橘奈良麻呂の変
聖武太上天皇は、天平勝宝8(756)年に薨ずる。
五月二日
この日、太上天皇が内裏の寝殿において崩御された。太上天皇は遺詔して、中務卿・従四位の道祖王(フナドノオオキミ)を皇太子に任命した。
道祖王は、天武天皇の第七皇子の新田部親王の子である。
孝謙天皇への譲位は、皇統が孝謙で途切れることを意味していた。つまり、孝謙の次の皇位後継者を定める必要があった。
天武の後裔から選ぶとしても、候補者は少なくない。
誰にするにしても、反対意見が出てくるのは間違いなかった。
それゆえ、遺詔という形で皇太子を指名する方法を選んだ。
しかし、聖武の遺志は、1年も経たないうちに反古にされてしまう。
天平宝字元(757)年
正月六日 前左大臣・正一位の橘朝臣諸兄が薨じた。
……
三月二十九日 皇太子の道祖王は、服喪中にもかかわらず、淫欲をほしいままにする心があり、教えいましめる勅があっても、ついぞ改めることができなかった。そこで勅により群臣を召し集め、先帝の遺詔(道祖王を皇太子にするとされたもの)を示し、皇太子を廃することがどうであろうかと尋ねた。右大臣以下みな一致して「敢えてご質問の趣旨に反対いたしません」と奏した。この日、道祖王の皇太子の地位を廃し、もとの王に戻し帰宅させた。
四月四日 天皇は群臣を召して尋ね、「どの王を立てて皇嗣とすべきであろうか」と問われた。
群臣が勅命のみに従う、という意思表示を受けて、孝謙は、大炊王を皇太子に指名する勅を発した。
大炊王は、舎人親王の第七子で25歳だった。皇統が、新田部親王の系統から舎人親王の系統に変更したということになる。
大炊王は、仲麻呂の亡き長男真従の妻だった粟田諸姉と結婚していたから、仲麻呂と大炊王は義理の親子という関係にあった。
大炊王は、仲麻呂の邸宅の田村第に住んでおり、仲麻呂ともっとも関係の深い皇族であった。
アンチ仲麻呂派にとっては、許し難い専横である。
しかも6月16日の人事によって、アンチ仲麻呂派の分断が図られた。
中心に位置していた橘奈良麻呂は、兵部卿から右大弁に降格され、軍事関係のポストを外された。
大伴古麻呂は、陸奥按察使兼陸奥鎮守将軍として、陸奥国に飛ばされた。
六月二十八日 これより先、去る天平勝宝七歳冬十一月に太上天皇(聖武)が病臥された時、左大臣橘朝臣諸兄の側近に仕える佐味宮守が通報して「大臣は酒を飲んだ席で、太上天皇について無礼な言葉を申しました。謀叛の気配があるかと思います」と。太上天皇はやさしくて心がひろく、諸兄をとがめられなかった。のち大臣はこのことを知り、次の年辞職引退した。
……
ここに至って従四位上の山背王がまた次のように告げてきた。
「橘奈良麻呂が兵器を用意して田村宮を包囲することを計画しています。正四位下の大伴宿禰古麻呂も、その内情をよく知って加担しております」と。
山背王は長屋王の子で、反藤原氏のグループに属していたが、決起直前に裏切ったことになる。
7月2日に、中衛舎人の上道斐太都が決定的な密告を仲麻呂に行なった。
上道斐太都を計画に誘った小野東人に対して厳しい訊問が行なわれ、東人の自白に基づいて関係者が逮捕された。
いずれも厳しく問い詰められて自供し、挙兵計画の全貌が明らかになった。
一味は獄に下され、獄中で死ぬ者が多かった。黄文王、道祖王、大伴古麻呂、小野東人らが杖に打たれて悶死した。リンチに近い状態だったのだろう。
橘奈良麻呂の変は、悲惨な結果で幕を閉じ、仲麻呂は反対勢力を一掃した。
奈良麻呂自身がどうなったかの記録はないが、状況からして獄中で死んだことは間違いないと思われる。
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