一族は太政大臣を歴任するが、1467年の「応仁の乱」を機に、伊予国宇和郡に下向して、戦国大名・西園寺氏となる。

藤原公経と定家は、定家の妻が公経の姉という関係にあった。
つまり、宇都宮頼綱と西園寺公経は、共に定家にとって身近な姻族であった。そしてこの二人の強力な支援が、定家・為家親子の栄達を可能にしたのだった。

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2008年8月 1日 (金)

『日光山並当社縁起』

猿丸大夫は実在した!!―百人一首と猿丸大夫の歴史学!!』創風社出版(0010)の著者・三好正文氏は、奥付によれば、愛媛県南予で、野村高校・宇和島東高校・南宇和高校・宇和高校などの高校の教諭を勤めている(以下の系図と絵巻は、同書から引用)。Photo
宇和島市には、江戸時代の河川改修に関する古文書の調査で、伊達博物館に行ったことがある。
といっても、問題意識も余りなく、「なぜ宇和島に伊達?」という程度の知識しかなかった。
宇和島藩は、慶長19年(1614)年伊達政宗の庶長子の秀宗が入封し、廃藩置県まで伊達氏が治めたのだった。
伊達博物館に保存されている絵地図は、状態も良く見事なものだったので、参考までに掲出しておく。

宇和島水産高校の練習船「えひめ丸」がハワイ沖Photoで沈没する事故の起きる直前のことだった。
貧乏旅行だから、宇和島湾に面した安い民宿に宿泊したのだったが、素晴らしい料理だったことを思い出す。

それはともかくとして、下野宇都宮氏の由来を絵巻物にした縁起書『日光山並当社縁起』は、本家の下野宇都宮家から原本が失われてしまっている。
しかし、愛媛県大洲市五郎地区の宇都宮神社に、もう一冊の原本が保存されている。
三好氏によれば、幅33cmで全長30mに達する長大なもので、室町時代の成立時のままの姿で保存されており、大洲市の有形文化財に指定されている。
三好氏は、この『縁起』の核となる「有宇中将物語」の部分に、猿丸大夫の謎を解く鍵があるとする。

詳細は上掲書に譲るとして、「あらすじ」の概要を記す。
都の有能な貴族「有宇中将」は鷹狩に熱中して、天皇の怒りを買い、東国へ旅に出る。
奥州で中将は、「朝日長者」の屋敷に立ち寄って、「朝日姫君」と深い仲になって、6年間を過ごす。
都の母が亡くなった中将は都を目指すが、途中で倒れ辞世の手紙を馬と鷹に託す。
都では、弟の「有成少将」を派遣し、少将は日光山で兄の亡骸を発見する。鷹の運んだ手紙を見て旅に出た姫君も死んでしまい、少将は二人の亡骸を日光山に埋葬する。
閻魔大王の判断でこの世に帰った中将と姫君は男の子・馬頭御前をもうける。馬頭御前は、成人して都で中納言になる。
2_6馬頭御前は、奥州の祖父・朝日長者を訪ねた際に、ある女房と仲良くなって男子をもうける。
その子は、顔が醜かったので奥州の小野の地で育てられる。それが猿丸大夫である。
有宇中将は、都で大将に上り詰め、その妻・朝日姫君、子どもの馬頭御前と共に、死後日光山の神となる。中将が「男体権現」、姫君が「女体権現」、馬頭御前が「太郎権現」である。
ある時、日光山(下野)と赤城山(上野)との間で領地争いが起きるが、常陸国の鹿島大明神が、猿丸大夫が日本一の弓名人になっており、彼の力を借りることを進言する。
女体権現は、鹿に変身して、奥州から日光山まで猿丸を導き、猿丸に協力を依頼する。
協力を約した猿丸の目の前に巨大なムカデが出現するが、猿丸大夫は見事にムカデを射抜く。
男体権現は、猿丸大夫を日光山三神を奉る神主とすることを告げる。
2_7猿丸大夫は、清和源氏・桓武平氏・藤原氏という貴種に繋がる共に、弓の名人という武力を兼ね備えた存在として、下野に君臨する宇都宮氏の象徴的存在ということになる。
鎌倉以後、日光山は武家社会にとって特別の存在だった。江戸幕府を創設した家康は、日光山に葬られ、東照大権現となって、江戸幕府を守護する。
家康の死後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使・日光例幣使が通った道が、日光例幣使街道として整備された。
現代でも、世界文化遺産として多くの観光客を集めている。

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