風天の詩学…⑥「寂び」という美意識
「話の特集句会」における渥美さんの句友の声優・白石冬美さんは、次のように言っている。
私も単独生活が長いですが、自分でカギを開ける部屋にいそいそと帰るのは、1人がいちばんホッとするから。孤独とは一人の王国、孤独と引き換えの自由がある。渥美さんの句には寂しさ、哀しさの持つ一人のステキさを感じます。一人は必ずしも寂しくない。渥美さんは決して寂しくはなかったと思います。
森英介『風天―渥美清のうた』大空出版(0807)に次のような一節がある。
霜ふんでマスクの中で唄うたう
月ふんで三番目まで歌う帰り道
行く年しかたないねていよう
冬の朝ひとり言いって着がえてる
ただひとり風の音聞く大晦日
夢で会うふるさとの人みな若く
たけのこの向う墓あり藪しずか風天句に難しい言葉は一つもなく句意も明快。分類が難しいが、心に響く句をここに集めてみた。どの句にも通底するのは孤独感のにじむ静かな哀愁である。
上掲書では、風天句によく出てくるフレーズとして、以下を挙げている。
いつだって/誰もいない/どこへゆく/しかたない/これからどうする/あっけなく/ぽつんと……
人は1人では生きられない。しかし、1人になりたい時間があることも確かである。
本人が寂しかったかどうかは別として、風天句の特徴の一つに「寂しさ」の感覚があることは確かなように思う。
俳句の世界を表現する言葉として、「わび」とか「さび」ということが言われる。
私にそれを解説する能力はないが、それぞれ「侘しさ」「寂しさ」に由来する言葉だろう。
小西甚一『日本文藝の詩学-分析批評の試みとして』みすず書房(9811)に、『「さび」の系譜』という文章が収載されている。
小西さんは昨年亡くなられたが、受験参考書として書かれた『古文研究法』は、多くのファンを持つ受験参考書の枠を超えたロングセラーである。
小西さんの『「さび」の系譜』を大胆に要約してみる。
『全唐詩』を通覧してみると、王維の頃から、主観的な心情ではなく、景色を対象とする描写型の詩句に「寂」の字が出てくるようになる。
そして、それは「厭わしい情景」として扱われるのでなく、共感できる趣の景色として、そのなかに一種の「美」を認める態度になってくることが特徴である。
和歌のなかで「さびし」とか「さぶ」とかの語が用いられるときも、他から疎外された孤独感をあらわすのであって、その点、漢語の「寂寞」や「寂寥」と同じことである。
唐詩や和歌における「寂」ないし「さびし」「さびたり」には、とりわけ「空」の理を中心とする仏教という共通因子が存在している。
王維は著名な仏教信者であり、平安時代以降、中世における精神的な拠りどころは仏教だった。
以下は、結論部分の引用である。
「寂」ないし「さびし」「さびたり」をめぐって唐詩から芭蕉の句まで見てくると、その基底には仏教的な「静慮」の流れがあり、起伏を繰り返しながらも、次第に高度な描写型の表現へと進んでいったことがわかる。しかし、そのなかでも、禅寂的な「さび」をきわめたあと、もういちど日常意識の「さびし」との関わりにおいて永遠に新しい「人間の詩」をうち建てようとしたのは、芭蕉ひとりだと思われる。このような芭蕉晩年の志向は、親近する弟子たちにさえもよく理解されなかったらしい。
この道や行く人なしに秋の暮
この句には、ひとり高悟の道を行く芭蕉の「さびしさ」がこめられている。芭蕉の志向は狭義の「さび」を去って、もっともっと広くはるかな詩の「枯れ野」を、ひとり駆けめぐっていたのである。
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