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2008年7月 5日 (土)

仲麻呂体制の確立

今年は、四川大地震や岩手・宮城内陸地震など、地震のニュースが多いが、天平17(745)年も地震の多い年だった(中川収『奈良朝政争史』教育社(7903))。
『続日本紀』に「地震があった」と記されている日を抽出すると、以下の通りである(宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈中〉』講談社学術文庫(9211))。

五月一日/五月三日/五月四日/五月五日/五月六日/五月七日/五月八日/五月九日/五月十日/
五月十六日/五月十八日/七月十七日/七月十八日/八月二十四日/八月二十九日/九月二日

確かに、連日のように日本列島は揺れていたらしい。
特に、五月二十五日の条には、「この月の地震の多発は異常であって、度々地面に亀裂が生じ、そこから泉水が湧出した」と記されている。

しかし、5年間のブランクを経て宮都として復活した平城京は、活気に満ちていた(中川:上掲書)。
大宰府が復活し、玄昉が観世音寺造営のために、筑紫に追われた。
諸兄の時代は終焉しつつあったということになる。

知太政官事の鈴鹿王(高市皇子の子/長屋王の弟)が9月4日に亡くなると、皇親政治から新しい政治体制に移行せざるを得ない状況になった。
聖武天皇は、8月に大仏造顕を甲賀寺から大和国添上郡金里(現在の東大寺)に移して、難波に行幸した。
難波についてほどなく病臥の人となった。
9月19日には、平城および恭仁の留守に宮中の守りを固めることが命じられ、孫王らが難波へ呼び集められ、鈴印なども移された。
不測の事態を想定した体制だった。

聖武の不予は人々に不安な情勢をもたらしたが、それを機会として勢力の挽回を図ろうとしたのが、反仲麻呂派だった。
その中心人物が、活道が岡での酒宴のメンバーの1人だった橘奈良麻呂である。
古来からの武の氏族だった大伴・佐伯氏らに結集を呼びかけ、武力による政権奪取を目指した。
奈良麻呂は、「皇嗣を立つることなし」と、阿倍内親王を皇太子として認めないかのような発言をしている。
しかし、これは中川:上掲書では、阿倍内親王を中継として、次の皇嗣について問いかけたのだろう、としている。

奈良麻呂は、黄文王を立てるべし、としている。
黄文王は、長屋王の遺児であり、反仲麻呂のシンボルとしてノミネートされたものだろう。
病弱の聖武は、廬舎那大仏の造顕にひたすら注力するといった事態だった。
平城の東に移転された造仏事業は、突貫工事で進められていた。
天平19(747)年9月には、いよいよ本尊の鋳造が開始され、寺の名前も東大寺と定められた。
しかし、天候不順による不作が、飢饉に近い状態をもたらし、急遽給米を実施しなければならない事態となった。

天平20(748)年4月には、前年の暮れから病臥にあった元正太上天皇が薨去し、6月には南家藤原夫人も薨じ、さらに翌年2月には、大僧正行基が没して、聖武は悲嘆の極に達する。
行基は、聖武が大仏造顕を発想する契機となった河内国知識寺を建立した僧であり、大仏造顕についても惜しみない協力をしていた。

大仏の鋳造が進行するに従い、鍍金の原料をどうするか、という問題が生まれていた。
鍍金を施さない大仏は、仏とは言えない。
そんなときに、陸奥の国から、産金の報せが届き、聖武を驚喜させた。
聖武は、阿倍皇太子を伴って東大寺に行幸し、大仏に対座して、「三宝の奴と仕えまつる天皇」と称して、産金を感謝する法要を行った。
産金を瑞祥として、天平21年を天平感宝元年として改元した。

天平感宝元(749)年7月、阿倍内親王が即位して孝謙天皇となった。32歳の独身女性だった。
孝謙天皇が即位して1か月後の8月10日、大規模な人事異動があった。
大納言正三位の仲麻呂は、紫微令の兼務を発令された。
さらに1か月後の9月7日に、紫微中台と称する官制が具体的に定められた。
長官を令とし、弼、忠、疏の四等官制で総数22名で構成される組織である。
長官の相当位階は正三位で、太政官につぐ位置を占めた。
孝謙天皇即位後の人事であり、新体制の中核組織である。
紫微中台は、光明皇后の皇后宮職を改めたもので、唐の玄宗のときの紫微省と高宗および則天武后のときの中台、あるいは交渉のあった渤海国の中台省などの称号の影響を受けたなどとされる(中川:上掲書)。

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