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2008年7月11日 (金)

大伴家持の生涯

大伴宿禰家持は、『万葉集』の巻末の歌の作者であると共に、最も中心的に編纂に係わったと考えられている(08年6月7日の項)。
家持の生きた時代(08年6月8日の項)は、今まで見てきたように、政争の多い不安定な時代だった。
そのような時代の中で、家持はどのように人生を過ごしたのか。その軌跡を辿ってみよう。

718(養老2)年に生まれたと推測されている。没年は785(延暦4)年だから、68歳まで生きたことになる。
旅人の長男で、母については不詳である(08年6月8日の項)。妻は、坂上大嬢で、子として永主と女子がいる。
727(神亀4)年の冬か翌年の春頃、旅人は大宰帥として筑紫に赴任し、子供だった家持も同行した。
731(天平3)年7月に旅人が死去し、家持は14歳で大伴家の家長としての立場に立つ。

732(天平4)年(15歳)頃から、坂上大嬢や笠女郎など多くの女性たちと相聞を交わすようになったことが、『万葉集』巻4に「笠女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌廿四首(587~610)」「大伴宿禰の和ふる歌二首(611~612)」「山口女王、大伴宿禰家持に贈れる歌五首(613~627)」「大神女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌一首(618)」「中臣女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌五首(685~679)」「大伴宿禰家持、坂上家の大嬢に贈れる歌二首(727~728)」「大伴坂上大嬢、大伴宿禰家持に贈れる歌三首(729~731)」などの相聞歌から推測される。
736(天平8)年9月に、巻8の<1566~1569>「大伴家持の秋の歌四首」を作歌したことが左注によって知ることができる。制作の時期が明示されているのは、この時が最初である。

739(天平11)年頃に、正六位に初叙された。
740(天平12)年10月の聖武天皇の関東行幸(08年6月27日の項)に従駕しており、この年までに内舎人(天皇の身辺の世話や警護等にあたる)に任ぜられたと思われる。
この年の末の恭仁京への遷都に伴い、単身新京に移住した。

742(天平14)年の橘諸兄の旧宅での奈良麻呂主催の宴に参加し、歌を詠んでいる。

もみち葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜は明けずもあらぬか  (08-1591)
  右の一首は、内舎人大伴宿禰家持
  以前は、冬十月十七日に、右大臣橘卿の旧宅に集ひて宴飲せしなり。

743(天平15)年7月の聖武天皇の紫香楽宮への行幸の際には、橘諸兄と共に恭仁京に留まっている。
恭仁京を讃める歌(08年6月29日)などを作っていることから、恭仁京遷都推進派の橘諸兄に近い立場にあったと思われる。
安積親王が藤原八束の家で催した宴に参席して、歌を詠んでいる(08年6月30日の項)から、親王専属の内舎人だったのかも知れない。

744(天平16)年の正月、安積親王の宮があった活道岡で市原王らと宴を催し歌を詠む(08年7月1日の項)が、同じ年の閏1月主君と恃んだ安積親王が急死する。
2月から3月にかけて安積親王を悼む挽歌を詠む(08年7月2日の項)。この後平城京への帰宅を命じられたと思われ、<3916~3921>の題詞に、「十六年四月五日、ひとり平城の故き宅に居て作れる歌六首」とある。

746(天平18)年3月、宮内少輔に任じられるが、3か月後の6月には越中守を命じられる。
9月に弟の書持の死を悼む哀傷歌を詠む(17-3957~3959)。
以後758(天平宝字3)年1月の巻末歌まで、『万葉集』は家持の歌日記という体裁である。
749(天平21)年、廬舎那仏造顕にとって重要な金が陸奥国から産出し、「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌一首並に短歌」(18-4094~4097)を作る。
4094の一節の「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みは せじ」を採用した『海行かば』が、昭和の大戦時に、出征兵士を送る歌として作られ、大本営の戦果発表の玉砕時に使われた(08年5月29日の項)。

