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2008年7月 8日 (火)

聖武天皇をめぐる謎

多くの人が、奈良時代といえば、天平文化を思い浮かべるだろう。
729年の元年から、749年の21年まで、およそ20年間の期間であり、聖武天皇の治世である。
聖武天皇も、大仏造顕の立役者として、小・中学校の社会科の時間以来の馴染みである。
澤田洋太郎『異端から学ぶ古代史』彩流社(9410)によれば、文部科学省が『中学校学習指導要領』で、社会科の歴史分野で教えなくてはならない人物20名の1人として指名されているという。
しかし、その実像をイメージしようとすると、謎が多く、捉えどころが難しい。
以下、澤田氏の上掲書を参照しつつ、聖武天皇の謎を挙げてみる。

1.誕生日
『続日本紀』には、大宝元(701)年に以下の記述があるだけである。

この年、夫人の藤原氏(宮子)が皇子(首(オビト)皇子、後の聖武天皇)を産んだ。

大宝元年は、大宝律令が完成した律令国家としての記念すべき年である。
『続日本紀』の大宝元(701)年正月一日の条は、「文物の儀、是に備れり」と、誇らしげな記述で知られる。
現在、藤原宮跡が発掘調査されており、貴重な史料が得られている(07年9月12日の項12月1日の項08年1月1日の項)。
藤原京あるいは藤原宮のイメージが次第に明確なものにされつつあると言えるが、藤原氏待望の皇子の誕生の割には、『続日本紀』の記述は素っ気ないのではなかろうか。

2.即位までの経緯
『続日本紀』の元明天皇紀和銅7(714)年に以下の記事がある。

六月二十五日 (聖武天皇)が元服した(十四歳)。

即位したのは、神亀元(724)年の2月であるから、10年の間即位しなかったことになる。
この間、霊亀元(715)年9月には、元明天皇から氷高皇女(草壁皇子の皇女)に譲位が行なわれている。
この時点で、皇統直系男子で15歳のの首皇子が即位できなかった事情は何だったのだろうか?

3.戦々兢々
神亀2(725)年の記事である。

九月二十二日 次のように詔した。
朕がきくところでは、昔の賢明な王は
……
朕は徳少なく才能がうすい身で皇位をうけつぎ、戦々兢々として、夕べになるとおそれつつしんで、一物でも失うところがなかったかと案じ、いのちあるものの生活が安らかであるようねがっている。
……
昔、殷の高宗は徳を修めて、雉が鳴く災を消し(災の前兆として雉が鳴くと考えた)、宋の景公は仁政を行なって、熒惑(ケイゴク:火星)の異状をとどめた。遥かに前人の行ないの跡をみると、どうして恐れかしこむ心を忘れてなろうか。そこで所司に命じて三千人を出家入道させ、同時に左右両京および大倭(ヤマト)国の管内の諸寺に、今月の二十三日から七日の間経典を転読させよ。この奥深い善行の功徳で願わくば災異を除きたい。

当時災厄が多く、神仏への祈祷が頻繁に行なわれていたとしても、統治の第一人者が、「戦々兢々」として、というのはいささか大げさではないだろうか? 「戦々兢々」という特別の事情が何かあったのだろうか?

4.長屋王の変
左大臣長屋王は、左道を学んで国家を傾けようとしたと誣告され、自尽せざるを得なかった。政治の最高責任者ともいうべき長屋王の事件について、聖武天皇はどう見ていたのだろうか?

5.皇太夫人宮子(母)との対面
藤原四兄弟が次々に病死した天平9(737)年のことである。

十二月二十七日 大倭国を改めて大養徳国と書くことにした。
この日、皇太夫人の藤原氏(宮子)が皇后宮に赴いて、僧正の玄昉法師を引見した。天皇もまた皇后宮に行幸した。皇太夫人が憂鬱な気分に陥り、永らく常人らしい行動をとっていなかったためである。
夫人は天皇(聖武)を出産以来、まだ子である天皇に会ったことがなかた。玄昉法師が一たび看病するや、おだやかで悟を開かれた境地となった。

聖武天皇が701年生まれだとすれば、宮子は36年間も常人らしい行動をとっていなかったことになる。玄昉が看病しただけで治癒したという実態はどういうことだったのか?
その間、母子が対面していないということはどういうことか?

6.謎の彷徨
天平11(740)年の藤原広嗣の乱が起きた年、聖武天皇は伊勢行幸をきっかけに、平城京を後にして、4年半の間、各地を遍歴する。その理由は何だったのか?

7.仏教への打ち込み
天平12(741)年の「国分寺造立の詔」、天平15年の「盧舎那大仏造立の詔」など、国力を傾けるまでに仏教に帰依しようとした背景は何か?

8.安積親王に対する態度
聖武天皇は、光明皇后生んだ皇子を1歳で亡くしているが、その年に、夫人の県犬養広刀自が安積親王を生んでいる。
聖武天皇にとっては大事な皇子と考えるのが自然だと思われるが、17歳で不自然と考えられる状況で夭折してしまう。
安積親王に対して、どういう感情を持っていたのだろうか?

9.譲位の謎
天平勝宝元(749)年に聖武天皇は出家し、娘の皇太子(阿倍内親王)に譲位する。女性の立太子が不自然であることはおくとしても、49歳で譲位しなければならない必然性がよく分からない。

これらの数々の謎に合理的な解釈はあり得るのだろうか?

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