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2008年8月31日 (日)

2人の軽皇子?

柿花氏の紹介する『大日本哥道極秘伝書』には、次のように記されている(08年8月15日の項

(一)傳に曰喚子鳥とは孝謙天皇を申奉る也。其大意は孝謙天皇は女帝にて座ス也。其頃宮中に猿丸太夫と申者まします也。
(二)猿丸太夫も元明天皇の御にて座ス事明らか也。

また、次のようにも書かれているという(08年8月18日の項)。

傳に曰、人丸は文武天皇の御子と云々。哉趣は文武寵愛の軽き女房胎みたるを、軽女房故出雲の国の押領司の右の女房下し給ふなり。(後略)

(中略)人丸文武天皇の王子にて座す。人丸傳の所に記すがごとし。深秘不浅事なり……。

元明天皇の「御」とは、「元明天皇の子」ということか?
元明天皇には、軽皇子・氷高皇女・吉備皇女の3人の子供がいたとされ、それ以外に隠し子がいたとは考えにくい。
とすれば、猿丸大夫は誰の子なのか?

柿花仄氏は、猿丸大夫は軽皇子の子供ではないか、と推測する。
つまり、当時の宮中には、老人の文武(軽皇子の身替り)と若い本物の軽皇子がいた、ということである。
老人の文武が持統・不比等と連携して宮中におり、若い軽皇子は、元明の御所で生活していたのではないか。

草壁妃の元明(阿閉皇女)は、軽皇子がいる限り、草壁の死や文武の即位のからくりを暴露することはしないだろうから、持統や不比等は、軽皇子を生かしておく方が得策である。
その軽皇子が、猿丸大夫の父親だとすれば、猿丸大夫のことを元明天皇の御といっても不思議ではない。
つまり、次のような図式である。

「軽皇子A:文武王・高齢」←→「軽皇子B:草壁の子・若年」
       │                 │
  「人麻呂(=人丸)」          「猿丸」

驚くべき理解であるが、「祖父」の国風諡号を持つ文武が、新羅文武王だとすれば、諡号の不思議さは解消する。
小松崎文夫氏は、『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)において、軽皇子が草壁皇子の死に関与していた可能性に言及している。
この場合の軽皇子が、「射芸」にすぐれていたことも、新羅文武王であれば不思議ではない。
持統の頻回の吉野行幸の謎も、吉野に隠棲している文武王と、何らかの目的で会うためであったとすれば、それも納得できる。

果たして、文武王と草壁の子が、同じ軽皇子を名乗る別人として存在したのか?
柿花仄氏は、。『帋灯柿本人磨呂 』東京経済(0008)において、「軽」は、木梨軽皇子・軽大娘皇女に代表されるように、双子を意味する言葉だとしている。
実際に、文武紀には、老人福祉と並んで、双子・三つ子・四つ子等の多胎児に気を配った記事が数多い。

「文武-人麻呂」「軽皇子-猿丸」の親子関係は別としても、高齢の文武天皇と若年の軽皇子とがいたとすれば、正史が曖昧にせざるを得なかった草壁皇子の薨去の事情や、文武天皇の年齢なども理解できる。
また、文武の正統性を強調しすぎると思われるほど強調していることも理解できる。
とすれば、大宝改元は、文字通り新たな王朝の創始だったことになるが、文武王と草壁皇子の子供の軽皇子を同一人として扱うことにより、天武-持統-文武という血統の論理が保持されていることにもなる。
しかし、現時点では、想像力を働かせればそういう可能性もあり得る、という「可能性の論理」に留まっているのではないかと思う。

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