聖武天皇の血統コンプレックス?
「藤原宮子の大夫人尊号事件」(08年6月13日の項)、「聖武天皇の後嗣問題」(6月14日の項)、「某王立太子とその死」(6月20日の項)、「光明立后」(6月21日の項)と並べてみると、聖武天皇を巡る諸事件については、親族の問題がさまざまな形で係わっていることが分かる。
「長屋王の変」(6月17日の項)や「東国行幸(恭仁京)」(6月27日の項)なども、換言すれば親族の問題ということができる。
つまり、聖武天皇にとっては、血統の問題が常に意識されていたということになる。
聖武天皇の系図を見てみよう(寺沢龍『飛鳥古京・藤原京・平城京の謎 』草思社(0305))。聖武天皇は、持統天皇の孫(草壁皇子の子)の文武天皇と、藤原不比等の娘の宮子との間に生まれた。
持統から文武への皇統は、持統の執念でもあったが(07年9月11日の項)、文武の血統について、疑問視する見方がある(08年2月6日の項)。
それは置くとして、聖武にとっては、母親の血統が問題だったのだろう。
「藤原宮子大夫人尊号事件」にみるように、即位直後に、勅を取り消さざるを得ない事態を招いたことは、聖武にとってはショックなことだっただろう。
誕生間もない皇子を立太子するというのも、聖武が自分の血統による皇統の確立を急いだためだと思われる。
しかも、その皇子が、わずかに1歳で薨じてしまう。
藤原家と係わる皇統を維持しようとする側にとっては、きわめて深刻な事態である。
高市皇子と天智天皇の皇女御名部皇女(元明天皇の同母姉)の子の長屋王は、血統的には聖武よりも上位にあるともいえる。
また、聖武の夫人の県犬養広刀自が、安積親王を出産している。
藤原氏側のとった奇策が、光明子を皇后にするというものだった。
皇后は、皇族から選ばれるとされていた。光明子は、不比等と県犬養三千代の間の子であるから、当然反対意見が出ることが予想される。
例えば、宮子の称号に反対した長屋王が、光明立后を容認するとは思えない。
何としてでも長屋王を排除する必要があった。
誣告による「長屋王の変」である。
「彷徨五年」の始まりの東国行幸は、聖武天皇が、壬申の乱の故地を巡ることにより、天武の嫡系であることを誇示するものであったと考えられている。
こうしてみると、聖武には、自分の血統に関する複雑な思いがあったものと推測される。
天武の嫡系であるという自負と、皇族でない母という負い目。
血統は自分では選ぶことができないが故に、評価が難しい。
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コメント
はじめまして
けんしろうと申します。
日本史について書かれているブログに興味があって訪問させていただきました。
ブログを拝見いたしました。
とても細かく研究されているのですね。
感心いたしました。
また訪問させてください。
よろしくお願いいたします。
投稿: けんしろう | 2008年7月10日 (木) 21時14分
けんしろう様
有難うございます。素人の好奇心で、「とても細かく研究」などというものではございませんが、またお立ち寄りください。
それにしても、分からないことが多すぎます。
まあ、それが魅力なのは多くのことに共通しているのでしょうが。
投稿: 管理人 | 2008年7月11日 (金) 03時43分