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2008年7月 2日 (水)

安積親王に対する家持の挽歌

『万葉集』巻3に、家持が安積親王の死を悼んで作った挽歌が収載されている。

  十六年甲申春二月、安積皇子の薨りましし時、内舎人大伴宿禰家持の作れる歌六首
かけまくも あやにかしこし 言はまくも ゆうしきかも わが王(オホキミ)皇子(ミコ)の命(ミコト) 萬代に 食(ヲ)したまはまし 大日本(オオヤマト) 久邇(クニ)の京(ミヤコ)は うちなびく 春さりぬれば 山邊には 年魚子(アユコ)さ走り いや日異(ヒケ)に 栄ゆる時に 逆言(オヨヅレ)の 狂言(タハゴト)とかも 白たへに 舎人装ひて 和豆香山(ワヅカヤマ) 御輿(ミコシ)立たして ひさかたの 天知らしぬれ こいまろび ひづち泣けども せむすべも無し  (3-475)
  反歌
わが王(オホキミ)天(アメ)しらさむと思はねば凡(オホ)にぞ見ける和豆香(ワヅカ)そま山  (3-476)
あしひきの山さへ光咲く花の散りぬるごときわが王かも  (3-477)
  右の二首は、二月三日に作れる歌なり。
かけまくも あやにかしこし わが王皇子の命武士(モノノフ)の 八十伴(ヤソトモ)の男(ヲ)を 召し集へ 率ひ賜ひ 朝猟に 鹿猪ふみ起し 暮猟に 鶉雉(トリ)ふみ立て 大御馬(オホミマ)の 口抑(オ)し駐(トド)め 御心を 見し明らめし 活道山(イクジヤマ) 木立の繁に 咲く花も 移ろひにけり 世の中は かくのみならし ますらをの 心振り起し つるぎ刀(タチ) 腰に取り佩(ハ)き 梓弓 靭取り負ひて 天地と いや遠長に 萬代に かくしもがもと たのめりし 皇子の御門の 五月蝿(サハヘ)なす 騒く舎人は 白たへに 服取り著て 常なりし 咲(エマ)ひ振舞 いや日異に 変らふ見れば 悲しきろかも  (3-478)
  反歌
愛(ハ)しきかも皇子の命のあり通ひ見(メ)しし活道(イクヂ)の路は荒れにけり  (3-479)
大伴の名に負ふ靭帯びて萬代にたのみし心いづくか寄せむ  (3-480)
  右の三首は、三月二十四日に作れる歌なり。

家持は、従六位の27歳だった。
天平13(741)年の3月には、五位以上の者は旧都に住んではいけない、という勅が発せられ、家持はそれを免れていたが、仲間の居所が把握し難い状況にあった(小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)。

聖武にとっては、安倍内親王も安積親王もどちらも我が子であることに変わりはなかった。
皇嗣をめぐる争いをどう感じていたのだろうか?

市原王の次の歌は、古代朝鮮語の音が織り込まれているという説がある(小松崎:上掲書)。

一つ松幾代か歴ぬる吹く風の聲の清きは年深みかも  (6-1042)
一松幾夜可歴流吹風乃声之清音年深香聞
ピドゥプサ・デガジネラ・チュウィガセネ・ゴエジマルジャ・ドゥジボガセコモ
(今は、不比等とその子房前派に頼って・過ごすのがいい・寒さがしのげます・絡まないようにしよう・今は咎めが手強くて手に負えない)
(『記紀・万葉の解読通信』三七号・李寧熙・訓訳)

市原王が、「声之清音(ゴエジマルジャ:絡まないようにしよう)」と詠んだ1か月後のことである。

閏正月十一日、天皇は、難波宮に行幸された。知太政官事・鈴鹿王と民部卿藤原仲麻呂が留守官に任じられた。この日、皇子は脚の病のため桜井の頓宮から恭仁京に還った。その皇子が薨じたのは、翌々日十三日であった。

家持の歌の二月三日に作れる歌とあるのは、命日の閏一月十三日から数えて三七日(ミナヌカ)の忌日にあたる。

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