749(天平21)年7月、聖武天皇は皇太子の阿倍内親王に譲位し、孝謙天皇が誕生する。
751(天平勝宝3)年7月、少納言に任ぜられ、足かけ6年の越中生活に別れを告げる。
753(天平勝宝5)年2月、代表作と目される「春愁三首」を詠む(36歳)。

  二十三日、興によりて作れる歌二首
春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも  (19-4290)
わが屋戸のいささ群竹ふく風の音のかそけきこの夕かも  (19-4291)
  二十五日作れる歌一首
うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲しも独しおもへば  (19-4291)
  春日遅々として、雲雀正に啼く。悽惆(イタ)める意、歌にあらずは、撥ひ難し。よりてこの歌を作り、式(モ)ちて締緒(ムスバホリ)を展(ノ)べたり。但、この巻の中、作者の名字を偁はず、ただ年月所處縁起をのみ録せるは、皆大伴宿禰家持の裁作(ツク)れる歌詞なり。

756(天平勝宝8)年5月、聖武太上天皇が崩御し、遺詔により道祖王が立太子する。
翌年6月、淡海三船の讒言で、出雲守大伴古慈悲が解任された事件に際し、大伴一族に自重と名誉の保守を呼びかける「族を諭す歌」を作る(08年7月6日の項)。

757(天平勝宝9)年1月に橘諸兄が薨去し、4月には道祖王に代わって大炊王が立太子する。
7月、橘奈良麻呂らの謀叛が発覚し、大伴・佐伯氏の多くが連座するが、家持は咎めを受けなかった。
758(天平宝字2)年6月因幡守に任ぜられる。8月には、大炊王が即位して淳仁天皇となる。
翌年の「因幡国庁に饗を賜う宴の歌」が『万葉集』の巻末歌である。

763(天平宝字7)年、藤原宿奈麻呂らと共に恵美押勝(藤原仲麻呂)暗殺計画に連座し、家持は現職解任のうえ、京外追放に処せられる。
764(天平宝字8)年1月、薩摩守に任じられる。
9月、仲麻呂が謀叛を起こし、斬殺される。押勝暗殺計画に連座した者が復権したが、家持は叙位されていない。
10月、上皇が再祚して称徳天皇となる。

770(神護景雲4)年、称徳天皇が崩御し、志貴皇子の子の白壁王が即位して光仁天皇となる。
781(天応元)年4月、光仁天皇が退位して、山部親王が即位して桓武天皇となる。
782(天応2)年閏1月、氷上川継の謀叛が発覚し、家持も連座する。
5月には春宮大夫として復任し、6月には陸奥按察使鎮守将軍を兼ねる。
784(延暦3)年には、持節征東将軍を兼ねるが、8月28日、陸奥国にて死去する(68歳)。
死の直後、大伴継人らの藤原種継暗殺事件の首謀者として家持が関与したとされ、生前に遡って除名処分を受ける。
806(延暦25)年、桓武天皇により種継暗殺事件の連座者を本位に復す詔が発せられ、家持も復権した。

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コメント

お世話になっております。
以前コメントさせていただきました、けんしろうと申します。
私のコメントに対する返答ありがとうございました。
あらためてブログを拝見させていただきました。
やはり豊富な知識から、簡潔にまとめられた情報がとても参考になります。
私のブログにリンクを設定させていただきました。
リンクを設定させていただいたページのURLは
http://memoria.meblog.biz/article/1170016.html
です。
ご迷惑であればご連絡ください。
そしてもしご迷惑でなければ、私のブログと相互リンクしていただけると、これほどの光栄はございません。
ブログ名は
記憶術 絶技!! 使えない記憶術を使える記憶術へ!
URLは
http://memoria.meblog.biz/
です。
なにとぞよろしくお願いいたします。

投稿: けんしろう | 2008年7月12日 (土) 12時18分

けんしろう様

光栄に存じます。コメントさせて頂きましたように、兼ねてから、私自身、記憶という現象に好奇心を持っていました。
もちろん、加齢と共に衰えを感じざるを得ない機会も多いのが現状ですが。
<Links>欄でLinkさせて貰いました。
こちらこそ、今後とも宜しくお願いします。

投稿: 管理人 | 2008年7月12日 (土) 19時10分

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